青空文庫ビューアー

新浦島

新浦島

アーヴィング ワシントン

「サクソンのかしこき神にちなみてぞ、けふをば『ヱンスデイ』といふ。その神見ませ、よるよりも暗くさびしき墳墓おくつきに、くだりゆくまで我が守る宝といふは誠のみ。」

カアトライト

 ホトソンに沿うて登つて行つたことのある旅人は、屹度ケエツキルの山を覚えて居ませう。これはアパラツチエン山の幹から出た小枝で、遙に西に向つて、仰いで見れば、麓は河のほとりに垂れて、いたゞきは空に聳え、自づと近隣の地を支配して居ます。四季の変、天気のかはりは勿論、一日の中でも、一刻一刻に不思議にも色と形とを改めるは此山です。それだからこの山の見える処に住む女房は、皆なこれを晴雨計にします。好い天気の続くときは、青か紫かの衣を着て、その大胆らしい界の線をくもりのない夕空に画き、時としては、近きあたりの森には、雲も烟も見えぬに、その巓は、鼠色の霧のを掛けられ、西山に這入り掛つた夕日の、最後の光に触れて、凱旋の人の戴く冠の様に光り輝きます。

 此奇怪な山の麓で、旅人はある村から立ちのぼる、弱々しい烟を見ましたらう。丁度あの晴れた空の青「インキ」が、近い林の緑色に移り行く所で、木の間からちら/\と屋根の見える村です。この村は小い、古風な村です。それも尤も、むかし和蘭陀ヲランダの移住民が、当時善政の聞えのあつたペエテル、ストユイヱサント(渠は無窮の平和にやすめ)の時代に建てたのだから。四五年前までは、まだ和蘭陀から持て来た、小い黄いろな煉化石で積み上げた、格子窓の附いた、屋根の正面に破風を造つた、その上に風のきを知らする鶏が立つて居る家が、沢山残つて居ました。

 丁度この村に、この家の一つに、本たうを言へば、随分雨風に打たれた破れ家に、まだ此辺が英領であつた頃、愚直な、気の好いリツプ、フアン、ヰンクルといふ人が住んで居ました。先祖を問へば、ペエテルのまだいくさの功名を世にとゞろかした時、屈竟の武士で、フオオト、クリスチナを打囲とりまいた一人のフアン、ヰンクル氏です。然し先祖の勇気は遺伝しないことか、私が見た処では、此人は愚直で、好い気で、隣には親切で、女房には始終馬鹿にせられて居ました。渠が喧嘩を好まず、兎角柔和で、世間の人にすかれたのは、全く右の最後に挙げた遭遇の結果でせう。大抵内で喧嘩の好きな女房に支配せられて居る男は、世間で平和を好み、誰にでも従つて、好い人だと言はるゝものです。人の性質は家内の不和といふ火力の強い炉で柔に、撓み易くせられるもので、善人になるには、世界中の高僧の説教を聴くより、女房の窓帷まどかけの下の説経を聴くに限ります。この説経の外に、まあ何が柔和と忍辱とを教へませう。して見ると矢釜やかましい女房を持つた人は、仕合せです。嗚呼、リツプ、フアン、ヰンクルの仕合せもの。

 また此人が近隣の女房共の憐を受けたことは非常です。総て婦人は他家の内訌もめに就て、評議を凝らすときは、亭主の党派に加はるものですが、フアン、ヰンクルの家の事では、殊に亭主を賛成し、晩の会議で、罪の全体を負ふのは、フアン、ヰンクル夫人に極つて居ました。その外、村中の小供の仲間で、此人の景気は盛なもので、この人の姿が近寄る度に、村童の群が、凱歌を挙げて迎へました。かれ等の為めに玩具を作つて遣り、紙鳶を飛ばして遣り、独楽こまを廻して遣り、また幽霊や、魔女や、銅色人種の面白い語をして遣るのは、此人の外にはないからです。村童は乍ちにこの人を囲繞とりまいて上衣の裾に縋り、脊中に攀ぢ登り、思ひの儘な悪劇いたづらをしても此人は腹を立てません。小供が馴染む許りではない、此人に吠えた犬は、近村に一疋もありませなんだ。

 唯だリツプが性質の中で、一番悪いのは、利潤になる様なしごとを、一切嫌ふのです。それはかれが耐忍力に乏しい為めでせうか。韃靼だつたん人の槍よりも長い釣竿を握つて、息をめて湿り勝な岩の上に坐り、一尾の魚も取らずに、平気で一日も居るのは、耐忍力ではありませんか。鳥銃を肩に掛けて、沼を渡り、森を穿ち、登りつ、降りつ、幾時となく彷徨さまようて、山鳩一羽、栗鼠二三頭を捕つて、喜んで還るのは、耐忍力ではありませんか。隣の人の業になら、どんな六つかしいことにでも、手を借すのは、此人です。祭の時に蜀黍もろこしさやを剥ぎ、石垣を築くとき、第一に力を出すのは、此人です。村中の女房が、亭主の辞退する用は、皆な此人に頼み、走り使は皆なこの人にさせます。このとほりにリツプは世にありとあらゆる人の仕事をします。そのしないのは、自分の仕事計りです。自分の家を治め、自分の畑を耕すことは、かれには所詮出来ませなんだ。

 実に妙な性分です。然し其訳を問ふと、何時でも立派に言ひ解きます。私の田を耕す程、世に損なことはない。これは国中で悪いのです。いくら骨を折つても、穀物がみのつたことはない。垣は誰も破らぬに独りでに破れて仕舞ふ。牛は逃げて仕舞つたり、菜の中へ這入つたりします。無益な艸は外よりも早く延びます。此畑へ仕業に出ると、何時でも意地悪く雨が降る。斯う言つて、打ち棄てゝ置く程に、先祖から譲り受けた田は、年々に減つて仕舞ひ、今は唯だ些し計りの、蜀黍と馬鈴藷を種付ける畑ばかりが残りました。

 またリツプの子供は、汚れた膚、破れた衣、誰をも親に持たない子の様です。父にそつくりなリツプといふ息子は、唯だ貌計でなく、心まで父に似やうといふ、頼もしい望のある小僧です。何時も馬の子の様に、母の跡に附き、親父の穿き古した、ぼろ/\のずぼんの、垂れて地を払ふのを、片手でつまんで歩くのは、丸で天気の悪い時に、善いきものを着た女が、すそかゝげるやうです。

 リツプ、フアン、ヰンクルは例の仕合せものゝ、例の愚直な、放任な、世間を易く見て、白麺包でも黒麺包でも、心にせよ体にせよ、成る丈少し労して得られるものを食ひ、一弗まうけようと骨を折らうよりは、一銭贏けて餓ゑてもよいと云ふ人物の一人でした。かれの安を妨ぐるものがなかつたなら、かれは口笛を吹き乍ら、さぞ面白く世を渡つた事でせう。然し煩聒やかましい女房は、かれの懶惰無頓着抔が、一家の破滅だといつて断えずかれを責めます。朝も昼も晩も女房の舌は止むときなく運転して、何かこの男が言つたり、たりすると、直に長演説が始まります。こんな演説に出逢つた時のリツプが答辨は、唯だ一つで、この一つはかれの癖になりました。かれは肩を聳かし、頭を掉り、うは目を使つて一言も云ひません。この答辨に次で、何時でも女房が最う一遍新にたまを籠めて発砲し、リツプは僅に身を以て免かるといふ様な勢で、兵を引上げ、外へ出て行きます。これは何処でもしりにしかれて居る亭主のたつた一つの逃道です。

 家内でリツプに服従して居るものと云つては、ヲルフと名の付いた犬計りで、この犬も矢張しりにしかれて居る仲間です。何故なぜといふに女房の目から見れば、此犬は亭主の懶惰の友で、亭主が頻に失策をするのはかれの為めのやうに見えます。だから女房の目は憎気にこの犬を見ます。全体、犬の徳といふべきものは、皆な備へたこの犬、昔よりこの辺の蓊鬱たる林を穿つた中で、最も大胆なこの犬ですが、一女子の舌のいつまでも猛烈なのには、何等の胆力か挫折せずに居られませう。ヲルフは家に這入るや否や、頭を低れ、尾は地まで下げて、股の間に插み、間の悪るさうな顔で歩き廻り、折々横目で主婦を見て居ますが、箒の柄、杓子の音が少しでもすると、一目散に戸口を駈け出します。

 夫婦になつて居る歳が移るに従つて、リツプの地位は段々に悪くなつて来ます。原来酷い性は決して年を経て寛にはならず、鋭利な舌は断えず用ゐるに連れてとがつて来る刃物です。既に久しい間、リツプは家から逐出される度に、村中の学者、儒者、その外のなまけものが開いて居る一種の常置会に臨むことにして居ました。会場は戸口にジヨルジ第三世陛下の赤い様な像が掛つて居る小い酒屋の前の長椅子です。永い眠むさうな夏の日に、かれ等はこの日蔭に腰を掛けて、村中の噂や、訳もない怠屈な永譚をします。然し稀に旅人の手から古新聞を一枚貰つたとき、この仲間でするこまかな議論を聞く事が出来たなら、或る政治家は随分金を払つたかも知れません。学校教師デリツク、フアン、ブムメルがぽつ/\と読む文句を、かれ等はまあどんなにか真面目に聞いて居ましたらう。読むものは字書の中のどんな難字に遭つても駭かない、すばしこい、賢い小男です。聴く人は紙上の政治問題に就いて、まあどんなに賢く議論をしましたらう。この既に二三月前に済んだ問題に就いて。

 この会議の首座しゆざで、その意見を支配して居たのは、村の故老で、宿屋の主人ニコラス、ベツタアです。この人は家の前の大木の蔭に何時も座つて居て、毎日丁度、日光を避けられる丈体を動かします。ですから近所の人はこの人の座を見て、時刻を知ることは、丁度沙漏刻すなどけいと同じことです。この人は多く議論を致しませんが、煙草はその代りに絶えずみます。かれの党(世の英雄には屹度その党があります)は、それでも善くかれの意を解します、かれの向背を探ります。人の読むこと、言ふことなどが気に入らぬときには、渠は劇しく煙草を吸ひ込み、また頻に短い怒つた様な烟の吹き方をします。若し又気に入る時は、烟草をしづかゆつくり吸ひ込み、軽い穏な雲を吹き出し、時としては烟管を口から引き出し、匂ひの善い烟に鼻のあたりで環を書かせ、物体もつたいらしくうなづいて、その腹からの大賛成を表します。不便なリツプは、此とりでからも、彼喧嘩好きの女房に逐はれました。彼女房はこの平和な集会に突然駈け込んで、誰彼の嫌なく、会員一同をやくに立たずと罵り、例の尊厳なるニコラス、ベツタアの身さへ、この恐ろしい変生男子へんせうなんしの大胆な舌で傷られました。女房は覿面てきめんにかれに向つて、自分の夫を懶惰にする人だと責めました。

 遂には不便なリツプも偪迫ひつぱくに堪ぬ様になりました。農家の力作と女房の喧嘩とを逃れる最後の策は、鳥銃を手に把つて、山深く這入ることです。さて山の中では、折々木の根に腰を掛けて、嚢の中の物をヲルフにけてやります、この同じ危難に遭つて居る同病相憐む猟犬のヲルフに。こんな時にはリツプは犬に向つて言ひます。「不便なヲルフ、そなたの主婦は犬同様に汝を扱て居るぞ。然し苦労にするな。吾児よ。おれが生きて居る間は汝の力になる友達が一人はあるといふものだ。」ヲルフは大抵尾を掉つて、もの思はし気に主人の顔を見ます。嗚呼犬が不便といふことを知るものなら、ヲルフがこんな時に心の底から主人をふびんがるのは疑ひもないことでせう。

 ある秋の晴れ渡つた日に、リツプ、フアン、ヰンクルは例の通りケエツキルの山に這入つて、われ知らず、この山の絶頂に近い処まで来ました。かれは栗鼠狩りすがりといふ道楽に引かれて来たので、かれの放つた鳥銃てつぽうの音を反射する谺響こだまは、また一たびこの無人境の寂しさを破りました。渠が疲れ果てゝ喘ぎつゝ、崖の縁を冠の様に飾つて居る、山苔で裹まれた緑の丘の上に倒れたのは、昼過ぎ遅くでした。木々の隙間から見渡せば、丘の下の数哩に亘つた森が見えます。少し隔つた処を遙に、ずつと遙に見下みおろせば、美しい、静な、然し荘厳なホトソンの流が帯の様に見えて、紫の雲、又は(此処彼処にその水晶の胸の上で仮寐うたゝねをして居る様な)徐々とすべつて行く小舟の帆が、影を写し、その末は青う見える高原で、そのはては恍惚ぼんやりと知れなくなつて居ます。

 外のそばを見下せば、淋しく荒れた深い谿で、その底の岩には、許多の罅隙われめが這入つて居て、所々には崖から飛出した石もあり、夕陽の光線の屈折反射した末が僅にこれを照らして居ます。リツプはこの景色に対して暫くは思ひ沈んで居ました。蒼然たる暮色は段々に迫つて来て、山々は長い青色の影を谷に落し初めました。かれはこの様子では村に帰り付くより、余つ程早く日が暮れて仕舞はうと考へ、還り付いた時に女房の怒は何程だらうかと、覚えず太い息を吐きました。

 リツプが奮発して帰らうとし掛つた折に、遠くから「リツプ、リツプ」と呼ぶ声がします。四辺あたりを見廻はすに、頭の上を飛んで行く一羽の鴉の外に、目に遮るものもない。渠は心の迷であつたかと、又た行かうとすると、同じ声で「リツプ、リツプ」と呼ぶ。この声が静な日暮の空気に響き渡る時に、連れて居る猟犬ヲルフの毛が立つて来て、犬は静に鼻を鳴らし乍ら、リツプにり倚つて、物に畏れる様な風で、谷の底を覗きます。リツプも何となく薄気味が悪くなつて、ふと犬の見詰めて居る方角を見ると、岩を踏んで登つて来る怪しい人の姿が見えます。かれは脊に負うて居る重荷の為めか、腰を曲めて歩く様子です。この浮世を離れた場所で邂逅であうた人の姿には、リツプも少し驚きましたが、また近村のものでもあるかと思つたから、かれの重さうな荷を負ふのを、少し扶けて遣らうと急いで崖をりました。

 近くなればなる程、不思議なのは異人の模様です。たけは低く、力のありさうな老人、髪は濃くて箒の様になり、髯は灰いろです。打扮いでたちは和蘭陀の古代の風俗(帯で腰を約した木綿衣)袴は幾重も穿き、外の分は濶くて、両側は各一列のぼたんで留めてあります。膝の処には紐が附いて居ります。肩に載せて居るのは重い桶で、その中にあるものは薬酒りきよーると見えます。異人は手真似でリツプを呼んで、少しすけて呉れと頼む様子です。リツプは少しはこの新知己に対して嫌疑の心を懐きもしたが、例の気の好い所から、手を借してやりました。異人とリツプとは代る/\に荷を負つて、谷間を登つて行きました。此谷間は古代に山川の流れた痕と見えます。攀ぢ登つて行く中に、折々遠い雷の様な音が耳に達します。この音は登つて行く道の窮まる所に見える岩の裂け目から出る様です。リツプは初めこの音を聞いた時、立ち留つて耳を澄ましたが、深山で折々逢ふ一時の、通り過ぎの雷かと思つたから、又た疑はずに進で行きました。扨て例の岩の裂け目を通り越して見ると、こゝは一つの岩窟いはむろです。窟の形は劇場の桟敷に似て居て、その周匝めぐりは急な崖です。この崖の上には老樹が枝を交へて、唯だその隙間に、藍の様に青い空と、光のある夕の雲が見えるばかりです。リツプはこの異人と一所に登つて往く間始終無言でした。何故この山奥へ、薬酒を一桶負うて這入るか。その訳は解りませんが、この異人の姿には何となく馴れ難い、敬はねばならない所があつて、何うも話を仕掛けられませなんだ。

 岩窟に這入ると、また驚くべきものが目に触れました。窟の中央の窪んだ処に諧譃おどけた人物が寄つて、尖柱戯(向うに立てゝあるとがつた木の柱を、こちらから木の丸をころがし掛けて倒す戯)をして居る。その人物の衣は可笑しい外国風の仕立です。一人は短い袍を衣て、外の連れは半臂に長い剣を佩き、大抵皆な(彼の荷を負うて来た人の穿いて居る通りな)無暗に寛い袴の中に嵌まり込んで居ます。それにその人々の顔は皆な妙です。一人は頭が大きく、額が広くつて、目は豕の様に狭く、外の一人の顔は丸で鼻計りで出来て居る様で、その上から赤い鳥の羽で飾つた、白い棒砂糖形の帽子がぶさり掛つて居ます。どれも色々な形の、様々な色の髯を生やして居ます。中で一人は頭と見えます。此人は日にやけた顔で、力の強さうな老人です。渠は紐で飾つた袍を着て、広い帯に剣を懸け、羽附きの高く尖つた帽を戴き、赤いたびかゝとの高い、花飾りの附いた靴を穿いて居ます。リツプは此仲間を見て、村の牧師シエエクさんの部屋にある、和蘭人の移住の時に来たフランドルスの古い画を思ひ出しました。殊にリツプの目に可笑しく見えたのは、此人々が真から楽んで居るに違ないのに、皆な真面目な顔をして、さも秘密らしく黙つて居ることです。ですからリツプが今迄見た内でこれが一番沈んだ会でした。この場所の静かなのを時々破るものは、たまの音計りです、抛げ出される度に、山伝ひに谺響を喚起す、鳴渡る雷の様な丸の音計りです。

 桶を担うた人に連れられて、リツプがこの異人の群に近寄つた時に、渠等は俄に遊を廃めて、此方こちらを見ました。その気抜のした、そして譬へて云つて見ると、石や金でこしらへた彫像の目の様な目と、粗相なつやのない顔附を見たリツプは、しんの臓が胸の中で顛倒ひつくりかへつて、膝はしまりがなくなりました。一所に来た男は桶の薬酒を大きな瓶に分けて入れましたが、入れ仕舞ふとリツプを喚んで、異人達のお酌をさせました。かれはこわがつて慄ひ乍ら酒をいで出すと、異人は黙つて飲み乾し、また遊の方へ顔を向けて、あたりには構ひませなんだ。リツプは段々に怖いと羞かしいとを忘れて、渠等の見ないを僥倖さいはいに薬酒を試めして見ると、上等の杜松子酒とせうししゆの様な味がしました。此男は元来のどの乾くたちですから、一度この味を占めると、また一口飲みたく成る、つい二度三度と瓶へのお見舞を重ねる中に、段々に気が遠くなつて、目がちらつき、頭は何時ともなく項垂うなたれて来ました。かれは眠つて仕舞ひました。

 目が覚めて視れば、また原の緑の岡の上に居ました、丁度あの異しい桶を担うた男を始めて見た所に。目をこすつて見れば、夜は明け離れて、旭が麗かに照つて居ます。木の間には枝から枝に渡つて鳴く小鳥、清い山風にさからつて高く舞ふ青空の鷲ばかり。「はてな、一晩是処こゝであかして仕舞つたか知らん」といふのが、リツプの最初の考でした。渠は寐附いた迄の事を繰り返して思ふに、桶を負うた異人との邂逅であひ、岩窟、物凄しい岩陰、陰気な尖柱戯の遊仲間、瓶。「嗚呼、その瓶だ。その因果な瓶だ。まあ、何と女房に言訳をしやう。扨々困つた。」

 かれは鳥銃が四辺あたりにあるかと見廻しました。うしたことか傍にあるのは、持ち慣れた、磨き立つた、好く油を引いた鳥銃ではなくつて、古い銃身には一面にさびの附いた、撥条はじきの落ちた、を虫の喰つた鳥銃です。かれの考では、あの真面目腐つた、生酔なまえひの山男が、おれに一杯喰はせて、酔ひ倒れたのを幸に、鳥銃を盗んだことかと思ひました。ヲルフも見えないが、これは栗鼠か、鳥かを追掛けて往つたかも知れません。かれは口笛を吹いて見たり、名を呼んで見たりしても、口笛と犬の名とを呼び戻す谺響こだまは聞えて、犬の姿は見えませなんだ。

 かれは昨日の怪い目に逢つた処へ往つて見やうと思ひ定めました、若し尖柱戯仲間の一人に出逢つたら、鳥銃と犬とも、取り戻されるかも知れぬから。扨てう思つて立ちあがるとき、何となく節々のあがきが不如意なのに気が附きました。「うも石の上なんぞに寝ると、体をだいなしにして仕舞ふ。若しこれがこうじて僂麻質斯れうまちすにでもなつたら、さぞ女房に矢釜しく云はれることだらう。」と独言を言ひ乍ら、漸うの思で渓間に降りて、昨日異人と連立つて歩いた道の処に来ました。然し不思議なは、この渓間は山河になつて、岩から岩へと跳る水は、やかましい小言で、此無人の境を賑はして居ます。骨を折つて、河の岸に生茂つた樺やはしばみや「サツサフラス」の小枝を押し分け乍ら、岸に沿うて登つて行くに、樹々の枝に蔓を渡して、往方ゆくての途に網を張つた、野生の葡萄が、折々足に搦んで、その困難、実に昨日のたぐひではありませなんだ。

 漸う岩窟の入口まで来て見れば、今日は穴も何もありません。削立つた岩は罅隙すきまのない壁の様で、しかもその上から瀑布たきが泡を飛ばして墜ちて来て、直ぐ下にある、周囲まはりの森の影に裹まれて、真黒な淵にはいります。可哀さうにリツプはこれから先へ一足も行かれません。かれは又た口笛を吹いたり、ヲルフの名を喚んだりして見ても、こたへるものは遙に高い枯木の周匝まはりを飛んで居る惰鴉なまけがらすの一群ばかりです。かれ等は高い処から、この気を揉んで居る人間を見卸して、馬鹿にする様に見えます。はてうしませう。日景ひかげは段々移る。朝飯を食はないリツプは追々飢を覚えて来ました。犬と鳥銃とはなくして仕舞つて、腹は立ちます。家へ帰らうには、女房がんなにか叱るだらうと気に成る。然し山の中で饑死をする訳にも行きません。かれは首をつて、古鳥銃を肩に掛け、心配を胸に帰途に掛りました。

 村に近くなつて来ると、一群の人が行きちがひましたが、一人も知つた顔でありません。かれは村中に知らない顔はなかつたものを。それに邂逅であうた人のきものが、皆んな見慣れない仕立です。かれ等は皆なリツプを見て驚く様子で、また言ひ合はせた様に、頤をさすります。リツプは覚えず自分の頤を摩つてびつくりしました、髯が一尺も長く伸びて居たから。

 リツプが村境に這入ると、識らない小供の一群が、跡からいて来て、白い鬚に指をさして笑ひ、また声を立てゝ叫びます。犬の居る前を通過ぎる度毎に吠えられるから、気を付けて見れば、皆な識らない顔の犬仲間です。村も変つて、大きくなり、また人もえて居ます。見馴れた家は痕もなくなつたかと思へば、昨日まで家のなかつた所に、檐を連ねた街が出来て、家々の入口には、知らない名が書いてあり、窓からは知らない人が顔を出して、何も彼も知らないもの計りです。かれの胸には心配が起つて来て、つひにかれは自分も周囲まはりの世界も一しよに化かされて仕舞つたのではないかと思ひました。これが我村に違はないものを、昨日出て行つた我村に。ケエツキル山は彼処あそこに聳えて、ホトソンの清い流は此処こゝに流れて、丘も谷も何時いつもの通です。リツプの心は千々に迷うて、何となく悲しく成つて来ました。「あゝ、きのふの瓶の酒だに飲まなかつたら、こんな気違ひにはならなかつたらうに、」と渠は歎息しました。

 漸うの思で、渠は我家を探し当てゝ、怖々に近寄りました、女房の耳に立つ声が、今するか/\と思ふから。見れば哀れな家の有様です。屋根は落ち込み、窓は破れ、戸は蝶番からはづれて居ます。何処かヲルフに似たやうな、饑死をし掛つた犬が一匹、家の周囲まはり彷徨ぶらついて居るから、名を呼んで見ると、厮奴きやつは歯を露出むきだして、噢咻うなつて逃げて仕舞ひました。随分これは面白くない待受けといふものでせう。「おれの飼狗まで、おれを見忘れて仕舞つたか、」とリツプは大息ためいきを吐き乍ら云ひました。

 かれは家の閾を跨ぎました。原とリツプの女房は矢釜しい丈、家の掃除はよくして居たが、今見れば荒れ果てゝ、人影もない様です。この有様を見て、女房の怖さも忘れて仕舞つたリツプは、女房と子供との名を高く呼びました。この声はからになつて居る部屋々々へ響いたが、それつきりに、又た静かになりました。

 落胆がつかりして家を出て、急足はやあしで何時もの酒屋に来て見れば、これもうしたか消えて仕舞つて、その代に大きな、古びた、木造りの家がありました。破れ掛つた処を、襤褸ぼろ古帽子ふるしやつぽで埋めた窓が、広く開けてあつて、戸の上には、「ジヨナタン、ヅウリツトルの聯邦客舎」と塗字で書いてあります。昔し酒店の簷端を掩うて居た古木はなくなつて、その代に太い裸な棒が一本立つて居て、その尖には寐る時に被ぶる赤帽子の様なものが附いて居る、その処から旗が一流れ懸つて居るのを、善く見れば、星とすじとが妙な工合に組合はせてある、渾て見るものが皆な不思議です。「然しジヨルジ王の赤顔あからがほの招牌は、まだ彼処あそこに掛けてある。いや/\赤いはうの色が、青と黄とに変つて居る。杖の代に、手に持つて居るのは剣だ。頭には縁のひつくりかへつた帽を被ぶつて居る。何んだ。下には将軍華聖頓と書いてある。」何時もの通り、戸口には大勢の人が寄集つて居るが、皆な知らない顔です。全体人の風儀が変つて、見慣れた、眠むさうな、静かな性は迹もなく、誰も彼も忙しさうに、やかましく、争を好むといふやうに見えます。リツプはあの広い顔の、頤の二重になつた、綺麗な、長い烟管から、空論の代りに烟りを吹く、賢いニコラス、ベツタアか、又は古びた新聞の話を聞かする、教員のブムメルは居らぬかと、見廻はしても、遂に見当りませなんだ。是等の人物の代には、痩せこけた苦々しい顔の男が、外套の隠しへ一杯紙片を入れて、民権、撰挙、議員、自由、バンカアスヒル、七十六年の英雄抔と、訳の解らない、彼のバビロン城の工人しごとしの言葉のやうな事を、無暗に饒舌しやべつて居りました。

 リツプが長い髯を垂れ、異風な装束を附け、鏽で真赤になつた鳥銃を肩に引掛け、跡には許多の婦女子を随へて、この場に現れたを見て、酒店に集つた政治家連は、一同喫驚しました。渠等は立つて来て、リツプを取巻き、さも珍らし気に、頭の頂から足のうらまで見ました。中にも如才のない演説家は、群集を押分けて側に寄り、リツプを引張つて、「君は何党の人を撰挙しますか、」と問ひました。リツプは呆れた顔をして、かの男を瞠視みつめた計り、一言も出しませなんだ。その内に又た人を押分けて来て、リツプの腕を握つたのは、忙し気な丈の低い男で、足を爪立つまだてゝ耳に口を寄せ、「君は聯合党員ですか、または民政党員ですか、」と問ひました。リツプは矢張り呆れた顔をして、一言も出しませなんだ。この時に又た群衆を肘で退け/\、リツプの面前へ出て来たのは、仔細らしい、物識り顔な老人で、隻腕かたうでを腰に突張り、隻腕を杖の上に置いて、尖つた帽の下から、鋭い眼を光らせ、リツプの顔を、魂まで見抜きさうに睨んで、「君はこの撰挙場に、武器を携帯して来るさへあるに、許多の人民を従へて居らるゝのは、暴動でも起さうといふ所存ですか」と云つた。これを聞いたリツプは、少し慌てた声で。「何うして私が暴動抔を致しませう。私は此土地の根生ねおひのもので、王さまの大の信仰者です」と云ひました。

 王さまの信仰者と名乗つたリツプが一声は、尚囲繞いて居た撰挙人の群に、はげしい混雑を惹起ひきおこしました。「それ王党だ。それ間牒まはしものだ。落人おちふどだ。捕へて仕舞へ。いや逐出して仕舞へ。」このさま/″\の声をしづめた、例のふちひつくりかへつた帽をかぶつて居る老先生の骨折は、大抵ではありませなんだ。さて十倍真面目な顔付をして、リツプに向つて、(かれが為めにはこの怪しい犯罪人に向つて)何の仔細があつて、誰を捜しに此処へは来たかと問ひました。ふびんなリツプは、何んにも悪意はさしはさまず、唯だ何時も此処に来る、近処の知己ちかづきを捜しに来たと答へました。

「宜しい、それは誰れか、名をお言ひなさい。」リツプは少し考へて、「ニコラス、ベツタアは何処に居ますか、御存の方はありませんか。」

 群衆は暫く静まつて居たが、中で老人が一人、薄い悲し気な声で答へました。「なに、ニコラス、ベツタア。あの男が死んだのは、もう十八年前の事だ。墓の上に建てた木に、行状が書いてあつたが、その木も何時か腐れて仕舞つて、今は痕もない。」

「そんならブロム、ダツチヤアは。」

「あれはいくさの始まつた時に隊に這入つた。ストニイ、ポイントの進撃の時に死んだといふ人もあるし、又たアントニイス、ノオスの颶風はやてに逢うて溺れたといふ人もある。何しろ帰つては来ない。」

「そして教師のフアン、ブムメルは。」

「あれも矢張軍に出て、仕舞ひには土兵どへいの大した将官になつて、今では議員だ。」

 この恐ろしい世間のかわやう、又た友達の栄枯得失を聞いて、自分の唯だ此処に取残されたことを顧みたリツプの落胆は思ひ遣られます。それに人の答が一々心を迷はす種になる、幾歳月を経た間の歴史上の出来事を、遠慮会釈もなく、並べて話されるから。戦争、国会、ストニイ、ポイントの進撃。かれはう外の友達の事を問ふ気力がないから、さも困つた様に、「そして誰も此内でリツプ、フアン、ヰンクルを知つたものはありませんか。」

「なにリツプ、フアン、ヰンクル」と二人か三人が一度に応へました。「知らなくつて。それ、其所に木につ掛つて居るのがリツプさ。」と云はれて、リツプは驚き乍ら、人の指ざす方を見れば、成程自分によくた、同じ様に貧乏らしい、屹度きつとまた同じ様に無性な男が、木に倚掛よりかゝつて、四辺あたりかまはずといふ姿で居ます。此時リツプが呆れ加減は、極端に達しました。かれは自分が果して自分だか、た他人だかと疑ひ始めました。この精神の錯乱して居る最中に、例のひるがへつた縁の帽を被つた先生は、又たリツプに向つて、其方は誰だと問ひました。

「それをまあ誰れが知つて居ませう、」とかれは答へました、かれは丸で判断力を失つて仕舞つたから。「私は矢つ張私ではありません。私は外の人です。彼処あそこに居るのが私です。然し、いゝえ。彼処に居る人は、矢つ張私のぬけがらに這入つた外の人です。昨晩までは、まだ私は私でした。一晩山の中に明かして、鳥銃は取換へられ、世間は丸で別物にせられ、その上私まで更りましたから、私の名は何と申しますか、私は誰ですか、迚も申すことは出来ません。」これを聴いて居た群衆は、互に顔を見あはせて頷きあひ、又た意味あり気に手真似をして、額を指ざしました。中にはこの危ない老人の持つて居る飛道具を取上げねば、何か事を起さうも知れぬと、さゝやぐものもありましたが、かの飜へつた縁の帽を被つた先生は、これを聞くや否や、直ぐにこそ/\と逃げて仕舞ひました。この時に若い愛らしい婦人が、群衆を押し分けて、リツプの側へ近寄りました。この白髯しろひげおきなの貌に驚いてか、抱いて居た頬の月+亨ふくれた子は、声を放つて泣出しました。「おや可笑な子だねえ。この老爺おぢさんはうもしはしないよ。リツプぼうは善い子だ。静にお仕よ。」小児の名、その母の顔と声音こわねと、これ等はなリツプ、フアン、ヰンクルの心に夥多あまたの記念を喚起しました。かれは「おかみさん、あなたのお名前は、」と問ひました。

「ジユヂス、ガアドニイア」

「そして貴君の乃翁おとつさんの名は。」

「えゝ、気の毒なのは私の阿爺おとつさん、名はリツプ、フアン、ヰンクルと云ひました。鳥銃を肩に掛けて、家を出て往つてから、最う二十年立ちましたが、それつ切り音沙汰なしです。れて往つた犬は独で還りましたが、主人は自殺でもしましたか、銅色人種にでも引張つて行かれましたか、誰も様子を知りません。私はまだその時に小さい娘で御座りました。」

 これでリツプの問は、只だ一条を余したが、かれは吃り乍ら、漸う言葉を出しました。

「そしてお前の老萱おつかさんは何処に居ます。」

嬢々おつかさんはたつた此間こないだ無くなりました。ニユウ、イングランドから来た旅商人と喧嘩をして、余りおこつたので、卒中とかいふ病をおこしたのだといふことです。」

 リツプが為めに、少し心を慰める媒になつたのは、此れ一つです。かれはこらへず、娘と孫とを抱いて。「おれがお前の親父おやぢだ、祖父ぢいだ、家を出た日には、まだ若かつた、今日は年寄つたリツプ、フアン、ヰンクルだ。まあ此多人数のなかに、誰もおれを見覚えた人はないか、」と云ひました。一同あきれて立つて居る中から、踉蹌よろけ乍ら出た老媼おふなは、手をかざして一分時程リツプの顔を見て居たが。「やあ、お前はリツプさんに違ない。善う帰つて来ました。この永の歳月、まあ、何処に居ました。」と云うたが、その時のリツプの嬉しさは、実に思遣られます。リツプが二十年間の話は、すぐに済みました、かれがためには、二十年が一夜ですから。聞いたものは又た互に目を見あはせました。中には舌を頬へ推込んだ人もあります。危くないと見極めて戻つて居た、ひつくりかへり帽子しやつぽの先生は、口の角を引下げて、頭を掉ると、一同が同じ様に頭を掉りました。

 この時街を徐々ゆる/\と歩いて来たのは、ペエテル、フアンデルドンクと云つて、此府の古記録を編輯した、同名の人の後裔のちです。今ではこの村の一番古い人で、昔しこの村にあつた珍らしい事といへば、この人の知らないことはない位です。この人は一同にリツプが話に就ての意見を尋ねられて、何か思ひ当ることでもあるやうな身振をしましたが、その言ひ出すのを聞くに。先祖の歴史家の著書の内に、ケエツキル山に異形な人が居るといふことは、分明に書いてある。これはこの洲と河とを発見したヘンドリツク、ホトソンの仲間で、二十年に一遍づゝこゝへ来て見るのが常になつて居る、かれの父は一度この仲間が山の洞の中で、和蘭風な打扮いでたちで、尖柱戯をして居るのに邂逅であつたことがある、かれもある夏の昼過に、たまを転ばすやうな音を聞いたことがあるといひます。

 群衆はこの話を聞いて安心して、また重大な選挙事件の方に心を寄せました。リツプが娘は父を勧めて同居させようと、連れて帰りました。その家は倒々なか/\美しく、諸道具も備つて居ます。その亭主といふものは、壮健な農夫で、つく々見れば昔しリツプが脊中に攀ぢ登つた悪劇児いたづらこどもの一人です。親にそつくりな二代のリツプ、あの木に倚掛つて居た男も、この家に喚ばれて、庭で仕事をすることになりましたが、矢張り自分の業よりは、人の業に力を入れる珍らしいたちでした。

 リツプはまた元の通りに、散歩、其外の慣れた生活を始めました。昔しの友達をも一二人は見出したが、れも/\衰へ果てゝ、言葉敵ことばがたきにもならないから、それよりは寧ろ若いものをと、段々に少年の友達をこしらへ、この少年等も、また程なくリツプを二なきものに思ひました。

 かれは家に用事もなく、又た幸に最早用事がないと云つても、人の彼此と批評をしない丈の年になりましたから、異議もなく、元の通に酒屋の前の或る榻を専有して、村のものには故老の一人、また戦争前の活きた歴史として敬はれました。渠の話の流が淀みなくなり、自分の寐て居た間の変遷をするまでになつたのは、これより大分後の事です。独立戦争のあつたこと、国が英吉利の覊絆を脱して、ジヨルジ第三世陛下の臣民たるリツプが、合衆国の自由の民になつたことも、次第々々にその腹におちました。リツプは元から政治家ではないから、国の発落なりゆきには余り感じませなんだが、かれも曾て一種の圧制の下に立つて、大息ためいきばかりいて居た事がありました。それは女房の圧制です。仕合せにも、この政府は転覆しました。かれは夫婦の桎梏を脱して、家の出入にも、時の制限のない、自由の身となりました。フアン、ヰンクル夫人の名を聞く度、リツプは相替らず頭を掉り、肩を聳かし、空目そらめを遣ひますが、この身振は彼の自分の運命を諦めたしるしとも、又た圧制を脱れた喜の徴とも取られませう。

 ヅウリツトルの客舎ホテルに泊る客がある毎に、リツプは身の上話をしました。初めの内は話す度に何処か少しづゝ変る様でしたが、これはかれがまだ目が醒めたばかりで、考も後先あとさきになるのでありましたらう。仕舞には話がこゝに書いてある通に、確かにきまつて、近処に住む老若男女共、皆なくその始終を知つて居るやうになりました。ある人は到底リツプの話を信ぜず、かれは久しく気が違つて居たのであらう、かれの頭は元から少し怪しかつたからと云ひました。これに反してリツプを何処までも信じたのは和蘭の遺民です。今も夏の午後にケエツキル山の方に雷がなる度に、かれ等は屹度ヘンドリツク、ホトソンの尖柱戯の話をくり返して、生計なりはひに困つた人はリツプ、フアン、ヰンクルの瓶から蒙汗薬しびれぐすりが飲みたいと云ひます。