飛躍にも表と蔭
九日目は平凡な勝負が多かった。それだけに各力士のすまひぶりの特徴がいろいろと分って面白かった。相撲ぶりが飛躍しているときでも、その飛躍のなかに個性の華を咲かせる力士と、個性が飛躍の蔭に隠れてしまう力士とがある。前者は竜が雲を得た壮観であり、後者は足軽が兜首を討止める偉容でもあろうか、とにかくどちらも見た眼に派手な面白い勝負である、けれどもその面白さは割切れがよすぎてじっくり胸へしみこんで来るものに乏しい。此日にも番狂わせ的な勝負が無かったのではないだろうが、どちらかというと地味な、割切れの悪いものが多かったように思う。そしてそこに各力士の底にあるすまひぶりがいろいろと表われていた。
鯱ノ里と笠置山の一番が殊にそれである、笠置山のすまひぶりは合理性を押し切ろうとするところにあるようだ、去年の春場所五日目に前田山と合ったが、同じようなすまひぶりをもつこの一番はまことにすばらしく、智と力とがみごとに合致して完璧の勝負をつくりあげたものだ。けれど鯱ノ里との立合にはまったくそうした壮美さを発することが出来ず、笠置山はあっけなく突放されて負けている。これは彼が自分に納得のいく相撲をとろうという主観性が弱点を表わしたのである。余事にわたるが、僕たちなかまに某という者がいてよく将棋を指す、どうせ下手同志のことであるが某は極めて合理性を尊び、あるときある相手と指しはじめるや、「駒組の出来ないうちに突いて来るやつがあるか」と云って怒ったことがある。鯱ノ里に敗れた笠置山の面上に、僕はその某の怒った表情を見るような気がした。
磐石と合った前田山も同じようにいけなかった。磐石が右上手を取りに行こうとしたとき、右へ動きながら取らせまいとした、その動きのなかに彼の合理性のゆらぎが見えたのである。磐石はそのゆらぎを逭さず仕勝っていたし、前田山はおれの力に立直る機会を得ずして敗れた。勝負を好き瞬間に仕勝つものと、好き瞬間を自分の力にまでひきつけてから勝つものとの差だ。
僕の好きな大邱山はますますいけない、楯甲に勝ちはしたが極めて味の悪いすまひぶりであった。気のせいか肉も少し落ちたようだし、まえのような全身これ胆といった感がうすれている。なんだか自分で自分の花期の過ぎたことを認めているように思える、こんなことではいけない。敢えていつまでも放胆な相撲をとれと云う訳ではないが、それが自分にとって真実であるなら恐れるところなく押切るべきである。切に奮起を望む。「相撲」(昭和十五年二月)