しぐれ傘
鯉の宗七
一
佐野屋藤吉は、女房の酌で朝酒を呑んでいた。
いつも四、五杯で機嫌よく酔うのが、今朝はもう二本めをあけようとしているのに、髭の剃跡の青い固肥りのした顔は妙に冴えて、「眼玉の藤吉」と綽名のついている大きな両眼は、さっきから店の方を睨んではぎらぎら光っていた。
「なんだ、もう無えのか」
「あがるんですか」
「もう一本つけてくれ。いいからつけてくれ。なんだか酔いそびれて踏んぎりがつかなくっていけねえ」
女房のおかねは気遣わしそうに、亭主の横顔をそっと見た。
むっつりと、変に気の詰った調子で三本めを呑み始めると間もなく、弟子の六造がやって来た。
「親方、川口町が見えました」
「此処へ通してくれ」
そう云って藤吉は、女房に振り返った。
「おめえ二階へ行っていねえ」
「だって親方」
「いけねえ、おめえに側から口出しをされちゃあ話の筋が通らねえ、行っててくれ」
「では外しましょう、けれど親方」
おかねは素直に立ちながら「宗七はあの通りの気質で口下手だから、頭ごなしに叱っちゃあ駄目ですよ、あれにもなにか考えのあることでしょうから……」
「それが余計なことだと云うんだ、いいから行きねえ」
藤吉は手酌で酒を注いだ。
おかねが二階へ去ると、入れ違いに、二十七、八になる若者が入って来た。……色の褪めた紺縞木綿の袷に、やまのいった小倉の帯を緊めている。額の広い顎の張った逞しい顔だが、ひどく蒼白めていて、ひと口に云うと、極度の神経消耗を思わせるが、その眼だけは深く潜んだ鋭い意力を湛えていた。
名は宗七、今江戸で鯉の木彫の名人と呼ばれている男だ。……口重に挨拶をして、
「唯今はお使いでございましたが」
「ちょいと話があって来て貰った。手間を欠かして済まなかったな」
「いえなに、このところ暫くぶらぶらしているものですから」
「そうか遊んでるのか」
「遊んでるという訳でもありませんが」
「まあいいや、ひとつどうだ」
藤吉は盃を洗って差出した。
「有難うございますが、実は断っているもんですから……どうか」
「断っている? へええ、なにか願掛けか」
「なに……願というほどのことでもありませんが」
藤吉は黙って手酌で一杯呷った。
それから、手に盃を持ったまま何気ない様子で相手を見た。
「実あな宗七」
「…………」
「おらあ昨夜、石町の富田屋さんに呼ばれて行って来た。お嬢さんが来月御婚礼なさるそうで、その祝に使う鯉の置物をおめえにお頼みなすったそうだ」
「……へえ」
「おめえの鯉は、一尾彫って十両が相場だ。石町さんは値に構わず欲しいとおっしゃる、……それをおめえ、お断り申したそうじゃあねえか」
「へえ、……申訳ありません」
「石町さんはそれでも是非欲しい、佐野屋おめえから頼んでくれとこう云われて帰って来た。……おめえも知っている通り、おいらにあ大事なお店だ。なあ宗七、おめえ気持よく彫ってあげて貰いてえが、どうだ」
「へえ、それあもう、……」
宗七は窮屈そうに、固く坐った膝頭を撫でながら、
「……親方のお口添えがなくとも彫りたいのですが……どうも」
「彫れねえのか」
「親方どうか……こいつは他処へお頼み下さるように」
「他処でいいなら石町さんでも頼みゃあしねえ、どうしてもおめえの鯉が御所望だから、おいらを呼んでまでそうおっしゃるんだ。おいらにも大事なお店だが、おめえにとっても富田屋は縁のねえお店じゃあねえぜ。そうだろう」
「……へえ」
「なにか気に入らねえことでもあるのか」
「いえ、いえ決して」
「じゃあ彫ってあげねえ、おらからも頼むからやってあげねえ、どうだ」
宗七は低く頭も垂れながら黙した。
佐野屋藤吉は大工である。親の代から常に弟子の二三十人は使っている立派な株であったが、藤吉は職人気質の厳しい父の手で、弟子たち同様に普請場の鉋屑のなかから育てられ、大抵の苦労は経験して来ている。……だから、丁度いまから十二年まえ、一人娘のお雪が七つの祝をした年の冬、親兄弟を亡くした孤児の宗七を手許に引取ったときにも、
――孤児だからと云って差別をしちゃあいけねえ。ひねくれさせてもいけねえし、不憫をかけ過ぎてもいけねえ、皆と同じように、極めどこは極めて面倒をみろ。
と女房にも弟子たちにも云い渡した。
二
宗七は十三で佐野屋へ引取られたが、口数のすくない温和しい子供で、仕事もすばらしくよく覚え、十七八になった時は、もう立派に一人前の職人の腕を持っていた。
――こいつは当てたぞ。藤吉はすっかり喜んで、
――これなら他処からお雪の婿を捜して来るこたあねえ。と女房とも話合っていた。
すると十九の年の春、石町の富田屋という太物問屋の主人茂右衛門が訪ねて来た。藤吉にとっては親の代から大事な出入り先である。用があればむろん此方から出向くところを茂右衛門が自ら訪ねて来たので驚いて会うと、意外なことを聞かされたのであった。
――宗七に暇をやってくれ。
というのである。訳を訊くと、――宗七は誰も知らないうちに、自分流儀の木彫を始めていた。他の者の寝た間遊ぶ間を偸んで、こつこつとやっていたのが、本来の才能に恵まれていたのであろう、めきめき腕が上って、殊に「鯉」を彫ると、古今無類の物が出来るようになった。そこで、ようやく心を決め、自分は木彫に本腰を入れてやろうと、富田屋を訪ねて親方への口利きを頼んだというのである。
一人娘の婿とまで考えていたのだが、藤吉は事情を聞いて快く承知した。そして、川口町へ別に家を持たせて専念木彫をやらせることにしたのである。……ところが、富田屋の云う通り、三年目にはもう「鯉の宗七」と云って、一尾彫れば十両という、飛抜けた高値をよぶ立派な木彫家になったのであった。
――富田屋はおめえにとっても縁のねえ家じゃあねえ。
と云ったのは、右のような事情があったからである。
「どうしたんだ、否なのか、応なのか」
「親方、まことに申し訳ありませんが」
宗七はそこへ手をついて云った。「どうかお店へは、親方からお断り申して下さいまし。私はどうしても彫りたくないのです」
「帰れ!」藤吉は、ついに我慢を切らして叫んだ。
「これほど頼んでも否なら勝手にしやあがれ、名人とか蜂の頭とか云われて逆上てやあがる。てめえとは、たったいま縁を切った。帰れ!」
「親方、そ、それはあんまり」
「帰れと云うのに、帰らねえか、面を見るのも癪だ、二度とこの家の敷居は跨がせねえぞ」
手荒く盃をほうりだすと、藤吉は裾を払って二階へ立去った。
宗七は、間もなくぼんやりと、佐野屋の店を出た。
それでなくとも蒼い顔は紙のように乾いて、秋雲のかかった鈍い陽射しも眩しそうに、眉を顰めたまま力なく拾うように歩いて行く。――すると、八丁堀の河岸へ出たとき、うしろから足早に一人の娘が追って来た。
藤吉の娘お雪である。
父親に似たのであろう、鈴を張ったような大きな美しい眸をして、羽二重肌で、濡れたように朱いちんまりとした唇をもっている。年は十九だが、まだ十七ほどにしか見えない初心々々しい娘だった。
「宗さん、宗さん、待って」
「……あ、お雪さん」
宗七は、慌ててふところ手を出した。娘は円くふくれた胸を波うたせながら、
「もういちど、帰って、宗さん。おっ母さんが幾ら宥めても駄目なの、どうしてもお父つァんは怒って肯かないのよ」
「私が悪いんです。親方が怒るのは無理もないことです」
「そう思うなら帰って頂戴、そしてお父つァんに謝って……ねえ宗さん」
「それが出来ないんです」
宗七は悲しそうに云った。「親方のおっしゃる通りに、石町さんの仕事をすれば勘弁して貰える。けれど、私が悪かったと謝るだけでは、親方は承知してくれやしません」
「では石町さんの御註文をしてあげてよ」
「出来ればします」
「どうして出来ないの。富田屋は宗さんのためにも恩のある人でしょ。無理な仕事なら別だけど、宗さんでなければならない鯉の彫物よ、どうしてお出来になれないの」
「今は云えないんだ、お雪さん」
宗七は意固地な調子でぶすりと云った。
「もう少し経てば分ります。けれども今はなんにも訊かないで下さい。きっと分る時が来ますから」
路地の霜
一
もう霜月であった。
川口町の路地の奥にある長屋のひと間で、宗七は木屑に埋ったまま、丸鑿を片手に呆然と坐っていた。……あれから五十日あまり、めっきり痩せの見える肩と、頬骨の出た顔が、ながい貧と労作をまざまざと語っている。
彫台の上には、荒彫した二寸ばかりの蛙が投出してある。
宗七の眼は、鑿跡のなまなましい荒彫りの蛙をぼんやりと瞶めている。……半年も前から取掛って今日までに何十となく彫ってみるが、どうしても気に入った物が出来ないのだ。
「……矢張り駄目だ」
力のない声で呟いたとき、
「ごめん下さい」と云って訪れる者があった。
宗七は恟としながら、慌てて彫った物を戸棚へ押込む、……と障子を明けて、小さな風呂敷包を抱えたお雪が入って来た。
「今日は少し遅くなりましたわ」
努めて気を迎えるように、微笑しながら云ったけれど、宗七はぶすっと黙ったまま答えなかった。
「昨夜おやすみにならなかったのね」
「…………」
「体が弱っていらっしゃるのに、夜明しなどなすっては、お毒ですわ」
「…………」
「まあ、火も消えていますのね」
「お雪さん」
宗七は冷い眼で娘を見た。
「今日までなんども云う通り、宗七は親方から勘当されたも同然の身上です。こうして、貴女が面倒をみに通って来て下さるのは有難いが、それじゃあ私が親方に済みません、どうか今日限り私のことは捨てて置いておくんなさい」
「また始ったわ、そのことなら、もう前に話は済んでいる筈です。あたしの勝手で来るんですから、宗さんに御迷惑は掛けません」
「……そう云われればそれっきりです」
宗七はすっと立上った。
「けれども、私はこうやって貴女のお世話になるのは厭なんだ。迷惑と云いたいくらいなんだ。それだけは承知していて貰いますよ」
「宗さん、それはあんまりよ」
お雪は驚いてすり寄った。「あたしはこんな物知らずで、満足にお洗濯ひとつ出来ないけれど、少しでも貴方に御不自由をさせまいと思ってずいぶん苦労をしているわ、……迷惑だなんて、……そんな、あんまりだわ」
「お雪さん、私は……宗七はねえ」
宗七はお雪の噎びあげる声に振返って、「宗七は職人だ、……私は自分の命を仕事に打込んでるんだ、この仕事が満足に仕上るまでは、義理も人情も捨てているんだ、……職人には仕事の他に自分の気持を乱されるのが一番迷惑なんですよ、……だが」
と云ったがすぐ、
「だが……こんなことを、今更ら云っても仕様がねえ」
投遣りな調子で呟くと、そのままふらりと外へ出て行った。
藤吉から縁を切ったと云われて以来、宗七は佐野屋へ足踏みの出来ない体になっていたが、お雪はそれからも三日にあげず訪れては、濯ぎ物や家の掃除など、細々した身の廻りの世話をしてくれる。……いつかは婿に、という話のあった仲だ、お雪のいじらしい心根は見るも痛ましいくらいであったが、宗七の頑な心は娘の気持を察する暇もないほど、仕事に対する情熱でいっぱいだった。
出来るなら誰の目にも触れない山奥へでも行って、全身を仕事に打込みたい、仕事の他にはなんにも考えたくないとさえ突詰めている。……殊に此頃では、彼は自分に絶望していた、骨を削るような苦心をして彫る物が、一つとして満足な出来を見せてくれない。
――己は駄目なのか。そういう疑いさえ起っている。こうなるともう自分を自分で縛るようなもので、平常から殻へ入った栄螺のような気質がますます内へ内へと引籠り、仕事も気持も次第に追詰められて、身動きのならぬ状態に陥ってしまうものだ。宗七はいま自分では気付かずにそういう穴へはまっている。
当もなく、雨催いの街を歩き廻って、宗七が帰って来たのは、もう灯の点き始める頃だった。
家へ入るとたんに、
「おや!」
と呆れたのは、お雪が行燈の下で、せっせと夕食の支度をしている姿だった。
「お帰んなさいまし」
「お雪さん、おまえまだいたのか、もう日が暮れたというのに、なにをしているんだ」
「知っていますわ、でも……いいの」
「よかあない、家でどんなに心配しているか知れません、早く帰らなくちゃあ」
「いいえ帰りません」
お雪は強く頭を振った、「あたし、今日は、帰らない積りで出て来たんです。おっ母さんも承知なんです」
「え、おかみさんが御承知だって?」
「宗さん……」
お雪は行燈に外向いて坐りながら、
「お父つァんは、あたしに婿を貰おうとしています。貴方も知っている八丁堀の相模屋さんの銀次郎さん。あの人から話があって、この月内には結納をする運びになっているんです、……だからあたし、おっ母さんと相談して家を出て来てしまったんです」
「それじゃあ尚更だ。話がそこまで運んでいるのに、いまお雪さんがいなくなったら親方はどうなると思います」
「いや、いや、もうなにも云わないで」
お雪は両手で耳を塞いだ。
二
「あたし十六の年に、おっ母さんから聞かされていたことがあります。宗さんがあたしの良人になる人だって……こんなことを云うのは恥しいけれど、あたしは今日まで、一日だってそれを忘れたことはないのよ。……今度の相模屋さんとの話だって、あたしが厭だと云い切れば、お父つァんだって無理にとは云わないと思うわ、ただ宗さんがあんなことから出入りしなくなったので、お父つァんはただ腹立ちまぎれに婿の話など始めたんだわ」
「…………」
「宗さん、もし、あたしが嫌いでなかったら、此処にいていいと云って下さいまし。それでなければ、もうあたし、……死ぬばかりです」
宗七は外向いたままで、
「私にはなんとも云えません」
と吐き出すように云った。
「なんとも云えません。……いて貰っちゃあ親方に申訳のないことになる、さっきも云ったように、宗七は仕事の他にはなにも考えたくないんだし……」
「宗さん、いいと云って。居てもいいって」
宗七は黙って戸棚を明けた。
その後姿へ、すがりつくようにそっと合掌したお雪は、涙を拭きながら膳拵えにかかった。
すると間もなく、
「お雪さん」
と宗七が振返って呼んだ。
「貴女はこの戸棚の中の物に手をつけましたね」
「あら、忘れていましたわ」
お雪は急いで近寄りながら、
「さっき杉辰さんが見えましてね、なにか彫った物があったら見せて貰いたいというもんですから、お断りしなくては悪いと思ったんですけれど、そこに蛙の木彫があったのでお見せしたんです」
「それを、それをどうしました」
「杉辰さんは大喜びで、こんなすばらしい物をやっていたとは知らなかった、これで名人宗七の呼名がまた変ると、一両置いて持っていらっしゃいました」
「あの蛙、あれを売った、あれを!」
宗七はぶるぶると身を震わせ、
「お雪さん」
と息詰るような声で云った。
「おまえさん飛んだことをしてくれた。あれはまだ試し彫で、形もなにもついちゃあいない、子供の玩具にもならないやくざな物だ」
「でも杉辰さんはすばらしい出来だと」
「杉辰は道具屋だ、骨董物の売買には、鑑が利くかも知れないが、物の本当の値打を見る眼は持っちゃあいない、あんな駄物を宗七の作と云って人手に渡すくらいなら、私は今日までこんな苦労はして来やあしないんだ」
「あたし、宗さん、あたしそんなことには気が付きませんでした」
「お雪さんには分るまいが」
宗七は拳を握りながら云った。
「男の仕事はいのち懸けだ。寸分も隙があるものじゃあないんだ。今こそ云うが、……あのとき石町さんの註文を断ったのは、高い金が欲しいでもなく高慢でもなかった。私はこれまで五、六年のあいだに八十七態の鯉を彫った、清き鯉、沈み鯉、離れ、群れ、すっかり彫り尽してもう彫るべき物が無くなっていた。この上彫れば同じ物が出来る……だから私は断ったんです。訳を話さなかったのは、こんなことを云うと気障に聞えるからで、今度の蛙が立派に会得できたその時こそ、親方にもお話し申し、お詫びをするつもりでいたんです。……これが職人の気持なんだ、金にも名にも代えることが出来ない爪の尖ほどの嘘もない職人の気持なんだ」
「すみません、あたし、そこまで考えずに、つい貴方のお仕事を世間へ見せたくなって」
「杉辰の置いていった一両をおくんなさい」
宗七は構わず立上った、……そしてお雪から二分銀を二つ受け取ると、そのまま土間へ降りて見返りもせず、
「お雪さん、……これでお分りだろう、貴女はこんな処にいる人じゃあない、矢張り佐野屋の娘で安楽に暮す方がいいんだ。どうかこのまま家へ帰って下さい」
そう云いながら外へ出た。
もう日はすっかり暮れていた。夕飯どきのざわついた路地をぬけ出ると、河岸っぷちはひっそりと暗く、今にも降って来そうな空は大江戸の街の灯をうつして鈍く染っている。宗七はまだ朝から食物をとっていなかった。それでなくても弱っている身体は、足がふらふらするほど力抜けがしている。
……然し、そのよろめく足を踏みしめながら、宗七は懸命に大鋸町の道具屋、杉田屋辰五郎の店へ急いだ。
大名屋敷
一
「旦那はおいでですか、旦那は」
「おや宗七さん、どうなすったんです。なにか御用ですか」
「旦那がいたら呼んで下さい」
杉田屋の店先に立ったまま宗七は、もどかしそうに同じことを言い続けた。……晩酌でもしていたらしい辰五郎は間もなく歯をせせりながら出て来たが、
「おいでなさい、何か急用でも」
「旦那、さっきの品、あれを返して頂きたいんです。お預りしたお金は此処へ持って来ました」
「なんです、いきなりそんな……」
「あれはまだ試し彫りで、とても人様にお見せ出来るような物じゃあないんです。留守の者が知らずに出したんですから、どうか返して下さい」
「そいつぁ弱ったなあ」
辰五郎は急いで坐り直した。
「実あ、あれから帰りに堀田様へお寄り申してね、堀田の殿様はまえっから宗七さんの作がお好きで集めていらっしゃるもんだから、ついお見せ申したところが、大変なお気に入りで、即金十両でお売り申してしまったんだが」
「売った、十両で……堀田様に」
「宗七さんの気性で、気に入らねえ作を手放すのは厭だろうが、どうだろう、殿様はすっかり御意に召しているんだから、今度だけ眼をつむって貰えまいか……金ならもう少し割戻しをする積りでいるが……」
「堀田様のお屋敷を教えておくんなさい」
「お屋敷って、それを訊いておまえさんどうしようというんだね」
「いいから教えておくんなさい」
宗七は、唇をわなわな震わしていた。
堀田備中守の中屋敷を訊いて、杉田屋の店を出ると、外はいつかしとしと糠のように時雨れていた。
弾正橋を八丁堀へ戻り、桜橋を渡って築地へ急ぐ、冷えて来た夜気は身にしみるようだ。袷の着流しきりだから、濡れるにしたがって寒さは骨へ徹る、……然し、宗七にはなにも感じられなかった。殆ど宙を歩くような気持で、堀田の中屋敷の門へたどり着いたときには、肩から裾までずっくりと濡れていた。
「お頼み申します」
むろん門限は過ぎている、潜り門を叩きながら二三度呼ぶと、番士が窓を明けて覗いた。
「なんだなんだ。御門を叩くやつがあるか、なんだ其方は」
「へえ、川口町の宗七と申す者でございます。是非お殿様にお眼に掛らなくてはならない用がありますので、どうかお取次を願います」
「なに、お上にお取次だと」
番士は呆れて眼を剥いた。
「ばかなことを申すな、ものを知らぬにも程がある。素町人の分際でお上にお眼通りなどと、無礼なこと申すとそのままには捨置かぬぞ」
「いえ、これには訳があるのです」
宗七は必死だった。
「私は鯉の木彫をする職人で、宗七と云えばお殿様もよく御存じの筈、決して謂れもなくお眼通りを願うのではございません。そうお取次下されば分って頂けるのです」
「例えお上が御存じであろうと、手続きを踏まなければお眼通りなど叶うわけのものでない、詰らぬことを申しても無駄だ。帰れ帰れ」
「でもございましょうが、私にとっては一大事、お殿様がいけなければ、せめて御用人様にでもお取次ぎを願います」
「うるさい奴だ」
番士は舌打をしながら、
「もう御門限は疾に過ぎて、御用人もお小屋へ退って居られる、取次いでやるから明日来い、明日」
「へえ、明日は何刻に御門が明きましょうか」
「八時だ」
呶鳴るように云って、番小屋の窓を、手荒く閉めてしまった。宗七はその閉った窓へすり寄りながら、
「八時でございますね、……八時で。私は此処で待っておりますから、御門の明くまで待たせて頂きますから、……どうか刻が来たらお取次を願います、……待っておりますから」
返辞はなかった。
宗七はなお暫く同じ言を繰返していたが、やがて窓から離れると番小屋の下へぶるぶると震えながら身を凭せかけた。
雨は依然として静かに降っている、僅かな庇はむろん頼みにはならず、頭から裾まで容赦なく降りつけて来る。……前の夜から眠らず、朝早く残り粥を啜ったきりの体は、寒さと疲れと飢えにすっかり弱って、暫くもせぬ中に立っていることが出来なくなり、宗七はずるずると崩れるように跼みこんでしまった。
どのくらいの刻が経ったであろうか。顔にかかる雨がいつか歇んでいるのに気付いて、ふと振仰いでみると、頭上に傘がさしかけられている。
――傘……傘……
初めはなんのことか解らなかった。
それから静かに振返えると、右側にひき添って、お雪が立っているのをみつけた。
宗七はいきなりぎゅっと、胸をしめつけられたように感じた。切ないような、……苦しいような、哀しいような、なんとも云いようのない感動がぐいぐいと胸をしめつけ、鼻の奥へつんと酸っぱいものがつきあげて来た。
仕事の「魔」に憑かれたような、ひと筋に突詰めた宗七の感情のなかへ、生れて初めて、……温い心の肌触りが沁入ったのである。宗七は眼の覚めたような気持で、
「……お雪」
と云いながら立上った。お雪の全身が顫えた。
「……宗さん」
「ばか!」
「勘忍して」
「こんな、夜更けに、なんだって……」
「だってあたし」
お雪は蒼白になっていた。
「あたし、おまえさんの……女房だもの」
「ば、ばか……風邪をひいたらどうするんだ」
「勘忍して」
立上った宗七の胸へ、お雪は顫えながらしっかと縋りついた。宗七はそれを両手で抱緊めた。二人はぎごちなく相抱き、泪に濡れた頬をすり寄せながら、わなわな身を震わせた。
二
夜が明けて、宗七とお雪とが門前に雨をよけながら立っているのを見たとき、番士がどんなに驚いたか云うまでもないだろう。……まさか本当に、夜通し待っているとは思わなかった彼等は、その辛抱強さにうたれて、すぐその旨を係りへ通じた。
用人幸野権太夫はむろん宗七の名を知っていたので、一応自分が会って事情を糺した上、仔細を主君に言上すると、備中守はすぐに会おうという。そこで権太夫は、衣服を着替えさせた上御前へ伴れて出た。
備中守正倫は上機嫌で、
「権太夫、式張ったことは許してやれ。……宗七だな、許す、近う近う」
「御意だ、無礼お許しとあるぞ」
権太夫に押されて、宗七は恐る恐る膝行した。
「昨日、杉田屋より求めた品に就いて願いというのは何だ。遠慮はいらぬ、申してみい」
「恐入りまする、甚だ、勝手なことを申上げて恐入りまするが、あの品を私めにお戻し願いとう存じます」
「返せというか、ほう……なぜだ」
「あれは、まだほんの、未熟なもので、かたちもなっては居りませぬ、私の留守に杉田屋が持って行きましたので、他人様に見せられる品ではないのでございます」
「余にはそう思えぬがの、鯉の名人と云われる宗七には珍しい蛙、妙作と思うぞ」
正倫は、微笑しながら云った。宗七は懸命に面をあげて、
「お殿様の眼にはそう見えも致しましょうが、それはお道楽だけの御鑑識、あの品はまだ石塊も同然の駄作でございます。彫りました当人の私が申上げますので、お手許へ差置くべき値打はございません。どうぞお下渡し下さいますよう」
「道楽だけの鑑識か」
正倫は苦笑しながら、
「はっきり申す奴だな、よし……権太夫、昨日の蛙を持って参れ」
「はっ」
「宗七。それ程申すなら、あの品は返して遣わそう、然し約束がある」
権太夫の持って来た文庫の中から、木彫の蛙を取出して前へ置きながら、正倫は改めて宗七を見やった。
「この品は返してやるが、そのまえに、其方が是なら善しと思う物を彫上げて参れ、そうしたら是を下渡してやるが、どうだ」
「はい、然しそれが、いつ出来ますことやら」
「いつでもよい、二年でも三年でも待つ、そのあいだ、是は文庫に納めたまま決して他人には見せぬと約束して遣わそう」
「恐入りまする」
宗七は、初めて安堵したように微笑んだ。
「それでは私がお眼通り仕りまするまで、どうぞ何誰にもお見せ下さいませぬよう」
「よしよし、必ず見せずに置くぞ」
「私も必ず、宗七の作と銘打って恥かしからぬ品を仕上げまする。……就きましては、お殿様には杉田屋よりそれを十金にてお求め遊ばしたように伺いまするが」
「それがどうか致したか」
宗七は袂から二分銀を二つ取出して、
「甚だ失礼ではございますが、私が次にお眼通り致しますまで、つまり其品のお下渡しを願いますまで、十金の内へ手付けとしまして、……こ、この壱両をお預り……」
「これ、これ無礼なことを」
権太夫が仰天して乗出した。……堀田家は一万三千石だが、帝鑑ノ間伺候の大名である。幾らなんでもその相手へ二分銀二つ差出すというのは度外れだ。
権太夫は顔色を変えたが、正倫は興あり気にそれを止めて、
「捨て置け権太夫、面白いではないか、余が町人から壱両の手付けを預るというのは初めてだ、面白い、預るぞ宗七」
「かたじけのう存じます、これで私も安心致しました」
「余も手付けを取って安堵したぞ」
正倫は声を挙げて笑った。
宗七も笑った……。笑いながら、宗七はにわかに胸が空闊とひらけ、体いっぱいに爽かな風の吹通るのを感じた。
一点に追詰められていた退引ならぬ気持が、正倫の寛闊無碍な態度に会って、一時に解放されたのである。「凝」が落ちたのだ。……針の尖ばかり瞶めていた眼が、その一瞬に広い天空を見たのであった。
――これだ、これだ。
宗七は、心の中で叫んだ。
――己は自分で自分を埋める穴を掘っていたんだ。穴から出よう、……仕事はそれからだ。
「権太夫」
正倫は用人の方を見て、
「どうだ、余の商法はたしかであろう」
そう云いながらもう一度声高く笑った。
まことに奇妙な約束である。然し宗七は御前を首尾よく退出した。……御門を出ると、まだ降りやまぬ時雨のなかに、お雪が待兼ねていて走り寄った。
「どうでございました? あなた」
「お雪!」
宗七は今度こそはっきりと、力のある声でお雪の名を呼んだ。
「大鋸町の店へ行こう」
「え? お父つァんのところへ?」
「親方に会って、おまえを女房に貰って来るんだ。宗七は改めて出直す、昨日までのうじうじした気持もいけなかったんだ。……いま堀田のお殿様にお目通りをして熟々感じたぞ、人間は心を寛く持たなくちゃあいけねえ。其日の食に不足しても心は大名のように大きくもつんだ……大名のような寛い、大きな心持でやるんだ。親方に会って、なにもかも話して、それから……始めるぞ」
「うれしい、あなた……!」
「ええ、傘が傾いだ、濡れるぜ」
宗七は手を伸ばして傘の柄を支える、その手へ自分の手を重ねながら、お雪は濡れた眸で男の眼を恍惚と見上げた。
……降りしきる時雨の町に、ようやく往来の人が多くなりつつ……。
(「講談雑誌」昭和十五年一月号)