利根水源探検紀行
目的
利根の水源を確定し、越後及ひ岩代と上野の国境を定むるを主たる目的となせども、傍ら地質の如何を調査し、将来開拓すべき原野なきや否、良山林ありや否、従来藤原村三十六万町歩即凡そ十三里四方ありと号する者果して真なりや否、動植物及び鉱物の新奇なるものありや否等を究るに在り、又藤原村民の言に曰く、従来此深山に分け入りて人命を失ひしもの既に十余名、到底深入することを得ず古より山中に恐ろしき鬼婆ありて人を殺して之を食ふ、然らざるも人一たひ歩を此深山に入るれは、山霊の祟にやあらん忽ち暴風雨を起して進むを得ざらしむ、唯口碑の伝ふる所に拠れは、百二十年以前に於て利根水源たる文珠菩薩の乳頭より混々として出で来り、其傍に光輝燦爛たるものあるを見しものありと、此等の迷霧を霽さしめんとの志は一行の胸中に勃然たり、此挙や数年前より県庁内に於て行はんとの議ありしも常に其機を得ず、然るに今や之を决行する事とはなりぬ。一行の姓名は左の如し
技師 小西文之進
県属第二課地理掛 森下鑛吉
同 深井仙八
△利根郡長 櫻井小太郎
利根郡書記 遠藤正太郎
沼田尋常高等小学校長
石田勝太郎
△沼田警察署長 吉田忠棟
△沼田巡査部長 坂本武雄
同 巡査 鹽原甚藏
沼田収税署長 榎本嘉助
沼田小林区署長 土屋榮太郎
同森林監守 長松榮之進
△同 高野峯之進
利根郡水上村長 木村政治郎
同 前村長 大塚直吉
△同大字藤原村区長
中島甚五左衞門
及余を合せて総計十七名、中途帰りし者を除けば十二名とす、右の三角印は中途帰りしものとす、此他人夫十九名同道者三人、合計三十九名とす、但し人夫中四人及道者三人は中途に帰りたるを以て、探検の目的を達せし人員は合計二十七名となす。
因に云ふ、右一行中小西技師は躰量二十三貫の大躯なれ共常に県下巡回の為め山野の跋渉に慣れ、余の如きは本と山間の産にして加ふるに博物採集の為め深山幽谷を跋渉するの経験に積み、森下深井両君の如きは地理掛として最も其道に専門の人と云ふべきなり、林区署の諸君亦然り、大塚君は前年名佐技師に従ふて利根山間を探りし経験あり、長髯口辺を被ひ背に熊皮を横たへ、意気の凛然たる一行中尤著るし、木村君は初め一行に向つて大言放語、利根の険難人力の及ぶ所に非ざるを談じ、一行の元気を沮喪せしめんとしたる人なれ共、本と水上村の産にして体脚強健、棒押しに於ては村内の人民敢て之に勝つものなしと云ふ、一夕小西君と棒押しを試みしも到底其対手に非ざるなり、此他の諸君も皆健脚の人のみ、人夫中にては中島善作なるものは猟の為め常に雪を踏んで深山に分け入るもの、主として一行の教導をなす、一行方向に迷ふことあれば直ちに巧みに高樹の頂に上りて遠望し、前途を見究めて後ち進行せしむ、善作一たび方向を定めて進む時は、其誤らざる事磁石に拠るよりも勝れりと云ふべし、真に一行中屈竟の好漢たり、中島鹿吉なるものは躯幹偉大、背に三斗の米を負ふて難路を歩むも、常に平然たること恰も空手坦途を歩むが如し、真に一行中の大力者なり、林喜作なるもの少しく病身なりしも魚を釣るに巧みなり、皆各其人を得たりと云つべし、殊に人夫は皆藤原村及小日向村中血気旺盛の者にして、予等一行と辛苦を共にし、古来未曾有の発見をなさんと欲するの念慮ある者のみを選びたるなり、実に一行が首尾克く探検の目的を達するを得たるは、忠実勇壮なる人夫の力大に与つて力ありとす。
九月十九日
此日一行は沼田より湯檜會に着し、夜大に会議を開きて進路を議す、議二派に分る、一は国境論にして一は水源論なり、国境論とは上越の国界なる清水越より山脈の頂上を常に進行せんとするものにして、遂に頂上より水源を認めなば水流を逐ふて漸次下らんとするなり、水源論とは初めより水流を溯りて水源に至り、山の頂上に出で其後国境とする所を踏みて帰らんとするを云ふなり、二派各其困難の度を比較して利害得失を述べ、甲論乙駁容易に决せず、数時間を経て遂に水源論多数を占め之れに一决す、其議論の激しき遂に小西技師をして、国境論者は別隊を率ゐて別に探検すべしとの語を発せしむるに至たる程なりき、若糧食の備へ充分にして廿日以上の日子を費すの覚悟なりせば、右両説の孰れを取るも同じと雖も、奈何せん十日間の食糧を以て探検の目的を果さんとの心算なれば、途中如何なる故障の起るありて一行餓死の憂あるやも計られず、為に早く人家ある所に出るの方針を執らざるべからざるを以て、斯く議論の沸騰したるなり。
食糧は米一石餅三斗、之れ十七人の分にして皆人夫をして負はしむ、人夫は此他に各自の食糧を各準備したり、其他草鞋二百足、馬桐油三枚、鰹節数十本及釜、鍋、味噌、醤油、食塩等を用意したり、又護身の用として余は三尺の秋水を横たへ、小西、森下、深井、石田の四君は各「ピストル」を携帯し、人夫は猟銃二挺を準備したり。
九月廿日
昨夜来頻りに降り来る雨は朝に至りて未だ霽れず、遥かに利根山奥を望むに雲烟濛々前途漠焉たり、藤原村民の言の如く山霊果して一行の探検を拒むかと想はしむ、或るものは雨霽れて後ち出立すべしと言ひしも、予等の予定は最初より風雨に暴露せらるる十日間に渉るも敢て厭はざるの决心なるを以て、断然雨を冒して進行することとはなれり、然るに図らざりき、藤原村に進むに従つて雨漸次に霽れ来り、全く晴朗となる、蓋し天我一行を歓迎するの意乎、探検一行無事の吉兆既に此の発程に臨みて現はれたり、衆皆踊躍して藤原村を過ぎ、須原峠を越え湯の小屋に至り泊す、温泉塲一ヶ所あり、其宿の主人は夫婦共に偶他業して在らず、唯浴客数人あるのみ、浴客一行の為めに米を炊ぎ汁を煮且つ寝衣をも貸与す、其質朴愛するに堪へたり、余炉辺に坐し一客に問ふて曰く、是より山奥に至らば栗樹ありや否、余等一行若し探検の中途にして飢餓に陥ることあらん乎、栗等の果実に拠りて餓死を免れんとすと、客答へて曰く、栗樹は人家近き所に在るのみ、是より深山に入らば一樹をも見る能はざるべしと、余又栗を食する能はざるを嘆じ、炉辺に栗を炙り石田君も共に大に之を食ふ宿は、利根の支流たる湯の小屋河に臨み、河を下る事二町にし玄道、大龍、小龍の三大瀑布ありて実に壮観を極む、衆相顧みて曰く、這回の探検たる此等の如き険所数多を経過せざるべからざるかと、一行皆な勇を皷して壮快と叫ぶ。
夜に入れば当宿の主人帰り来る、主人は当地の深山跋渉に経験ありとの故を以て、呼んで一行と共にせんことを談ず、主人答へて曰く、水源を溯源して利根岳に登り、之より国境を通過して清水越に至らんには、少くとも十数日の日子を要し、又利根岳より尾瀬沼即ち岩代と上野の国境に出でんにも亦十余日を要すべし、一行が準備せらるる十日間の食糧到底其目的を達せず、殊に五升許の米を負ふを命ぜられて此深山険崖を攀躋する如きは、拙者の堪へ能はざる所なりと、断じて随行を拒む、衆相顧みて愕然たり、余の如きは胸中大に其無礼を憤懣す、然れ共之れ例の放言大語、容易に信ずべからざるを知る、何となれば元と藤原地方の人民は皆常に這般の言語を吐き、深山に分け入るを禁物となす者なればなり、小西君一喝衆を励まして曰く、彼は一杯を傾け来りて酔狂せるものなりと。
九月二十一日
朝須原峠の嶮を登る、偶々行者三人の来るに逢ふ、身には幾日か風雨に晒されて汚れたる白衣を着し、肩には長き珠数を懸垂し、三個の鈴声歩に従ふて響き来る、之れ予等一行に従ふて利根水源たる世人未知の文珠菩薩を拝せんとする為めなり、各蕎麦粉三升を負ふ、之を問へば曰く即ち食糧にして、毎日三合宛之を湯に入れて呑み以て飢を凌ぐを得、敢て一行を煩はすことなけん、謹んで随行の許可を得んことを乞ふと、衆其熱心に感じ喜んで之を許す、内二人は上牧村の者にして他一人は藤原村字窪の者とす、信州御岳参り七回の経験あるを聞き衆皆之を壮とす、此峠を過ぐれば字上ヶ原の大平野あり、広袤凡一万町歩、水あり良草あり以て牧塲となすに適す、今之を不毛に附し去るは遺憾と云ふべし、若し此地に移住し来るものあらんか、湯の小屋の温泉も亦世に顕れて繁栄に趣くや必せり。
進んで大蘆村に至れば櫻井郡長之より帰途に就かる、村を過ぐれば愈いよ無人の境となり、利根河岸の絶壁に横はれる細逕に入る、進むこと凡二里にして道全く尽き、猟夫の通路又見るを得ず、途中大なる蝮蛇の路傍に蜿蜒たるあり、之を逐へば忽ち叢中に隠る、警察署の小使某独り叢中に分け入り、生擒して右手に提げ来る、衆其巧に服す、此に於て河岸に出でて火を焚き蝮の皮を剥ぎ、味噌を塗りて蒲焼を作る。衆争ふて之を食す、探検の勇気此に於て層一層を増し来る、相謂て曰く前途千百の蝮蛇応に皆此の如くなるべしと。
愈利根の水源に沿ふて遡る、顧れば両岸は懸崖絶壁、加ふるに樹木鬱蒼たり、たとひ辛ふじて之を過ぐるを得るも漫りに時日を費すの恐あり、故にたとひ寒冷足を凍らすとも、水流を渉るの勝れるに如かず、され共渉水亦困難にして水中石礫累々之を踏めば滑落せざること殆稀なり、衆皆石間に足を突き入れて歩む、河は山角を沿ふて甚しく蜿蜒屈曲し、所々に少許の磧礫を存するを以て、成るべく磧上を進むの方針を取る、忽ちにして水中忽ちにして磧上、其変化幾回なるを知らず、足水に入る毎に冷気肌を衝て悚然たり、進むこと一里半にして急に暖気を感ず、俯視すれば磧礫間温泉ありて数ヶ所に出づ、衆皆快と呼ぶ、此処は字を湯の花或は清水沢と称し、先年名佐技師が地質調査の為め探検して之より帰られし処とす、衆露宿を此に取る、人夫十数人拮据勉励、大石を除きて磧中を堀り温泉塲二ヶ所を作る、泉石幾年の苔を帯び汚穢甚しきを以て、先づ饅頭笠にて汚水を酌み出し、更に新鮮なる温泉を湛ゆ、温高き為め冷水を調合するに又笠を用ゆ、笠為に傷むもの多し、抑此日や探検の初日にして、長く水流中に在りし冷気と露営の寒気と合せ来るに逢ひ、此好温泉塲を得て初めて蘇生するの想あり、一行の内終夜温泉に浴して眠りし者多し、真に山中の楽園と謂ふべし、露営の塲所亦少しく平坦にして充分足を伸ばして睡眠するを得、且つ水に近く炊煎に便なり、六回の露営中実に此夜を以て上乗となす、前水上村長大塚直吉君口吟して曰く
里遠き利根の河原に宿しめて湯あみしてけり石かきわけて
夜半眼覚め、防寒の為炉中に薪を投ぜんとすれば、月光清輝幽谷中に冴へ渡り、両岸の森中には高調凄音群猿の叫ぶを聞く、俯して水源未知の利根を見れば、水流混々、河幅猶ほ広く水量甚多し、或は岩に触れて澎湃白沫を飛ばし、或は瀾となり沈静深緑を現はす、沼田を発して今日に至り河幅水量共に甚しく减縮せるを覚えず、果して尚幾多の長程と幾多の険所とを有する、况んや明日よりは全く人跡到らざるの地を探るに於てをや、嗚呼予等一行果して何れの時かよく此目的を達するを得べき、想ふて前途の事に到れば感慨胸に迫り、殆んど睡る能はざらしむ、され共東天漸く白く夜光全く去り、清冷の水は俗界の塵を去り黛緑の山は笑を含んて迎ふるを見れば、勇気勃然為めに過去の辛苦を一掃せしむ。
九月二十二日
早朝出立、又昨日の如く水中を溯る、進むこと一里余にして一小板屋荊棘中に立つあり、古くして半ば破壊に傾けり、衆皆不思議に堪へす、余忽ち刀を抜きて席にて作れる扉を切り落し、入り見れば蝉の脱け殻同様人を見ず、され共古びたる箱類許多あり、蓋を開き見れば皆空虚なり、人夫等曰く多分猟師小屋ならんと、図らず天井を仰ぎ見れば蜿蜒として数尺の大蛇横はり、将に我頭を睨む、一小蛇ありて之に負はる、依て直ちに杖を取りて打落し、一撃其脳を砕けば忽ち死す、其妙機恰も死せる蛇を落したるが如くなりし、小なる者は憐れにも之を生かし置けり、其の恩に感ぜしにや以後又蛇を見ざりき、蛇は「山かがし」となす猶進むこと凡そ一里にして三長沢と利根本流との落ち合ひに出づ、時猶十時なりしも餅を炙りて昼食し、議論大に衆中に湧く、一は曰く飽迄従前の如く水中を溯らん、一は曰く山に上り山脈を通過して水源の上に出でん、特に人夫中冬猟の経験ありて雪中此辺に来りしもの、皆曰く是より前途は嶮更に嶮にして幽更に幽、数日の食糧を携へて入るも中途に餓死せんのみ、請ふ今夜此地に露宿し、明朝出立二日間位の食糧を携へて水源探究に赴き、而して再び当地に帰らんのみと、人夫等異口同音堅く此説を取る、遠藤君大塚君等大に人夫等を説き諭せども議遂に長く决せず、吉田警察署長大喝怒りて曰く、余等県知事の命を奉じて水源探究に来れるなり、水流を溯り水源を究めざれば死すとも帰らず、唯冒進の一事あるのみと、独り身を挺んで水流を溯り衆を棄てて又顧みず、余等次で是に従ふ、人夫等之を見て皆曰く、豈坐視して以て徒らに吉田署長以下の死を待たんやと、一行始めて団結し猛然奮進に决す又足を水中に投ずれば水勢益急となり、両岸の岩壁愈嶮となり、之に従つて河幅は頗る縮り、困難の度は実に水量と反比例をなし来る進むこと一里にして両岸の岩壁屏風の如く、河は激して瀑布となり、其下凹みて深淵をなす、衆佇立相盻みて愕然一歩も進むを得ず、是より水上に到らば猶斯の如き所多きや必せり、此に於て往路を取りて帰り、三長沢口に泊し徐計をなすべしと云ひ、或は直ちに此嶮崖を攀ぢて山に上り、山脈を伝ふて水源に至らんと云ひ、相議するや久し、余奮つて曰く、水を逐ふて此嶮所を溯る何かあらん、未だ生命を抛つの危険あるを見ずと、衆敢て余を賛するものなし、余此に於て巳を得ず固く後説を執る、人夫等岩崖を仰で唯眉を顰むるあるのみ、心は即ち帰途に就くにあればなり、此に於て余等数人奮発一番、先づ嶮崖を攀登して其登るを得べき事を示す、人夫等猶肯んぜず、鹽原巡査人夫の荷物を分ち取り自ら之を負ふて登る、他の者亦之に同じくす、人夫等遂に巳を得ず之に従ふ、此に於て相互救護の策を取り、一行三十余名列を正して千仭の崖上匍匐して相登る、山勢殆んど直立、加ふるに突兀たる危岩路に横はるに非れば、佶倔たる石南樹の躰を遮るあり、若し一たび足を誤らんか、一転忽ち深谷に落つるを以て、一行の両眼は常に注ぎて頭上の山頂にあり、敢て往路を俯瞰するものなし、荊棘の中黄蜂の巣窟あり、先鋒誤て之を乱す、後に継ぐもの其襲撃を被ふるも敢て之を避くるの道なし、顔面為に腫れし者多し、相憐んで曰く泣面に蜂とは其れ之を云ふ乎と、午後五時井戸沢山脈中の一峯に上り露宿を取る、高四千五百尺、顧みれば前方の山脈其中腹の凹所に白雪を堆くし、皚々眼を射る、恐らくは万古不融の雪にして混々として利根水量を多からしむるの大原因たるべし、当夜の寒気想ふに堪へたり、宿所を取らんとするも長一丈余の熊笹繁密せるを以て、皆之を押臥し其上に木葉或は席を布きて臥床となす、炉を焚かんとするに枯木殆どなし、立木を伐倒して之を燻ふ、火容易に移らず、寒気と空腹を忍ぶの困難亦甚しと云ふべし、山巓一滴の水を得る能はざるを以て、餅を炙りて之を食ふ、餅は今回の旅行に就ては実に重宝なりき、此日や喜作なるもの遅れて到り、「いわな」魚二十三尾を釣り来る、皆尺余なり、され共喜作は食糧の不足を憂ふるにも拘らず、己が負ふ所の一斗五升の米を棄て来れり、心に其不埒を憤ると雖も、溌剌たる良魚の眼前に在るあるを以て衆唯其風流を笑ふのみ、既に此好下物あり、五罎の「ぶらんでー」は忽ち呼び出さる、二罎忽ち仆る人数多き為め毎人唯一小杯を傾けしのみ、一夜一罎を仆すとすれば残る所は三日分のみなるを以て、巳を得ず愛を割く、慰労の小宴爰に終れば、鹽原君大得意の能弁を以て落語二席を話す、其巧なる人の頤を解き、善く当日の疲労と寒気とを忘れしむ、其中にも常に山間に生活する人夫輩に至りては、都会に出でたるの感を起し、大に愉快の色を現はし、且つ未だ耳にだもせざる「ぶらんでー」の醇良を味ふを得、勇気頓に百倍したり、実に其愉快なる人をして雪点近き山上にありて露宿するなるかを忘れしむ。
興に乗じて横臥すれば、時々笹蝨の躰を刺して眼を覚ますあり、痛痒頗る甚し、之れ笹を臥床となすを以て、之に寄生せる蝨の這ひ来れるなり、夜中吉田署長急に病み、脉搏迅速にして発熱甚し、為めに頭を冷やさんとするも悲いかな水なきを如何せん、鹽原君帯ぶる所の劔を抜きて其顔面に当て、以て多少之を冷すを得たり、朝に至りて少しく快方に向ひ来る。
九月二十三日
朝又餅を炙りて食し、荊棘を開きて山背を登る、昨日来餅のみを喫し未だ一滴の水だも得ざるを以て、一行渇する事実に甚し、梅干を含むと雖も唾液遂に出で来らず、此に於て竹葉上に点々滴れる所の露を甞め、以て漸く渇を慰す、吉田署長病再発し歩むに堪へず、遂に他の三名と共に帰途に就かる、行者参り三人も亦心淋しくやなりけん、名を食糧の不足に託して又衆と分る、明日は天我一行をして文珠岩を発見せしむるあるを知らざるなり、其矇眛なる心中や憐むに堪へたり、残る所の二十七名は之より進むのみにして帰るを得ざるもの、実に血を啜りて决死の誓をなししと云ふて可なり、既にして日漸く高く露亦漸く消へ、渇益渇を加へ、加ふるに石南の蟠屈と黄楊の繁茂とを以てし、難愈難を増す、俯視して水を索めんとすれば、両側断崖絶壁、水流は遥に数百尺の麓に在るのみ、勇を鼓して早く山頂に到らんか、危岩突兀勢将に頭上に落ちんとす、進退維れ谷まり敢て良策を案するものなく、一行叢中に踞坐して又一語なし、余等口を開きて曰く、進むも難く退くも亦難し、難は一なり寧ろ進んで苦まんのみと、綱を卸して岩角を攀登し、千辛万苦遂に井戸沢山脈の頂上に到る、頂上に一小窪あり、涓滴の水集りて流をなす、衆初めて蘇生の想をなし、飯を炊ぐを得たり、且つ図らざりき雲霧漸次に霽れ来り、四面の峻岳皆頭を露はし、昨来渉り来れる利根の水流は蜿蜒として幽谷間に白練を布けり、白練の尽くる所は乃ち大利根岳となり突兀天に朝す、其壮絶殆ど言語に尽すべからず、水源探検の目的亦殆ど爰に終れり。
抑此日や秋季皇霊祭にして満天晴朗、世人は定めて大白を挙げて征清軍の大勝利を祝するならん、余等一行も亦此日水源を確定するを得、帝国万歳の声は深山に響き渡れり、水源の出処既に明なれば、従つて越後と上野の国界とすべき所も定まり、利根山奥の広袤も略ぼ概算するを得たり、此上は上越二国の間に横はれる利根の山脈に攀登し、国界を定めて之を通過し、尾瀬が原を経て戸倉に帰るべしと、議忽ち一决す、之に依て戸倉に至るを得べき日数も予め想像することを得、衆心初めて安んじ、犠牲に供したる生命は辛うじて保つを得べからしめたり、然りと雖も前途嶮益嶮にして、人跡猶未到の地、果して予定に違はざるなきや、之を思へば一喜一憂交々到る、万艱を排して前進し野猪の勇を之れ貴ぶのみと、一行又熊笹の叢中に頭を没して、嶮崖を降り渓流を素めて泊せんとす、日暮れて遂に渓流に至るを得ず、水声近く足下にあれども峻嶮一歩も進むを得ず、嵯乎日の暮るるを二十分計早かりし為め、遂に飯を炊ぐの水を得ず、又餅を炙りて食ふ、餅殆ど尽きて毎人唯二小片あるのみ、到底飢を医するに足らざるを以て、衆談話の勇気もなく、天を仰で直ちに眼を閉づ、其状恰も愁然天に訴ふるに似たり、剰さへ細雨を注ぎ来りしが、甚しきに至らずして己み、為めに少しく休暇することを得たり。
山の斜面に露宿を取りしことなれば少しも平坦の地を得す、為めに横臥する能はず、或は蹲踞するあり或は樹に凭るあり、或は樹株に足を支へて臥するあり、若し一歩を誤らんか深谷中に滑落せんのみ、其危険言ふべからず、恰も四足獣の住所に異らずと云ふべし。
九月廿四日
夜の明くるを待て人夫は鍋と米とを携へ、渓流に下り飯を炊煑して上り来る、一行初めて腹を充たし、勢に乗じて山を降り、三長沢支流を溯る、此河は利根の本源と殆ど長を等くし、同じく大刀根岳より発するものたり、数間毎に必ず瀑布あり、而して両岸を顧みれば一面の岩壁屏風の如くなるを以て如何なる危き瀑布と雖も之を過ぐるの外道なきなり、其危険云ふべからず、瀑布を上り俯視すれば毛髪悚然、脚為めに戦慄す、之を以て衆敢て来路を顧みるなし、然りと雖も先日来幾多の辛酸と幾多の労苦とを甞めたる為め、此険流を溯るも皆甚労とせず、進程亦従て速なり、恰も四肢を以て匍匐する所の四足獣に化し去りたるの想ひなし、悠然坦途を歩むが如く、行々山水の絶佳を賞し、或は耶馬渓も及ばざるの佳境を過ぎ、或は妙義山も三舎を避くるの険所を踏み、只管写真機械を携へ来らざりしを憾むのみ、愈溯れば愈奇にして山石皆凡ならず、右側の奇峰を超へて俯視すれば、豈図らんや渓間の一丘上文珠菩薩の危坐せるあり、百二十年以前に見たる所の人ありと伝ふ所の文珠岩は即ち之れなり、衆皆拍手喝釆して探検者一行の大発見を喜ぶ直ちに丘下に到りて仰ぎ見れば、丘の高さ百尺余、天然の奇岩兀として其頂上に立ち、一見人工を加へたる文珠菩薩に髣髴せり、傍に一大古松あり、欝として此文珠岩を被へり、丘を攀登して岩下に近づかんとするも嶮崖頗甚し、小西君及余の二人奮発一番衆に先つて上る、他の者次で到る、岩に近づけば菩薩の乳頭と覚しき所に、一穴あり、頭上にも亦穴を開けり、古人の所謂利根水源は文珠菩薩の乳より出づとは、即ち積雪上を踏み来りし際、雪融けて水となり此の乳頭より滴下せるを見たるを云ふなるべし、され共水源を以て此処に在りとなすは非なり、水上村長木村政治郎大に喜んで曰く、以後年々此日を以て発見の紀念となし、村民を集めて文珠菩薩の祭礼を行ひ、併せて此一行をも招待すべし、而して漸次道路を開通し爰に達し、世人をして参詣するを得せしめんと、人夫中の一人喜作なるもの両三日前より屡々病の為めに困み、一行も大に憂慮せしが、文珠岩を発見するや否直ちに再拝して飯一椀、鰹節一本とを捧呈し、祈祷に時を移し了りて忝く其飯を喫す、病漸次に癒へ来り以後常に強健なりき、人夫等皆之を奇とし恐喜措く所を知らざるが如し、昨朝帰途に就きし三人の行者参りをして若し在らしめば、其喜び果して如何なりしか、思へば愚の至りなり、且つ傍に直下数丈の瀑布ありて幅も頗る広し其地の幽にして其景の奇なる、真に好仙境と謂つべし、因に云ふ此文珠岩は皆花崗岩より成りて、雨水の為め斯くは水蝕したるなり、左に面白き二首を録す
万世のまどひ開けつ文珠岩木村君
ももとせも知れぬ仏を見出すは
文珠の智恵に勝る諸人鹽原君
是より一行又河を溯り、日暮れて河岸に露泊す、此日や白樺の樹皮を剥ぎ来りて之を数本の竹上に挿み、火を点ずれば其明宛ながら電気灯の如し、鹽原君其下に在りて、得意の弁を揮ひ落語二席を話す。衆皆労を忘れて臥す。
九月二十五日
未明食事を終りて出立し又水流を溯る、無数の瀑布を経過して五千五百呎の高に至れば水流全く尽き、源泉は岩罅より混々として出で来る、衆呼で曰く涓滴の水だも其四方より相集まるや遂に利根の大河をなすかと、従前の辛苦を追想して感懐已む能はず、各飲むで腹に充たす、之より山を上るを数十間にして又一小流あり、岩穴に入りて終る、衆初めて其伏流なるを知り之を奇とす、山霊果して尚一行を欺くの意乎、将又戯れに利根水源の深奥測るべからざるを装ふの意乎、此日の午後尾瀬が原に到るの途中、亦長凡一里の伏流を発見したり、其奇なる一は一行の疲労を慰するに足り、一は大に学術上の助を与へたり、遂に六千呎の高きに至りて水全く尽き、点々一掬の水となれり、此辺の嶮峻其極度に達し、百仭の崖上僅に一条の笹を恃みて攀ぢし所あり、或は左右両岸の大岩既に足を噛み、前面の危石将に頭上に落ち来らんとする所あり、一行概ね多少の負傷を被らざるはなし。
水源竭きて進行漸やく容易となる、六千四百呎の高に達すれば前日来経過し来れる所、歴々眼眸に入り、利根河の流域に属する藤原村の深山幽谷、丸で地図中の物となり、其山の広袤水の長程、初めて瞭乎たり、眼を転じて北方を俯視すれば、越後の大部岩代の一部脚下に集り、陸地の尽くる所青煙一抹、遠く日本海を眺む、唯憾むらくは佐渡の孤島雲煙を被ふて躰を現はさざりしを、岩代の燧岳、越後の駒が岳、八海山等皆巍然として天に朝し、利根水源たる大刀根岳は之と相拮抗して其高きを争ふ、越後岩代の地方に於ては决して雪を見ざるに、利根源泉の上部に至りては白雲皚々たり、之れ地勢上及気象上の然らしむる所なりと雖ども、利根の深奥なる亦想ひ見るべし、然れ共眼を北方越後に注ぐに一望山脈連亘し其深奥なる又利根に譲らざるなり、之を以て始めて知る、上越の国境不明に属せしは両国の山谷各深くして、人跡未だ何れよりも到る能はざりしに因れり、而るに今や利根水源を確定して、加ふるに上越の国界を明にするを得、衆皆絶叫快と呼ぶ、其勢上越の深山も崩るるが如し、深井君直ちに鋭刀を揮ふて白檜の大樹皮を彫り、探検一行二十七名上越国界を定むと書す、少らく休憩をなして或は測量し或は地図を描き、各幽微を闡明にす、且つ風光の壮絶なるに眩惑せられ、左右顧盻去るに忍びず、殊に燧山下尾瀬沼なるものありて、岩代上野の県道其沼辺を通じ、直ちに戸倉に出るを得るの概算予定するを得て、帰路に就く既に近きにあればなり、され共人智の謭劣先見の明なき、遂に将来大障碍を起さしめたり、障碍とは何ぞ、一行は巍然たる燧岳眼前にあるを以て、其麓の尾瀬沼に至らんには半日にして足れり、今夜其処に達するを得べしと考へしに、明晩辛ふじて目的の地に至るを得、其間の辛苦実に甚しかりしものあればなり。
之れより上越の国界なる山脈の頂上を経過す、脈尽くる所太平原あり、原尽きて一山脈あり、之れを過れば又大平野あり、之れ即ち真の尾瀬が原にして、笠科山と燧山の間に連り、東西一里南北二里余、一望些少の凹凸なく、低湿にして一面湿草を生じ、所々に凹所ありて水を湛ゆ、草ある所は草根によりて以て足を支持すれども、草なき所は湿泥足を没す、其危険云ふべからず、且つ茫漠たる原野のことなれば、如何に歩調を進むるも容易に之を横ぎるを得ず、日亦暮れしを以て遂に側の森林中に入りて露泊す、此夜途中探集せし「まひ茸」汁を作る、露宿をなして以来此汁を啜ること二回、其味甚佳なり、加ふるに鰹の煑出しを以てす、偶々汁を作ることあるも常に味噌を入るるのみなれば、当夜の如き良菌を得たるときは、之を喫する其何椀なるを知らざるなり、而して此を食ふを得るは全く人夫中の好漢喜作の力にして、能く害菌と食菌とを区別し、余等をして安全之を食ふを得せしむ、為めに一人も中毒に逢ひしものなし、此他飯の如き如何なる下等米と雖も如何なる塵芥を混ずると雖も、其味の佳なる山海の珍味も及ばざるなり、余の小食家も常に一回凡そ四合を食したり、大食の習慣今日に至りても未だ全く旧に復せざるなり、食事了れば例により鹽原巡査の落語あり、衆拍手して之を聞く、為めに労を慰めて横臥すれば一天墨の如く、雨滴点々木葉を乱打し来る、加ふるに寒風を以てし天地将に大に暴れんとす、嗟呼昨日迄は唯一回の細雨ありしのみにして、殆ど晴朗なりし為め終夜熟睡、以て一日の辛労を軽んずるを得たるに、天未だ我一行を憐まざるにや、将に大雨を下さんとす、明夜尚一回露宿をなさざれば人家ある所に至るを得ず、余す所の二日間尚如何なる艱楚を嘗めざるべからざるや、殆ど予測するを得ず、若し九仭の功を一簣に欠くあらば大遺憾の至りなり、希くは此一夜星辰を戴きて安眠するを得せしめよと、誰ありてか天に祈りしなるべし、天果して之を感ぜしか、靉靆たる怪雲漸次に消散し風雨暫らくにして已みぬ。
九月二十六日
早朝出立、尾瀬の大原野を経過し燧山麓に至る、目的とする所の尾瀬沼は眼眸に入り来らず、燧山麓一帯の山脈横はれるを以て、之を経過すれば沼に到るを得るならんと察し、又険山を攀登す、沼猶見えず、又次の高山に登る猶見えず、斯くして遂に最高の山に上る、欝樹猶眼界を遮る、衆大に困み魑魅の惑す所となりしかを疑ふ、喜作直ちに高樹の頂に攀ぢ上り驚て曰く、眼下に茫々たる大湖ありと、衆忽ち拍手して帰途の方針を定むるを得たるを喜び、帰郷の近きを祝す、日既に中して腹中頻りに飢を訴ふ、されども一滴の水を得る能はず、况んや飯を炊くに於てをや、此に於て熬米を噛み以て一時の飢を忍び、一気走駆して直ちに沿岸に至り飯を煑んと决す、此に於て山を降り方向を定めて沼辺に至らんとし、山を下れば前方の山又山、之を超ゆること数回に及ぶも沼猶見えず、已むを得ず渓流を汲んで昼飯を喫す、時に午後三時なり、腹充ちて勇を皷し、又山を超ゆる数回にして始めて尾瀬沼岸に達するを得たり、抑燧山は岩代国に属し巍峩として天に秀で、其麓凹陥して尾瀬沼をなし、沼の三方は低き山脈を以て囲繞せり、翻々たる鳧鴨は捕猟の至るなき為め悠々として水上に飛翔し、一面の琉球藺は伐採を受けざる為め茸々として沼岸に繁茂し、沼辺の森林は欝乎として水中に映じ、翠緑滴る如く、燧岳の中腹は一帯の雲烟に鎖され夕陽之に反照す、其景の絶佳なる、恰も彼七本槍を以て有名なる賤が岳山下余吾湖を見るに似たり、陶然として身は故山の旧盧にあるが如く、恍として他郷の深山麋熊の林中にあるを忘る、前日来の艱酸と辛労とは茫乎として転た夢の如し、一行皆沼岸に坐して徐ろに風光を賞嘆して已まず、遠く対岸を見渡せば無人の一小板屋忽ち双眼鏡裡に映じ来る、其距離凡そ二里、曾て聞く沼岸には岩代上野の県道即ち会津街道ありて、傍らに一小屋あり、会津檜枝岐村と利根の戸倉村との交易品を蔵する所にして、檜枝岐村より会津の名酒を此処に運び置けば、戸倉村よりは他の物品を此処に持ち来り以て之を交易し、其間敢て人の之を媒介するものなく、只正直と約束とを守りて貿易するのみと、此に於て前日来より「あるこーる」に渇したる一行は、勇を皷して皆曰く、たとひ日暮るるとも其小屋に到達し、酒樽若しあらば之を傾け尽し、戸倉村に帰りて其代価を払はんのみと、議忽ち一决して沼岸を渉る深さ腿を没し泥濘脛を埋む、加ふるに寒肌粟を生じ沼気沸々鼻を衝く、幸ひに前日来身躰を鍛錬せしが為め瘧疫に罹るものなかりき、沼岸の屈曲出入は実に犬牙の如く、之に沿うて渉ることなれば進退容易に捗取らず、日暮れて遂に一歩も進むを得ず、空しく遥かに彼小屋を望んで沼岸に露営を取りたり。
晩餐了りて眠に就く、少焉ありて眼覚むれば何ぞ図らん、全身雨に濡うて水中に溺れしが如し、衆既に早く覚む、皆笑つて曰く君の熟睡羨むに堪へたりと、之より雨益甚しく炉辺流れて河をなし、腰をだに掛くる所もなく、唯両脚を以て躰を支へて蹲踞するのみ、躰上に毛氈と油紙とを被れども何等の効もなし、人夫に至りては饅頭笠既に初日の温泉塲に於て破れ、其後荊棘の為めに悉く破壊せられ、躰を被ふべきもの更に無く、全身挙りて覆盆の雨に暴露せらる、其状誠に憐むに堪へたり、衆相対して眼を開くも閴として声なく、仰ぎて天の無情を歎す、而れども俯して熟考すれば之れ最終の露宿にして、前日来の露宿中は雨殆んどなく、熟睡以て白日の労を慰せし為め、探検の目的を遂ぐるを得せしめしは、実に天恩無量と云つべし、豈此最終の一夜に臨んで怨みを述ぶべけんや、若し此探検中雨に逢ふこと多かりせば尚二倍の日子を要すべく、病人も生ずべく、為めに半途帰路に就くか或は冒進して餓死に陥るか、孰れか此両策の一を取りしなるべし、而るに後に聞く処に拠れば、沼田近傍は雨常に多かりしに、利根山中日々晴朗の天気なりしは不可思議と云ふの外なし、窃かに人夫等の相談するを聞けば皆感歎し曰く、之れ文珠菩薩の恩恵にして、世人未知の菩薩が探検一行によりて、世に顕はれ出でんと欲するの志は、一行をして日々晴天に逢はしめ、以て無事目的を達して帰るを得せしむるなり云々と、朝来雨漸く霽れ来れば一行笑顔を開き、一駆して戸倉に至るを期す、此夜森下君の発案により、鍋伏せを行ふて魚を取るを得たり、即ち鍋上に穴を穿てる布片を覆ひ、内に餌を入れて之を沼中に投じたるなり、「どろくき」と称する魚十余尾を得たり、形鰌に非ず「くき」にも非ず、一種の奇魚なり、衆争うて之を炙り食すれど、不幸にも前述の如く大雨なりしを以て、唯一回の引上げをなししのみ。
九月二十七日
終夜雨に湿ひし為め、水中を歩むも別に意となさず、二十七名の一隊粛々として沼を渉り、蕭疎たる藺草の間を過ぎ、悠々たる鳧鴨の群を驚かす、時としては柳条に拠りて深処に没するを防ぎしことあれども、進むに従うて浅砂の岸となり、遂に沼岸一帯の白砂を現じ来る、砂土人馬の足跡は斑々として破鞋と馬糞は所々に散見す、一行驚喜して曰く之れ即ち会津街道なりと、人影を見ざるも既に村里に在るの想をなせり、歓呼して一行の無事を祝す、昨暮遠望したる一小板屋は尚之より岩代の方角に向て一里余の遠きに在り、屋内酒樽のあるあらば極めて妙なれども、若し之なくんば草臥れ損なりと、遂に帰路を取りて戸倉に至るに决す、一帯の白砂過ぎ了れば路は戸倉峠に連なる、峠の高さ凡そ六千呎、路幅僅かに一尺、漸く両足を容るるに堪ふ、之れこそ利根の戸倉と会津の檜枝岐との間に在る県道なれば、其嶮岨云ふべからずと雖も、跋渉に慣れたる余等の一行は、恰も坦たる大道を歩む如き心地をなし、五里の嶮坂瞬時に降り尽し、戸倉村に至りて区長松浦方に泊す、戸倉村と云へば世人は之を深山幽谷の人民として、殆んど別天地の如くに見做せども、凡そ十日間人影だも見ざる余等一行は、此処に着して初めて社会に出でたるの心地せられ、其愉快実に言ふべからず。
九月二十八日
戸倉を出立して七里の山路を過ぎ、花咲峠の険を越えて川塲湯原村に来り泊す、此地に於て生死を共にし寝食を同じくしたる人夫等十五名と相別るることとなり、衆皆其忠実冒険、能く一行を輔助せしことを謝し、年々新発見にかかる文珠菩薩の祭日には相会して旧を語らんことを約し、袂を分つこととはなりぬ。
九月二十九日
川塲を発して沼田に帰れば、郡役所、警察署、収税署等の諸員及有志者等、一行の安着を歓迎し、直ちに三好屋に於て盛んなる慰労会を催されたり。
翌日一行の諸氏と相分れ、余は小西君と共に車を駆りて前橋に帰りたり。
此探検に就て得たる利益の大要を記すれば左の如し。
(第一)地図の改正。県属地理掛森下、深井の二君は精密なる地図を製せられたり、利根河上流の模様は将来頗る改正を要するなり、上越国界に至りても同じく改正を要すれども、尚精確を得んには向後尚一国上越及岩代の三ヶ国より、各人を派して国界を定めし後にありとす。
(第二)殖産事業。従来藤原村三十六万町歩即ち凡そ十三里四方の山林ありと称せしも、凡そ其半なるを確めたり、利根山奥は嶮岨人の入る能はざりし為め、漫りに其大を想像せしも、一行の探検に拠れば存外にも其狭きを知りたればなり、楢沢の平野は良樹蓊欝として森林事業に望みあり、須原峠字上ヶ原の原野は牧畜に宜しく尾瀬の大高原は開墾するを得べし、此他漸次道路を開通せば無数の良材木を運び出す事を得べし。
(第三)植物。利根山奥の低き所は山毛欅帯に属し、高きは白檜帯に属す、最高なる所は偃松帯に属すれども甚だ狭しとす、之を以て山奥の入口は山の頂上に深緑色の五葉松繁茂し、其他は凡て淡緑色の山毛欅樹繁茂す、山奥の深き所に至れば黒緑色の白檜山半以上に茂り、其以下は猶山毛欅樹多し、故に山々常に劃然として二分せられ、上は深緑、下は淡緑、其景実に画くが如きなり、此他石南樹、「ななかまど」「さはふたぎ」、白樺、楢類等多しとす、草類に於ては「わうれん」、「ごぜんたちばな」、「いはべんけいさう」、「まひづるさう」、「まんねんすき」、「ひかげのかづら」、毛氈苔、苔桃、「いはかがみ」、「ぎんらんさう」、等多し、菌類に於ては「みの茸」、まひ茸、黒ほざ茸、す茸、「こぼりもだし茸」、等食すべきもの実に多し。
(第四)鉱物及動物。別に貴重の金石を発見せず、唯黄鉄鉱の厚層広く連亘せし所あり、岩石は花崗岩尤も多く輝石安山岩之に次げり、共に水蝕の著るしき岩石なるを以て、到る処に奇景を現出せり、文珠岩の如きは実に奇中の奇たるものなり、要するに人跡未到の地なるを以て、動植物及鉱物共に大に得る所あらんとするを期せしなれ共、右の如く別に珍奇なる者を発見せざりき、されども頗る種々の有益なる材料を得来りしは余の大に満足とする所なり、動物にては鹿、熊尤多くして山中に跋扈し、猿、兎亦多し、蜘蛛類、蝨類の珍らしき種類あり、鳥類にて耳目に触れしは「かけす」、四十雀、梟ありしのみ。
終りに臨み熊に就て一言すべし、熊の巣穴は山中に無数あるにも拘はらず、藤原村に於て年々得る所の熊は数頭のみ、之れ猟師の勇気と胆力と甚少きを以てなり、即ち陥穽を設けて熊を猟するあり、或は遠方より熊を銃殺する位なり、若し命中誤りて熊逃るれば之を追捕するの勇なきなり、而るに秋田若くは越後の猟人年々此山奥に入り来りて猟するを見れば、其冒険なること上州人の能く及ぶ所に非ずと云ふ、其方法に依れば熊を銃撃して命中誤り、熊逃走する時之を追駆すれば熊遂に怒りて直立し、将に一跳人を攫まんとす、此に於て短剱を以て之を貫き、直ちに熊を抱きて相角し遂に之を殺すなり、熊人を見て逃れんとする時も亦然すと云ふ、此回の探検中は熊に逢ひし事なし、之れ夏間は人家近き山に出でて食を取り、冬に至りて帰蟄する者なればなり、且つ一行二十七名の多勢なれば、如何なる動物と雖も皆遁逃して直ちに影を失し、敢て害を加ふるものなかりき、折角携帯せる三尺の秋水も空しく伐木刀と変じ、「ピストル」猟銃も亦雨に湿うて錆を生ぜる贅物となり、唯帰途の一行無事の祝砲に代はりしのみ。
利根水源探検紀行終