和蘭人形
一
寛文十一年九月十二日。芝愛宕下にある金森飛騨守の邸では、朝から人の出入りも物々しく、足軽や小者たちまでが何か心配そうにひそひそとささやきかわしていた。――それは主君飛騨守頼宗が、前月のはじめに発病したまま、この二、三日殊に危篤の様子だったからである。
午さがりになると、麻布から御分家の金森頼母が駕籠で駆けつけて来た。玄関へ出迎えた家老の相良外記は、
「直ぐに御病間へ、――」
といって、あわただしく案内に立った。
本殿奥の病間には、重臣の藤田中書、河原三十郎、添上靭負、瀬越六兵衛、松村伊太夫の五名が詰めており、――頼宗の側にはお気に入りの中小姓高村数馬と、御右筆の鈴木伝右衛門が控えていた。
外記は頼母を導いて進み、
「麻布様お見舞いにございます」
といった。
頼宗は頷いたまま右筆の伝右衛門に、
「――書けたか」
「はっ、認め終わってございます」
「見せい」
右筆の差出す紙を、苦しげに読み下したが、やがてそれを巻納めると、
「これを密封致せ」
と命じた。
右筆の伝右衛門は即座にその書状を密封して差出す、頼宗はその封じ目へ朱印を捺してから、集まっている家臣の方へ向直った。
「余もこの度は本復覚束なしと思う、それについて家督相続の事を、ただ今これに遺言として認めさせた、――一同これに署名のうえ、違背せぬという血判を押せ」
「…………」
「伯父上の仰せながら」
頼母が面をあげていった。
「御遺言の次第を読み聞かせて頂けませぬか」
「ならぬ、ならぬ!」
頼宗はきっぱりとはねつけた。
「余が死んだら開封せい、それまでは何者たりとも見てはならぬ、――数馬、一同に血判させい」
「ははっ」
数馬は密封した御遺言書を受取って、家老相良外記はじめ列座の人々に、署名血判させて廻った。――それが済むと頼宗は、
「この遺言は、板倉内膳殿に預けて置く、余が死んだら内膳殿立会いのうえ開封するがよい、繰返して申すが何者たりとも違背する事は相成らんぞ、――数馬」
「ははっ」
「その方これを持って、直ぐ板倉殿へ参れ、注意して行けよ」
「承知仕りました」
数馬は辷るように御前を退った。
家督相続についての遺言、――それはいま金森家の重大な問題だった。頼宗には満里子という十五歳になる姫があるだけで、世継ぎとすべき男子がなかった。それで重臣たちは、分家である麻布の金森頼母の子、大三郎を養子にしようという案を立てていた。しかし頼宗は頼母が本家四万五千石の家を狙って、以前から善からぬ事を企んでいる事を知っていたので、大三郎を養子にする事は絶対に反対していたのである。
――この御遺言書こそ大切だぞ。
高村数馬は深く心に期する事があったとみえて、御前を退るとそのまま、邸内にある自分のお小屋へ立寄った。
「おや、お退りか」
母は出迎えながら、
「お上の御容態はどうあるぞ」
「それは立戻ってから申し上げます、千草はもう御殿へあがりましたか」
「いま奥で支度をしていますよ」
数馬は走るように奥へ入った。
妹の千草は十五歳、三年まえから満里子姫のお相手として、ほとんどお側去らずのお気に入りだった。――部屋へ入ってみると、いま御殿へあがる支度をしているところだ。
「千草、話がある、坐れ」
「忙しいこと、いま帯を締めますわ」
「そのままでいいから坐れ」
兄の様子がいつもと違っている、千草はにわかに胸騒ぎを感じながら、いわれるままに坐った。――数馬は母に聞かれぬように声をひそめて、
「殿にはいよいよ御重症だ、したがって前からいってある通り、満里姫様のお身の上もここが大事な時となった、それについて話がある……もっと進め」
「はい――」
千草はひと膝進んだ。
日がとっぷりと暮れた。
赤坂山王の森がくろく、溜池の水に倒影を投げている、池畔の葭と水柳の茂みで、ひと処こんもり陰をなしている小高い場所に地蔵尊の祠がある、――その茂みに隠れて、三人の覆面の武士がしゃがんでいた。
やがて、虎ノ門の方から足早に来る人影。
「来たらしいな」
「うん、――もう来るころだ」
一人がのび上がって見た。
「違うか」
「――数馬だ!」
三人は大剣の鯉口を切った。
足早に来たのは高村数馬だった、板倉家へ御遺言書を預けに行く大切な御用で、そこに待伏せをかけられているとも気付かず、先を急いで榎坂の方へ曲がろうとする。
とたんに!
地蔵堂の脇から忍び出た一人が、つつーと走り寄りさま抜討ちに、
「えイッ」と背へ浴びせた。
「――おう!」
数馬は斬られながら、左へ体を開いて、ぎらり抜合わせる。
「卑怯者、な、名乗れ」
悲痛に叫ぶ背後へ、ほかの二人が忍び寄ったと思うと、たっと鋭い突き!
「あっ、くそっ‼」
「えイッ」
剣の光と、人影とが、幻のようにもつれたと見る間に、
「無念!」
ひと声高く叫びながら、数馬はだっとのめり倒れた。
「――しめた」
「懐を見ろ、早く」
一人がかがんで、倒れている数馬を引起こし、懐から密封した書状を取出した。――上紙を披いて検めると、相良外記はじめ重臣たちの署名血判のある御遺言書だ。
「これに相違ない!」
「よし、引揚げろ」
一人が振返って、
「おーい、駕籠」
と呼んだ。するとかねて用意してあったらしく、坂口の暗がりから、一梃の武家駕籠が現れた。
「死体の始末は頼んだぞ」
「は、――」
「手落ちのないようにしろ」
そういって一人は虎ノ門の方へ足早に立去り、残った二人は、数馬の死体を駕籠に乗せて赤坂見付の方へと姿を消した。
数馬は斬られた、頼宗の御遺言書は奪われた、この三人の怪漢は何者であろうか、なんのために御遺言書を盗んだのであろうか、――溜池の水はそんな悲劇をも知らぬげに、星をうつして静まりかえっていた。
虎ノ門の方へ去った一人は、琴平神社の近くまで来ると覆面を脱り、やがて何喰わぬ顔で愛宕下の金森家の門をくぐると、――そのまま家老相良外記の家へ入って行った。
外記の家の奥座敷には、金森頼母をはじめ藤田中書、河原三十郎、添上靭負、松村伊太夫、主人外記の六名が、何事か密議の最中だったが、若侍が来て、
「瀬越様がお見えでございます」
と告げると、
「おお待兼ねた、これへ」
とみんな向直った。――そして瀬越六兵衛が入って来ると、庭につく間ももどかし気に、
「首尾はどうあった」
「例の物は?」
と膝を乗出して訊いた。
「――御心配無用」
六兵衛は微笑しながら、
「溜池の畔に待伏せて首尾よく仕止め、この通り取戻して参った」
そういって懐から書状を取出した。
「いやそれはお手柄であった」
「さすがは瀬越殿だ」
「しかし、――一応たしかめて……」
頼母が書状を手に取った。――密封の御遺言書、裏の連署血判もまさに相違ない、列座の者も順に検分したうえ、
「たしかに間違いない」
「これで万事は我々の勝利だ」
「では、――直ぐ焼捨てるがよかろう」
頼母の言葉にしたがって、相良外記が行燈の口を明け、御遺言書へ火をつけた。――金森家家督相続の秘密を認めた書状は、めらめらと燃えあがって、庭へ投げられたままついに一片の灰と化してしまった。
「これでよし、――では改めて遺言書を板倉家へ届けると致そう」
外記はそういって、別に作っておいた偽の御遺言書を取出しながら立った。
二
「お姫さま、またおふさぎ遊ばしますか」
「でも、お父上さまがもしや……」
「いけませぬ」
千草は優しくたしなめるように、
「昨日はあれほどお悪かったのが、今朝ほどからよほどお楽の御様子と、御殿医さまがおっしゃったではございませぬか、――家中の方々が神仏にお縋りして御平癒をお祈り申し上げているのですもの、きっと御本復遊ばしますわ」
「千草はそうおいいだけれど」
満里子姫は悲しげにいった。
「お父上さまにもしもの事でもあると、あの怖い麻布の頼母が後見役になって、きっと満里は悲しい目に遭わされるのだわ」
「そんな事がございますものか、お姫さまは金森家のお一粒種、家臣もこれだけ揃っていますものを、なんでお姫さまに悲しい目をおみせ申しましょう」
「本当にそうかしら……」
満里子姫は力無げに眼をあげて、
「満里はそう思えないわ、本当に満里のために忠義を尽くしてくれる家来が何人あるだろう、――金森家の事は思っても満里の仕合せなんか考えてもみない者たちばかりではないの、……侍ばかりではなく、女中たちだってその通りだわ」
「まあ、そんな悲しい事をおっしゃっては」
「いえ、本当なの」
満里子姫は嘆息と共にいった。
「その証拠には、満里の大事な大事な和蘭人形さえ、もう誰かが取ってしまったわ」
「――和蘭人形を⁉」
千草の顔色がさっと変わった。
「老女の小倉にいって、今朝から捜させているところだけれど、あんな満里が大切にしていたのを知りながら取って行くなんて、女中たちの中にもひどい者があるんだわ」
「でもお姫さま、もしやお納いどころを間違えていらっしゃるのではございませんでしょうか、お姫さまの大切なお人形を取るなんて、そんな不心得な者は決していないはずですわ」
「千草には分からないのね、でもそれは仕方のない事だわ、千草は親切な兄やよい母があるのだもの……満里には母上もなし」
いいかけて、姫は肩を震わせながらそっと顔を蔽った、――山百合の花が雨にうたれているような、悲しくも痛ましい姿であった。
姫の母君は三年まえになくなっていた、兄弟も姉妹もなく、もしここで頼宗が死ねば孤児も同様の身の上になるのだ、四万五千石の大名の家に生まれても、人の世の不幸から逃れることは出来ない、――否、大名の姫君なればこそ、かえって人知れぬ辛さ悲しさがあるであろう。
千草は黙って膝を見つめていた。
いつもの千草なら、もっともっと姫を慰めるはずである、何か訳でもあるのか、それとももう慰めるすべもないのか?
「お姫さま、――」
老女の小倉があわただしく入って来た。
「御安心遊ばしませ」
「え?」
「お人形がみつかりましてございます」
そう聞くと同時に、千草の全身が電気に触れたようにぴりぴりと震えた。――老女小倉は大切そうに和蘭人形を抱えていた、それは赤児ほどもある大きなもので、銀色の髪と碧い眸をもち、日本風の友禅の振袖を着ている美しいものだった。
「まあよかった、うれしいこと」
姫は子を取戻した母親のように、老女の手から抱取って頬ずりをした。
「でも、どこにあったの?」
「お側の者が盗んだのでございます」
老女はそこへ坐りながらいった。――姫は悲しげに眉をひそめて、
「やっぱりそうだったの、憎いこと」
「憎うございます、しかもその者はお姫さまがどんなにこのお人形を大切に遊ばしているか、誰よりもよく存じている者なのです」
「誰なのそれは」
「ここにいる者です」
老女はずばりといった。
「ここにいる者って?……」
「この千草でございます」
満里子姫はもう少しで抱いている人形を落としそうにした。
「嘘、嘘よ、そんなこと嘘だわ」
「そう思し召すのも無理はございません、お姫さまの一番お気に入りで、誰よりも目を掛けておやり遊ばした者ですもの、それがこんな大それた事をするなんて……わたくしも、千草の部屋からみつけ出した時には、自分の眼を疑ったくらいでございます」
「千草、なんとかいって、そんなこと嘘だっていって頂戴、千草!」
「…………」
「おまえまさかそんな事しないわね、誰かがおまえを悪者にしようとして、この人形をおまえの部屋へ隠して置いたのでしょ?」
「いえ、いえ」
千草はうなだれたまま答えた。
「お姫さま、申訳ございませぬ、千草がお人形を取ったのでございます」
「まあ、千草!」
「あんまり綺麗なので、ずっと以前から欲しかったのです、けれど我慢していました、我慢していたのですが昨夜はその我慢がしきれなくなりまして……」
「とうとう白状をおしだね」
老女は憎々しげにいった。
「可愛い顔をしていながら、なんという心の悪い娘だろう、――さ、部屋へ退って謹慎しておいで」
「まあお待ち」
姫はそっと止めて、
「千草、おまえ飛んだ事をしておくれだねえ、誰にどんな事があっても、千草だけは満里の本当の味方だと思っていたのに……満里はもう誰も、誰も信じられなくなりました」
「――お姫さま!」
千草が思わず進み寄ろうとするのを、老女は手荒く引放し、
「ええ無礼な、お退りというに」
と力任せに廊下の方へ押出した。千草は懸命に振返って、
「でもお姫さまにたったひと言」
「黙りゃ、盗人の分際で汚らわしい、再びお姫さまなどというでない、行きゃ」
何かいいたげな千草を、老女は容赦もなく押しやりながら、お局部屋へ入るとそこへ突放すように坐らせて、
「これが武士なら切腹して申訳するところじゃぞ、しかし日ごろの御寵愛もあり、殿様御重病の折柄ゆえ命だけは助けまする、――いずれお沙汰のあるまで家に戻って謹慎しや」
「はい」
「着類や道具はのちに持たせてやる、直ぐに立ちゃ」
「御老女さま」
千草は涙にぬれた顔をあげて、
「ひと言お姫さまにお伝え下さいまし、どうぞ和蘭人形を大切に遊ばしますよう、決して他人の手に取られぬよう……」
「お黙り、おまえさえいなければ、二度とこんな事はあるはずがないのじゃ」
「でもどうぞそうお伝えを――」
そういって千草は悄然と立上がった。
果して千草は、姫君の人形を盗んだのであろうか、それとも姫のいったように、誰かが千草を陥れるために企んだ事であろうか? 千草はひと言の弁解もせず、かえって自分が致しましたとはっきりいったけれど、そこに何か秘密があるのではないだろうか⁉
千草がお小屋へ帰ると、誰か客が来ている様子だった。
「どなたかお客様?」
「はい、――」
女中の雪が出迎えながら、
「榊原さまでございます、――なんですか若旦那さまの事でお話にいらしったとか」
「お兄さまの事で?」
千草は不吉な予感を覚えながら客間へ入って行った。――母と対坐しているのは榊原小平太といって、兄の数馬と勿論、千草も幼いころから親しくしている若侍だった。
「おやどうおしだえ、今日はもうお退りか」
「ええ、――いらっしゃいませ、小平太さま」
母には答えず、千草は小平太の方へ手をついて、
「兄の事で何かありましたの」
「何かあったという訳でもないのですが、数馬は御用で国表へ立ったそうですね」
「はい、――一昨日の夕方いちど、お上の御用で直ぐ戻ると申しまして出たのですが、そのまま帰りませんので案じておりますと、昨日の朝御家老さまから、お国表へ急用で出立させたからとお知らせがございましたの」
「それが妙なのですよ」
小平太は懐から紙入を取出して、
「これはたしか、数馬の物でしょう」
「拝見致します」
千草は手に取って見た、古い鹿皮の紙入、たしかに亡き父の形見として、兄が常に肌を離さぬ品である。
「ええたしかに兄の……」
といいかけて千草は、
「あ! 血、血がついて――」
「それです」
小平太は静かにいった、
「拙者の家の下男が釣好きで、昨夜溜池へ出掛けて行ったのですが、地蔵堂の側の叢からこれを拾って来たのです、――懐中物を取落とすような数馬ではないし、もしまた落としたとしても、何もいわずに国表へ出立するはずはないでしょう、しかもこれには血がついている」
「兄は斬られたのです」
千草が小平太の言葉を遮って呻くようにいった。
三
「思い当たる事でもありますか」
「実は一昨日の事なのですが、殿の御用で行くまえに一度家へ立寄りましたの、その時わたくしに、御家中の様子を語りまして、――自分は相良様に狙われているから、事によると闇討ちにされるかも知れぬ……と申しておりました」
「やっぱりそうですか、拙者も実はそれを心配していたのですが――」
「でも、もし闇討ちになったとしましても」
千草は気丈な口調でいった。
「千草は少しも悔やみは致しませぬ、兄の死は無駄ではございません、きっとお役に立つ事と存じます」
「その覚悟を聞いて小平太も安心しました。拙者は少し気づいた事がありますから、これから麻布様(頼母)の中屋敷へ行って来ます、何かあったらまたお知らせに来ますから」
「お待ちしておりますわ」
小平太はそれで帰って行った。
母は始終の様子を黙って聞いていた、数馬が闇討ちにされたらしいという事は、もう小平太から聞いていた、しかしその悲しみよりも、千草の雄々しい態度を見た安堵の方が大きかった。
「おまえも数馬は死んでいるとお思いか」
「悲しいけれどそうとしか思えませぬ、そして今はお兄さまの事より、もっともっと大変な事が起こっているのです、――母さま、千草はいま謹慎を申し渡されて参りました」
「おまえが、謹慎?」
「これにはわけがありますの、でもどうぞ何もお訊き下さいますな、やがて何もかもお話し申す時が参りますから」
千草の顔には、十五歳の乙女に似合わぬはげしい決意がひらめいていた。
それからちょうど三日目の夜の事である。
閉門と同様で、お小屋の表を閉めてある千草の家の裏手から、そっと小平太が訪ねて来た。――着物も少し乱れ、息を喘がせている。
「どうなさいました、小平太さま」
「数馬の死体を、――みつけました」
「お兄さまの死体……」
さすがに千草は足が戦いた。
「御分家の中屋敷に隠してあったのです、溜池で斬って駕籠で運んで行ったのだそうで、その駕籠を担いだ陸尺から訊き出したのです、――敵は荒川大蔵、木下市之丞と申す奴、それに瀬越六兵衛の三名」
「まあ、三人掛かりで……」
「拙者いま、その三人を斬って来ました」
千草は無言のまま、千万言の感謝をこめて小平太の眼を見上げた。
「これで数馬の仇は討ちました、詳しい事はあとで申しますが、実はそれより、――いま帰って聞いたばかりですが、殿にはついに御逝去あそばされたそうですぞ」
「えっ? 御逝去?」
「夕方の事だったそうで、お世継ぎが定まるまで外へは知らさぬが、いま板倉内膳正殿がお見えになり、御分家さま始め重臣たちが集まってお世継ぎの会議をひらいているとの事です、それが決まって幕府のお許しがあれば、いよいよ御発喪になるでしょう」
「小平太さま!」
千草はきっと面をあげて、
「わたくし直ぐ御殿へあがらなければなりませぬゆえ、これで失礼致します、――兄の事についてのお骨折はお礼の言葉もございませぬが、それはまた改めて申し上げます、御免下さいまし」
会釈もそこそこに千草は奥へ去った。
そのころ、御殿の表書院では。
正面に金森頼母と老中板倉内膳正、その左右に家老相良外記はじめ、重臣二十七名がずらりと並んでいた。――板倉侯は静かに一座の人々を見廻しながら、
「このたび、御当家の御不幸について、身はかねてから飛騨殿より、なきのちの始末を託されておった、これはここに列座の御老職たちが御存じのはずで、――殊に数日以前、飛騨殿は遺言書を作り、死後に家中一統と立会いのうえ開封してくれと申して身の許へ預けて寄来された」
そういって懐から遺言書を取出し、
「この通り、ここに外記はじめ老臣の署名と血判がある、遺言に書き記してある事に違背なしという証拠である、――相違あるまいな」
「相違ござりませぬ」
外記が皆に代って答えた。
「頼母殿にも御異存はないか」
「いささかも異存ござらぬ、どうぞ遺書の趣お読み聞かせ下されたい」
「しからば、――」
と内膳正は上封を披いた。
何事が記してあるか、一藩の運命を決する大切な場合とて、列座の人々は膝を乗出して、一言も聞逃すまいと耳を澄ませた。――内膳正は静かに遺言書を披いた。
「――遺言の事、当家跡目は、麻布金森頼母の子大三郎を養子として……」
「お待ち下さい」
内膳正の声を遮って、大きく叫びながら末座へ現れた者がある、――一同が驚いて振返ると、侍女の千草であった。
「申し上げます」
千草は臆するところなく、辷るように内膳正の前へ進んでぴたりと坐り、
「その御遺言書は偽でございます」
といった。
「な、なにを申す」
「無礼者、場所柄を弁えぬか」
「退りおれ」
外記をはじめ人々が騒然と喚きたてるのを、内膳正は手をあげて制し、千草を見やりながら、
「――その方は何者じゃ」
「姫君の侍女にて千草と申しまする」
「うむ、……この遺書が偽であると申したが、それでは真の遺書がほかにあると申すのか」
「はい、たしかにございます」
千草は落着いた声で答えた。
「ではそれを見せい」
「畏まりました、――どうぞどなたさまか、お姫さまに和蘭人形を持ってこれへお越し遊ばすよう、申し上げて下さいませ」
「計らってやれ」
幕府の老中として重きをなす内膳正のお声がかりである、外記は仕方なく若侍の一人を奥へやった。――待つほどもなく、満里子姫が両眼を赤く泣腫らし、老女に和蘭人形を持たせて上段へ現れた。
「御老女さま、――」
千草は待兼ねたように、
「どうぞ人形の帯をお解き下さいませ」
という。――老女がいわれるままに人形の帯を解くと、友禅振袖の上衣の下から、はらりと一封の書状が落ちた。
「あ、――これは」
「申し上げます、それこそ真の御遺言書でございます、どうぞお検め下さいまし」
内膳正が受取って仔細に検べてみると、こっちの遺書には文言の終りに頼宗の自筆の花押がある、――前のものには「頼宗」と名を書いて血判が押してある。
――瀕死の病人が血判をするはずはない、しかも家臣に与える遺言に、主君たる者がどうして血判をしよう。
真偽はそれだけで明らかだ。
「いかにもこれこそ真の遺言書じゃな」
内膳正は頷いて、
「改めて読むぞ、一同しかと承れ。――遺言の事、当家跡目の儀は、一族間部下総守の二男、龍之助を以って満里子の婿とし、家督相続仕るべき事、間部下総殿にはすでに承知なり。この儀、神明に誓って違背あるべからず。――なお、分家頼母ことは、かねてより悪心強く、当家横奪の陰謀あり、諸士よく勉めて謀計にかかる事なかれ」
聞いていた頼母はじめ、相良外記以下一味の人々は色を喪った。――板倉侯はすかさず、
「千草とやら、この遺書がいかにして人形の中にあったか、その訳を申してみい」
「申し上げまする」
千草はきっと面をあげて、
「わたくしの兄は数馬と申し、中小姓を勤めておりましたが、殿より板倉様へ御遺言書をお届けするよう申し付かりました時、家へ立寄りましてわたくしに向かい、御分家さま始め御家老さま方が穏やかならぬ企みを遊ばしている様子、この御遺書は必ず狙われるであろうから、姫君のお人形の中へ隠しておけと、真の御遺書はわたくしに渡し、別に一通の偽遺書を作りまして、お邸を出て行ったのでございます、――わたくしは直ぐ御殿へあがりまして、誰にも知られぬよう、お人形を自分の部屋へ移し、ただ今の通り御遺書を隠したのでございます」
「まあ――」
満里子姫が驚きの声をあげた。
「それでは人形を取ったというのは、その御遺言書を隠すためであったのかえ」
「――お姫さま!」
「すまなかった、千草、ゆるしておくれ、満里はおまえを疑ったりして恥ずかしい」
姫は意外な結果に驚くよりも、自分の愛していた千草が、やはり潔白な、忠義な侍女であったと知って嬉しさに声をうるませた――板倉内膳正にも事情は直ぐ察せられた。
「して、その方の兄はいかが致した」
「板倉様お邸へ参る途中、溜池附近にて闇討ちに遭い、死体は御分家中屋敷に隠してありましたそうで、その仔細は榊原小平太さまがよく御存じでございます」
「誰の仕業かも相分かっておろうな」
「はい、死体を運びました駕籠の陸尺が、すっかり白状したと申します」
板倉内膳正は頷いて、きっと容を正しながら向直った。
「――外記、面をあげい」
「は!」
「只今までの仔細、内膳は胸三寸に納めて他言はせぬ、また今更ここで悪人の詮議も致さぬ、――この遺言通り、間部侯の二男を当家の姫の婿として家督相続致すよう計らえ」
「は、――」
「板倉内膳正、只今より後見として申し渡す、御分家頼母殿は今後当家へ出入り御無用、外記は家老を辞するがよい、その他は追って沙汰致すぞ」
頼母と外記は、紙のように蒼白んだまま、一言もなくそこへ両手を突いた。――内膳正はさらに千草に向かって、
「数馬は惜しい事をしたのう、しかし数馬の命は金森家を万代の安きに置いたぞ、……姫、千草と申す者、年若ながらあっぱれでござる、今後とも目をかけておやりなさるがよい」
「忝う存じます、――千草」
満里子姫は涙にうるんだ眼で千草の方へ振返り、和蘭人形を抱取っていった。
「当座の褒美じゃ、この人形をそなたにあげまする」
「まあ、お姫さま」
あっと眼を瞠る千草の方へ、姫は自ら人形を抱いてしずしずと近寄った。――美しい人形を中にした少女らしい優しいこの有様を、人々は始めてなごやかな眼で見やるのだった。