青空文庫ビューアー

身代り金之助

身代り金之助

山本 周五郎

「やあ! えいッ!」

 かけ声だけは勇ましいけれど、腰がきまっていないので槍先やりさきはふらふらだった。勢い込んで突っかけたのが桶側胴おけがわどうをつるりと滑って、

「――あっ」

 というとそのままつんのめって行って、生垣の中へ頭から半身を突っこんでしまった。

 金之助きんのすけはもう少しでふきだしそうになったが、亀の子のように手足をばたばたさせてもがいている慶太郎けいたろうのすがたを見ると、そのまま放ってもおけないので後ろから行って引出してやった。慶太郎はぺっぺっとつばをしながら、真っ赤になって呶鳴どなりたてた。

「馬鹿、間抜け、貴様はおれをわざとつきころばしたんだろう」

「とんでもないことです、私は若様のおっしゃる通りちゃんと動かずに立っていました」

「嘘だ嘘だ、おれが突っかけた時貴様は体をひねったじゃないか。でなくっておれがころぶわけがないじゃないか。貴様は始めからおれを突っころばすつもりでいたんだ」

「私はそんな卑怯ひきょうなことはいたしません」

「なにッ、卑怯だと!」

 怒りだすと言葉の区別もつかなくなる若様である。いきなりこぶしを振上げて金之助の頬をなぐりつけた、――さすがに金之助も顔色を変えたが、こんな時に少しでもさからったり、拳を避けでもしたらなおさらひどいことになるのを知っていたから、じっと歯をくいしばって我慢していた。

 力まかせに四つ五つなぐった時、

「慶太郎、何をいたす!」

 大声にいいながら与右衛門よえもんが近寄って来た。

 榊原さかきばら与右衛門はこの三河国みかわのくに嵩山城すせじょうで、「一本榊いっぽんさかき」と異名を取った旗頭である。智勇兼備の武士で、城代松平兵部まつだいらひょうぶの右腕といわれる人だった。慶太郎はその一人息子で、これはまたひどくわがままな乱暴者である。そしていつもそのわがままのお相手をするのが金之助であった。――金之助は与右衛門の郎党の子で、慶太郎と同じ年の十五歳であるが、数年前に父が死んでから、病身の母をまもって孝養怠らぬおとなしい性質の少年だった。

 おとなしいからよけいにわがままのお相手を申しつけられるのであろう、今も槍の稽古けいこをするからというので、具足を着せられて庭隅へ立たせられ、慶太郎の槍の稽古台になっていたのだ。

「なぜ人をなぐったりする」

 与右衛門は近寄って来て叱りつけた。

「いつも乱暴をしてならんと申し聞かしてあるのに、なぜいうことをきかないのだ」

「金之助が悪いからです」

 慶太郎は頬をふくらせて、

「槍の稽古をするからちゃんと立っていろというのに、私が突いて行ったらわざとたいをかわしてころばしたんです」

「何をいうか、槍の稽古をするなら互いに槍を持って立合わなければならぬ。ただ立っている相手を突いたところで稽古にも修練にもならないではないか。またたとえ体をかわしたからといって、それでころぶのは自分が未熟だからで、金之助をなぐる理由は少しもないぞ」

「でも、動かない約束なんです」

「それなら石地蔵でも相手にするがよい、――金之助は用事の多い体だから、そんなつまらぬ遊び相手に使ってはならぬ」

 慶太郎はべそをかきながら返事もせずに立去った。――与右衛門はきつい眼でその後ろ姿を見送っていたが、金之助の方へ振返るとその眼は自然と静かにやわんだ色に変わった。そして何か話しかけたいような様子であったが、

「おむらの工合ぐあいはどうだ。寒いからよく気をつけてやるがよいぞ」

 そういって家の方へ立去った。

 金之助は具足を脱ぎ、慶太郎のほうり出して行った稽古槍を拾って、侍部屋の方へまわって行こうとしたが、庭木戸まで来ると、そこに立っている一人の少女がそっと走りよって、

「金之助さん、痛かったでしょう?」

 と声をひそめていった、――お奈々ななは足軽内田松右衛門うちだまつえもんの娘で、年は十三であるが、器量よしの、気の勝った少女だった。

「見ていたのか、お奈々ちゃん」

「あたしくやしくって胸がきりきりしちゃったわ。あの乱暴な慶太郎の奴」

「いけないよそんなことをいっては」

 金之助は急いでさえぎった。

「たとえ無理なことをしたって若様は御主人なんだ。おれだってくやしくないことはないけど、若様は世間知らずで何もわからないんだから仕方がないのさ。まるでまだ赤ん坊なんだよ、……それに旦那だんな様はよく御存じなんだ。それでいいんだよ」

「あなたは我慢強いのねぇ」

 お奈々は感心したような、また少しばかり非難するような声でいった。

「あなたは今にきっと偉い人になるわ。あの若様なんかあなたの馬の口を取る値打もないほど偉い人に!」

「有難うお奈々ちゃん、おれは……」

 いいかけたけれど、金之助はそのままあとをいわずに侍部屋の方へ立去った。

「金之助、どうかしたのかえ」

 寝床に横になって足をもませていた母親のおむらが、ふと眼を明けていぶかしそうに振返った、――金之助はあわてて微笑しながら、

「いえ、どうも致しません」

「隠さなくともいい、また若様にいじめられたのであろう」

 いいながら、おむらは足首へ手をやってそっとぬぐった。金之助の涙が落ちたのである。

「そんなことはありません、私はただ」

「いえ知っています、昼間お奈々さんが来てすっかり話して行きました――金之助、おまえさぞくやしかったろうねえ」

「違うんですお母様」

 金之助は強く頭を振っていった。

「若様のことなんか何でもないんです。それより私は……旦那様のことを考えていたんです。旦那様はいつも御親切にして下さいます。今日もお母様のことをきいて、大事にしろとおっしゃいました。私は旦那様のお顔を見ていると、本当のお父様のような気がして来て仕方がないのです。それを考えていたら、つい――」

「金之助、おまえ」

 おむらはぶるっと身をふるわせたが、

「そんな、馬鹿なことをいうものではありません。もし人に聞かれたら何とします」

「お許し下さい、二度とは申しません」

 金之助はすぐにおとなしく頭を下げた。

 若様のことなんか何でもないといったけれどそれは嘘だった。何年ものあいだわがままのお相手をして来て、無理のありったけをいわれたり、わけもなく打たれたりしているうちに、金之助の身内にはいつかくやしい思いが強く湧き、今にみろというはげしい発奮の心が起こって来た。

 ――いつまでこんな小足軽でいるものか、今に一国一城のあるじになって、立派に槇屋まきやの家名をあげてみせるぞ?

 そう決心したが、それにはここを去らなければならない、ここにいてはただの郎党の子でしかないのだ、京へ出よう、京では将軍足利義輝あしかがよしてるを中心に、今や天下の風雲まさに急ならんとしている。京へ出て立身出世のみちを求めよう、――そう思うたびに、病身の母をどうするかと気づいて決心がにぶるのだった。

 母の足に思わず涙を落としたのは、今日のくやしさと同時に、思うままにならぬ身の上の悲しさを考えたからであった。

「もういいからおやすみ」

「大丈夫です、もう少しおもみ致します」

「また明日の朝が早いのだし、なんだかこうやって毎晩もんでもらうのは勿体もったいないような気がしてならないよ」

「何をおっしゃるんです」

 金之助は驚いて打消した。

「十分に薬も差上げられず、お好きな物も思うままに調えることが出来なくって私こそ申訳なく思っていますのに、どうかそんなことをおっしゃらないで下さいまし、その代り今にうんと出世しましたら……」

「金之助、私は、おまえに」

 おむらは急に何かいいかけ、しばらくその後をためらっている様子だった、――そしてやがてほっと溜息ためいきをもらしながら、

「私がお屋敷へ乳母に上がらなかったらねえ」

 と独り言のようにつぶやいた。

「何ですか、乳母に上がらなかったらとおっしゃるのは?」

「ああ、いえ何でもないんだよ、それよりほんとうにもう沢山だからお寝み」

 そういって寝返りをうった。

 母のおむらは若様の生まれた時お乳母に上がっていた。同じ年のほとんど同じ月に生まれた金之助は、若様と乳兄弟に当たるというので、同じ郎党の中でも別の扱いを受けて来たのである。それを今になってどうして「乳母に上がらなかったら……」などと後悔するようなことをいいだしたのか、金之助にはまるでわからなかった。

 母を寝せて、自分の寝所へ入ってからも、金之助はながいこと燈火の下で書物を読んでいた。これからの武士は強いばかりではいけない、学問も十分にしなければならぬと思うので、毎夜の読書はかかしたことがないのだ。――そうして床へ入ったのは、もうやがて今の時刻で午前一時を過ぎたころであった。

 つかれているので、まだほんのしばらく眠ったとしか思わない時分、裏の雨戸を忍びやかにとんとんとたたく音がして、

「金之助さん、金之助さん」

 と呼ぶ声が聞こえた。――金之助ははっと眼を覚まし、なかば夢中で返事をしながら、それでも手早く身支度をして裏口へ出て行った。

「お奈々ちゃんか、馬鹿に早いな」

「嘘よ、いつもと同じだわ」

「そうかなあ、おれはまだ横になったばかりのような気がするけど、――すぐ行こうね」

 金之助は物置へ入って、大きなざるくわとすくい笊を取出してきた。貧しい家の暮しを助けるために、豊川のしじみをとって海道へ売りに出るのが、毎朝かかせない二人の仕事であった。

 春まだ浅き二月はじめ、水は氷のように冷たかった。

 ひっそりとして鳥影も動かぬかわら朝靄あさもやが低くただよい、はるか下流にあるせきの水音が、川波の上をさむざむとひびいてくる。――金之助が鍬ですくい笊へかきこんで揚げる小砂利まじりの蜆を、岸にいるお奈々がせっせとえり、二つの大目笊へ分けて入れる、その手許てもとからいつか夜は白々と明けて行った。

「金之助さん」

 ふとお奈々が顔をあげていった。

「あなたはいつか、京へ行きたいっていったことがあるわね」

「――え!」

 ちょうどそのことを考えていたところなので、金之助はぎくっとしながら振返った。

「まだ今でもそう思っている?」

「……そう考えたこともあるよ、だけど――」

「今でもそう思っているなら、あたしいくらかお役に立つことが出来ると思うわ。あなたのお母さまよ、お母さまをあたしの家でお世話してあげたいの」

「有難う、うれしいよお奈々ちゃん」

 金之助は微笑していった。

「京へ行きたいのはほんとうだ。けれどお母さんはあの通り病身だから、たとえどんなことがあっても人に預けて行くなんてことは出来ない。自分の出世も大事だけれど、親をすてるような心がけで出世が出来るはずはないんだ」

「京へいらっしゃい! 金之助さん」

 お奈々は強い口調で繰返した。

「あなたが出世をすれば、一時の不孝は取返しが出来るわ、お母さんにしたってあなたをこんな……」

 お奈々の言葉をきって、

 だぁん! だぁん‼

 と突然二発の銃声がごく間近に起こった。そして五、六羽のかりが羽音すさまじく舞上がるのと同時に、金之助の頬をかすめて弾丸たまぴゅっと飛去った。――思いがけない出来事に、

「あっ!」

 と身をかわしたが、足が滑ったので、金之助はざぶっとしぶきをあげながら流れの中へころがり落ちた。

「危ない、金之助さん!」

 お奈々は驚いて、夢中で叫びながらすそのぬれるのもかまわず川の中へせ入り、手を差伸ばして金之助を助け起こした。

「怪我をなすって、え?」

「大丈夫だ」

「弾丸が当たったんじゃないの?」

「大丈夫だよ、ただころんだだけなんだ」

 金之助はれ鼠のようになって立上がった。お奈々は甲斐甲斐かいがいしく裾などを絞ってやった。するとそこへ、――向こうから銃を持った二人の男が走って来た。見るとそれは慶太郎若様と家来の若侍であった。

「あ、若様だわ」

 お奈々が驚いてささやくうちに、慶太郎はずかずかと岸へ進み出て、

「いまおれの邪魔をしたのは貴様か」

 と恐ろしい声でわめきたてた。

「せっかく射止めるところを逃がしてしまったじゃないか。馬鹿、馬鹿者! 貴様が水音さえ立てなければたしかに二羽は射落としたんだぞ。おれがねらっているのを承知でわざと」

「違います、違います若様」

 お奈々がたえかねて叫んだ。

「今の水音は若様の弾丸を避けようとして金之助さんがころんだんです、その前には何も音なんか立てやしません」

「お奈々ちゃん黙って!」

 金之助は強くさえぎって前へ進みながら、慶太郎に向かって丁寧に頭を下げた。

「申訳ございません若様、お許し下さい」

「馬鹿! 今更あやまっても雁が戻るか。貴様のおかげで昨日は父上に叱られ、今日はまたこんな恥をかいたぞ。馬鹿、馬鹿者ッ」

「――あっ」

 避ける暇もなく、慶太郎の平手がぴしッと金之助の頬で鳴った。――その時、金之助はこぶしをぶるぶるふるわせ、火のような眼で相手をひたとにらみながら大きく一歩前へ踏出した。その様子があまりに恐ろしかったのであろう、慶太郎はあわててあとしざりをしながら、

「藤七郎、行こう」

 というと、家来をつれて逃げるように川上の方へ立去った。――お奈々は美しい唇を裂けるほどんでいたが、くるっと金之助の方へ向直って、声をふるわしながら叫んだ。

「どうしてあやまったの、金之助さん、悪いのはあなたじゃなくて若様じゃないの、相手が御主人の子だからどんな無理なことでもあやまるの。打たれても黙っているの?――もしそうならあなたは卑怯者ひきょうものだわ!」

「卑怯じゃない、卑怯者じゃない!」

 金之助はぐっと額をあげていった。

「男はこんなことで怒りはしないんだ。こんなつまらぬことで槇屋金之助は怒りはしないぞ、お奈々ちゃん。――そして今にきっとおまえにもわかる時が来るよ」

 その夜――。

 もう夜中をずっと過ぎたころ、母の寝息をうかがいながら金之助は旅立ちの支度を急いでいた。着替えを包んで、父の形見の刀を取出して、ほしいを袋につめればそれでいいのだ。それがすむと今度は机に向かって手紙を二通書いた。一通は母へ、そして別の一通はお奈々に当てて、

 ――母を頼む。

 とくれぐれも念を押して書終わると、机の上にきちんとそろえて置いて、金之助は母の寝間の方へ向かってすわり直し、

「お母様、私はしばらくおいとまをいただきます。京へ上って立派な武士になり、槇屋の家名をあげるまでは戻りません。不孝の罪は恐ろしゅうございますが、私をあわれとおぼし召してお許し下さい。必ず、必ず立派な武士になって帰ります」

 ささやく声の半分は涙であった。

 いざとなると悲しさで胸がいっぱいになり、立とうとする度に気が弱ってくる。しかし金之助はこれではならぬと自ら叱って、静かに裏口から家をぬけだした。

 豊川のかわらで慶太郎の平手打ちをくった時、金之助の心ははっきりときまったのである。折もよしお奈々が母を引取ろうという、ここで京へ出なければ二度と機会はこないかも知れぬ、そう決心してついに彼は奮起したのだ。

 戦国の世のこととて、夜中やちゅうに海道の往来は危険である。金之助は城下を北へ抜け、設楽郡しだらごおりから雨山あめやまを越えて挙母ころもへ出ようと、足にまかせて夜道を強行した。――およそ一刻いっとき半(三時間)ほど息つく暇さえ惜んで急ぐうち、やがて豊川の本流を渡るところへ行き着いた。もう八つ半(午前三時)を過ぎたであろう。

 ――夜の明けぬうちに川を越せば、もう嵩山すせ城の者につかまるおそれはない。

 そう思うと疲れた足も軽く、霜の小径を磧の方へと下りて行った。――けれど二十歩余り進んだところで、金之助は不意に立止まると、何を見つけたのかいきなり身をひるがえして左手のやぶの中へ隠れた。

 人が来る、それも五人や十人ではない、藪の中からそっとうかがっていると、後から後からとつづいて登って来る人数はおびただしいものであった。しかもみんなやりを肩にしたり、陣太刀を負ったり、差物さしものをひらめかしたりしている、ひたひたと武者草鞋わらじの足音にまじって、甲冑かっちゅうや物の具の触れ合う響きがする。

 ――何事だろう、今時分こんなところで調練をするはずはないが。

 不審に思っていると、

「長沢隊はどての下で止まれ」

 と叫びながら、馬上の武士が一騎、川の方から駆上がって来た。

山名郷やまなごうの先陣は橋口大膳はしぐちだいぜん殿にきまった。合図のあるまでこの隊は堤の下に待つ!」

「――お使い番」

 列の中から誰かが呼びかけた。

「それはどなたのお指図か承りたい」

掛川かけがわ殿の旗本から出た命令だ、抜駆けは軍令にそむくぞ」

 いい捨てながら、使い番の武士は川上の方へ馬をあおって去った。

 ――掛川殿?

 金之助は驚いて息をのんだ。

 ――山名郷を攻める?

 掛川殿とは、いま徳川家康と不和を伝えられている北条氏直うじなおのことである。橋口大膳という名は、三河国吉良きらの城主、吉良義広よしひろの幕下で勇名の高い武将でないか、……近年、吉良は北条氏と計って、ひそかに徳川氏を攻略しようとたくらんでいるという噂が高い。

「――そうか!」

 金之助はすぐ事情をさとった。

「北条と吉良が軍勢を催したのだ。彼らはいま嵩山城に不意討ちをかけようとしている。そしてお城では何も知っていないのだ」

 知らせなければならぬ、――そう思うと共に背に結んでいた包みを解き捨てて身軽になり、藪伝いに吉良の軍勢とは反対の川下へ二町(約二一八米)余り下った。幸運にも堤の下に一軒の農家があって、馬の鼻を鳴らす声が聞こえる。金之助はすばやくうまやへ走り寄ると、ことわっている暇も惜しいのでそのままき出し、裸の背へ飛乗りさま、嵩山城へ向かってまっしぐらに走りだした。

 案内知った土地である、野も畑もなく駆けに駆けて、半刻(一時間)足らずのうち城下へ行着いた金之助は、そのまま榊原与右衛門の屋敷へ乗りつけ、

「御門番、お起き下さい、一大事です」

 と破れんばかり門をたたいた。

「誰だ、何事だ今時分」

「金之助でございます、お城の一大事ですから旦那だんな様をすぐお呼び下さい」

「――待っておれ」

 門を明けておいて、番士は奥へ走った。

 与右衛門は寝間着のまま太刀を提げて出て来た。

「金之助か一大事とは何だ」

「申し上げます、豊川岸へ吉良勢が押寄せております」

「――なにッ」

「今ごろは山名郷を攻めておりましょう。北条の軍勢も国境に迫っていると存じます」

 与右衛門はあっといった。

「それはまことであろうな」

「私がこの眼で見とどけたのです。一刻も早く出陣の御用意を遊ばせ。私は木戸木戸へ知らせにまわりまする」

「頼む、わしは直ちに城へ登るぞ」

 行きかけたが振返って、

「金之助、――手柄だぞ」

 とたのもしげに叫んだ。

 警鐘が打鳴らされ、伝令が八方へ飛んだ。走り集まって来る兵や、東西と北の関を固めに繰出す兵で、嵩山すせ城下はたちま怒濤どとうのように沸き返った。――しかしどうしても不意をかれた事は取返しがたく、二刻ふたとき(四時間)とたたぬ間に東の出城でじろ三所、北の出城二所、西は山名郷、小草こぐさ郷にかけて続々敵に攻略され、その夜に及んでは周囲十二里(四十八キロ)の柵壕さくごうで危うく食い止めたまま、嵩山城は完全に包囲されてしまった。

 時に永禄えいろく八年二月十四日のことである。

 東の国境には北条氏直うじなおの兵一万二千、西は豊川の岸を侵して吉良左衛門尉きらさえもんのじょうの一万余騎、北の関には牧野道意まきのどういの軍八千、――これらの人数が城下の柵に迫って、蟻のい出る隙もなくひしひしと取りかこんでいた。

 金之助は木戸木戸へ急報すると、一度家へ帰って書置の書面を破り、母のことをお奈々に頼んでから、武装をして与右衛門の旗下はたしたせつけた。

 ――もう京へ行く必要はない、機会はここへやって来たのだ、この合戦で一番槍一番首の手柄を立てるぞ!

 金之助は勇躍した。

 しかし合戦は容易に起こらず、堅固な柵壕を中にして、敵味方の対陣は七日に及んだ。――二月二十一日の夜のことである。お奈々は陣中の金之助を慰めようと、焼餅やきもちを作って家を出掛けて行った。ところが西の木戸にある陣場の手前二町ほどのところまで来た時、左手の闇の中で何やら聞覚えのある声がする。

「黙れ、おれのいう通りにしろッ」

 低く脅かすようにいっているのはたしかに慶太郎の声である、――もしやまた金之助がいじめられているのではないかと思って、そばのくぬぎの木陰からそっとのぞいて見ると、案にたがわず慶太郎が、片手に刀を抜いて金之助に迫っている。

 ――あ、危ない!

 叫びそうになったがやっとこらえて、お奈々は息を殺しながら見まもった。

 白刃を突きつけられた金之助は、顔色も変えずに平然といった。

「刀をおしまい下さい、刀を納めてから用をおっしゃって下さい、足軽でも槇屋金之助は武士です。刀で脅かされていうことをきくような臆病者おくびょうものではありません」

「黙れ、いう通りにすればいいんだ」

「刀をおしまいなさいッ」

 金之助は大音に叫んだ。――ずんと腹の底へとおる声だった。慶太郎は一歩退さがりながら刀をさやに納めた、その手はがたがたとふるえていた。

「伺いましょう、御用をおっしゃって下さい」

「その具足を脱いで、おれのと取替えるんだ」

「それから」

 慶太郎はごくりとつばをのんだ。

「そ、それから、すぐに、敵の囲みを抜けて、岡崎へ行くんだ、援軍を頼みに」

「…………」

 金之助の眼がきらりと光った。そして突然相手の腕をつかんで引寄せると、

「それはあなたが申しつかった役目ですね」

「いや、いやそれは」

「正直におっしゃい、あなたは自分で申しつかったけれど、敵陣を抜けるのが恐ろしいので私を身代りにやろうというのでしょう」

「頼む、頼む金之助、おれは、おれにはとても出来ないんだ、敵につかまった時のことを考えると、おれは、おれは怖くって……」

 慶太郎が泣声で頼みいる有様を、金之助はじっとにらみつけていたが、

「よろしい、早くよろいをお脱ぎなさい」

「行ってくれるか」

「帰るまでどうしているつもりです」

「おまえの家に隠れているよ、乳母ばあやはおれをかくまってくれるだろう、――だが金之助、内証にしてくれるだろうな」

「そのことなら心配いりません」

 金之助は腹帯を解きながらさげすむようにいった。

「あなたが頼まなくとも旦那様のために秘密を守ります――こんなことがもしわかったら、恐らく旦那様は生きてはいらっしゃらぬでしょうから!」

「――誰です」

 おむらは夜具をはねて起直った。裏口から誰か忍び込んで来る気配がしたのである。

「誰です、お奈々さんか」

「…………」

 返事がない、おむらは静かに起上がると、手燭てしょくをつけて気丈にもくりやへ入って行った、――見るとそこにやり足軽の小具足を着けた者が立っている、見覚えのある武装だ。

「おや、金之助ではないか」

「しッ、おれだ、乳母おれだ」

 陣笠じんがさを脱いで、ふるえながら上がって来たのは慶太郎であった、おむらはあっと驚いて、

「まあ、若様」

「大きな声を出すな、み、水をくれ」

「どう遊ばしたのでございますか、今時分そんな姿をなすって」

「なに、父上、父上にちょっと」

 と慶太郎は冷や汗をきながら、「つまらぬことで叱られたのだ。それで、しばらく、ここにかくまってもらおうと思って来たのだ。父上のお怒りの解けるまで二、三日……」

「嘘です」

 鋭い叫び声がして、裏口から突然お奈々が走り込んで来た。慶太郎は跳び上がるほど驚いた。

「若様のおっしゃることは嘘です」

「お奈々さんどうしたのです」

小母おばさん、わたしはちゃんと見ていました。若さまは岡崎へ援軍を頼みに行く大切な役目を申し付けられながら、命が惜しさに金之助さんを」

「だ、黙れ、何をでたらめを申すか」

「お待ちなされまし」

 おむらはきっと慶太郎を押さえて、

「お奈々さん、くわしく話して下さい」

「いいますとも」

 お奈々は敢然とまゆをあげて、見とどけたことの始終を手短かに語った。――おむらはわなわなとふるえながら聞いていたが、

「お奈々さん、それ本当でしょうね」

「若様のその姿を御覧なさいまし、その足軽の姿で金之助さんの帰りを待ち、自分が使者に行ったような顔をしてお城へ戻るつもりなんです、――その恰好かっこうを見ても小母さんはお疑いになりませんの!」

「ああ、ああ」

 おむらは両手で胸をしめつけながらうめいた。そしていきなり慶太郎の利き腕をつかむと、

「お奈々さん旦那だんな様の陣場へ案内して下さい、すぐにです、――さあおまえも来やれ」

「あ! 乳母、痛い」

「お奈々さん、早く案内して下され」

 病人とは思えぬ恐ろしい力で、おむらは慶太郎をずるずるとひきずりながら戸外へ出た。

 どうしようというのか、お奈々には無論のこと慶太郎にもおむらのほんとうの気持はわからなかった。金之助でさえ与右衛門を悲しませぬために内密にしておこうといったものを、おむらはそれを打明けてしまおうとするのであろうか、それとも他に何かわけがあるのであろうか?――慶太郎は何度も振放して逃げようとしたけれど、おむらの手は魔でもついたようにびくともせず、本街道口を西の木戸へと進んで行った。

 するとその途中で、陣見廻みまわりと思われる部将の一行とばったり出会ったが、思いがけなく榊原与右衛門であった。

「ああ旦那様」

 見るなりおむらは叫んだ。

「お待ち下さいまし、おむらでございます」

「なにおむら?」

 与右衛門は立止まって、従者の差出す松火たいまつの光ですかし見たが、すぐ慶太郎を認めて、

「――や、そこにいるのは慶太郎ではないか」

「違います、違います旦那様」

 おむらはあおざめた顔を振仰いでいった。

「慶太郎様は御勇敢に、敵陣を突破して岡崎城へおいで遊ばしました。ここにいるのはわたくしのせがれ臆病者おくびょうものの金之助でございます」

「おむら、慶をかばうのか?」

「わたくしは今こそほんとうのことを申し上げます。ここにおりますは、亡き良人おっと茂兵衛もへえとわたくしのあいだに生まれた子でございます、――お聞き下さいませ、お屋敷へ乳母に上がりました時、良人茂兵衛が悪企わるだくみいたし、若様と自分の子とを取替えたのでございます」

「なに、子を取替えたというのか」

「茂兵衛は我が子を御旗頭のお世継ぎにしたかったのです。何度いさめてもきかれず、そのうちにはまた折もあろうと、致し方なくわたくしは若様と自分の子とをお取替え申しました、それから今日まで、どんなに苦しい申訳のない月日を送ったことでございましょう。今日は事実を申し上げよう、明日は……そう思っているうちに茂兵衛は病死致しました。証人がいなくなってはなおさら申し上げてもお取上げにはなるまいと、思いわずらいが重なってとうとう、わたくしも病の床につくようになりました。十何年という長いあいだ、わたくしは絶えず針のむしろすわっているような気持でございました」

 意外な告白である、慶太郎もお奈々ものけぞるほどに驚いた。しかし与右衛門の心はさらにさらに大きく乱れたのである。

「それは、それはまことか、おむら!」

「証拠はここにあります」

 おむらは慶太郎を指さしていった。

「この姿を御覧下さいませ。御使者の役目が怖さに、自分は足軽の姿をしてかくれ、ほんとうの若様を身代りにして岡崎へりました。その時の若様のお立派な態度は、ここにいる娘が証人でございます。――若様は、こんな卑怯ひきょうな子を持ったと知れた時、あなたさまがどんなに悲しまれるか知れない、旦那さまのために秘密を守って身代りになろう、そうおっしゃって勇敢にお出かけ遊ばしました。わたくしが何を申そうより、これこそほんとうの若様である証拠でございます」

「――慶太郎!」

 与右衛門は思わず西の空を見てうめいた。

 おむらの眼に現れている真実の光、命を捨てた真実の光はもはや疑うべくもない。知らなかった、今日まで自分の息子と思っていたのは足軽の子であり、ほんとうの子は足軽として貧しく育ち、あらゆる苦労の中で人となったのだ。そして今、――彼は自分を悲しませぬために、喜んで他人の身代りになり、ただ一人敵陣を突破して行ったのだ。

 ――しかも彼は何も知らないでいる。

 与右衛門はもう一度西の空を見た。

 ――もしこのまま敵に捕えられでもしたら、彼は何も知らずに死んでしまうだろう、それは出来ない、生きているうちにひと眼でも、本当の父の顔を見せてやりたい、たった一言父子おやこの名乗りをさせてやりたい。

 不幸な子を思う親の愛情ほど切なものはない、与右衛門はすぐさま意を決すると、

「――孫兵衛!」

 と家来の方へ振返って、「お城へ上がって申し上げい榊原与右衛門は始めて軍令を破り、只今ただいま西の木戸を討って出ますと!」

「は、かしこまりました」

「それから源左衛門は陣馬へ行け。わしはこのまま金之助を追って出る。手勢をそろえて後から続くのだ、ぬかるな!」

 そういってかせた馬に飛乗る。

「おむら軽はずみをせず待っておれよ」

 言葉を残して一鞭ひとむち、馬腹をって、疾風のごとく西へ向かってはしり去った。

 榊原の手勢五百余騎は、急報と共に敢然と立上がり、与右衛門の後を追って怒濤どとうのごとく敵陣へ躍り入った。と、これとほとんど同時に、金之助の急報で徳川家康の軍勢が押出したので、敵はみるみるくずれたち、榊原の先手はついに家康の第一陣と出会ってしまった。

 陣頭に馬を進めていた与右衛門は、旗印で早くも徳川勢と知ったので、ただ一騎鞭をあげてはせつける――折しも、徳川勢の中から、慶太郎のよろいを着けた金之助が、これも馬をあおって戦場を横切りつつ疾駆して来るのが見えた。

「やあ、金之助ではないか」

 横さまに馬を乗りつけながら与右衛門が呼びかけた。――金之助はちらと見たが、

「あっ……」低く叫びながら逃げようとする、その行く手を与右衛門は乗りふさぎながら、

「待て金之助、仔細しさいはもうわかっているぞ」

「――え!」

「そればかりではない、おまえは儂の子なのだ。おまえは榊原与右衛門の子なのだぞ」

「何とおおせられます」

 金之助は思わず馬上に伸び上がった。

「訳はおむらから聞け、慶太郎こそおむらの子だ、儂の本当の子はおまえなのだ、――金之助、父と呼べ」

「…………」

「父と呼べ、おまえは榊原与右衛門の子だ、ここにいるのがおまえのほんとうの父だぞ」

「――父上!」

 馬を寄せて、裂けるように呼びながら、金之助はひしと与右衛門の体へ抱きついた。両方の鎧が、二人の心を語るかのように鳴り響いた、十五年の長い春秋を経て、今こそ父と子は互いの血のぬくみを感じたのである。明けかかる空に、味方の勝鬨かちどきの声が潮のごとくどよみ揚がった、それもまた、この父子のよろこびを祝福するかのように。