北越雪譜
北越雪譜二編 巻一
越後塩沢 鈴木牧之 編撰
江戸 京山人百樹 増修
○ 越後の城下
越後の国往古は出羽越中に距りし事国史に見ゆ。今は七郡を以て一国とす。東に岩船郡古くは石に作る海による蒲原郡新潟の湊此郡に属す西に魚沼郡海に遠し北に三嶋郡海による刈羽郡海に近し南に頸城郡海に近き処もあり古志郡海に遠し以上七郡也。城下は岩船郡に村上内藤侯五万九千石ヨ蒲原郡に柴田溝口侯五万石黒川柳沢侯一万石陣営三日市柳沢弾正侯一万石陣営三嶋郡に与板井伊侯二万石刈羽郡に椎谷堀侯一万石陣営古志郡に長岡牧野侯七万四千石ヨ頸城郡に高田榊原侯十五万石糸魚川松平日向侯一万石陣営以上城下の外頗豊饒を為す処、魚沼郡に小千谷、古志郡に三条、三嶋郡に寺泊○出雲崎、刈羽郡に柏崎、頸城郡に今町なり。蒲原郡の新潟は北海第一の湊なれば福地たる㕝論を俟ず。此余の豊境は姑略す。此地皆十月より雪降る、その深と浅とは地勢による。猶末に論ぜり。
○ 古哥ある旧蹟
蒲原郡の伊弥彦山弥一作夜伊弥彦社を当国第一の古跡とす。祭るところの御神は饒速日命の御子天香語山命なり。 元明天皇の和銅二年の垂跡とす。社領五百石此山さのみ高山にもあらざれども、越後の海浜八十里の中ほどに独立して山脉いづれの山へもつゞかず。右に国上山、左に角田山を提攜して一国の諸山是に対して拱揖するが如く、いづれの山よりも見えて実に越後の鎮ともなるべき山は是よりほかにはあらじとおもはる。さればこそ命もこゝに垂跡まし/\たれ。此御神の縁起或は灵験神宝の類記すべき㕝あまたあれども姑こゝに省。
○さて此山をよみたる古哥に万葉「いや日子のおのれ神さび青雲のたなびく日すら小雨そぼふるよみ人しらず」又家持に「いや彦の神のふもとにけふしもかかのこやすらんかはのきぬきてつぬつきながら」▲長浜 頸城郡に在り。三嶋郡とする説もあり家持の哥に「ゆきかへる雁のつばさを休むてふこれや名におふ浦の長浜」▲名立 同郡西浜にあり、今は宿の名によぶ。 順徳院の御製に承久のみだれに佐渡へ遷幸の時なり「都をばさすらへ出し今宵しもうき身名立の月を見る哉」▲直江津 今の高田の海浜をいふ。 同御製に「なけば聞きけば都のこひしきに此里すぎよ山ほとゝぎす」▲越の湖 蒲原郡に潟とよぶ処多し。里言に湖を潟といふ。その大なるを福嶋潟といふ、四方三里計。此潟に遠からずして五月雨山あり。貫之の哥に「潮のぼる越の湖近ければ蛤もまたゆられ来にけり」又俊成卿に「恨てもなにゝかはせんあはでのみ越の湖みるめなければ」又為兼卿「年をへてつもりし越の湖は五月雨山の森の雫か」▲柿崎頸城郡にある駅也 親鸞聖人の詠玉ひしとて口碑に伝へし哥に「柿崎にしぶ/\宿をもとめしに主の心じゆくしなりけり」按ずるに、聖人御名を善信と申て三十五歳の時讒口に係りて越後に謫さる、時に承元元年二月なり。後五年を経て勅免ありしかども、法を弘ん為とて越後にいまししこと五年なり、故に聖人の旧跡越地に残れり。弘法廿五年御歳六十の時洛に皈玉へり。越後に五年、下野に三年、常陸に十年、相模に七年也弘長二年十一月廿八日遷化寿九十歳。件の柿崎の哥も弘法行脚の時の作なるべし。
此外▲有明の浦▲岩手の浦▲勢波の渡▲井栗の森▲越の松原いづれも古哥あれども、他国にもおなじ名所あればたしかに越後ともさだめがたし。さて今を去㕝天保十一子なり五百四十一年前、永仁六年戌のとし藤原為兼卿佐渡へ左遷の時、三嶋郡寺泊の駅に順風を待玉ひし間、初君といふ遊女をめし玉ひしに、初君が哥に「ものおもひこし路の浦の白浪も立かへるならひありとこそきけ」此哥吉瑞となりてや、五年たちてのち嘉元元年為兼卿皈洛ありて、九年の後正和元年玉葉集を撰の時、初君が件の哥を入れられ玉へり、是を越後第一の逸事とす。初君が古跡今寺泊に在り、里俗初君屋敷といふ。貞享元年釈門万元記といふ初君が哥の碑ありしが、断破しを享和年間里入重修して今に存せり。
○ 雪の元日
凡日本国中に於て第一雪の深き国は越後なりと古昔も今も人のいふ事なり。しかれども越後に於も最雪のふかきこと一丈二丈におよぶは我住魚沼郡なり。次に古志郡、次に頸城郡なり。其余の四郡は雪のつもる㕝三郡に比すれば浅し。是を以論ずれば、我住魚沼郡は日本第一に雪の深降所なり。我その魚沼郡の塩沢に生れ、毎年十月の頃より翌年の三四月のころまで雪を視事已に六十余年、近日此雪譜を作るも雪に籠居のすさみなり。
○さて我塩沢は江戸を去こと僅に五十五里なり、直道を量ばなほ近かるべし。雪なき時ならば健足の人は四日ならば江戸にいたるべし。其江戸の元日を聞ば縉紳朱門の㕝はしらず、市中は千門万戸千歳の松をかざり、直なる 御代の竹をたて、太平の七五三を引たるに、新年の賀客麻上下の肩をつらねて往来するに万歳もうちまじりつ。女太夫とか鳥追ひの三味線にめでたき哥をうたひ、娘の児のやり羽子、男の児の帋鳶、見るもの聞ものめでたきなかに、初日影花やかにさし昇たる、実に新玉の春とこそいふべけれ。其元日も此雪国の元日も同元日なれども、大都会の繁花と辺鄙の雪中と光景の替りたる事雲泥のちがひなり。
○そも/\我里の元日は野も山も田圃も里も平一面の雪に埋り、春を知るべき庭前の梅柳の類も、去年雪の降ざる秋の末に雪を厭て丸太など立て縄縛に遇たるまゝ雪の中にありて元日の春をしらず。されば人も三四月にいたらざれば梅花を不見、翁が句に 春も稍景色とゝのふ月と梅、と吟ぜしは大都会の正月十五日なり。また「山里は万歳遅し梅の花」とは辺鄙の三月なるべし。門松は雪の中へ建、七五三かざりは雪の軒に引わたす。礼者は木屐をはき、従者は藁靴なり。雪径に階級ある所にいたれば主人もわらぐつにはきかふる、此げたわらぐつは礼者にかぎらず人々皆しかり。雪全く消る夏のはじめにいたらざれば、草履をはく事ならず。されば元日の初日影も惟雪の銀世界を照すのみ。一ツとして春の景色を不見。古哥に「花をのみ待らん人に山里の雪間の草の春を見せばや」とは雪浅き都の事ぞかし。雪国の人は春にして春をしらざるをもつて生涯を終る。これをおもへば繁栄豊腴の大都会に住て年々歳々梅柳媆色の春を楽む事実に天幸の人といふべし。
○ 雪の正月
初編にもいへる如く我国の雪は鵞毛をなすは稀なり、大かたは白砂を降すが如し。冬の雪はさらに凝凍ことなく、春にいたればこほること鉄石のごとし。冬の雪のこほらざるは湿気なく乾たる沙のごとくなるゆゑなり。是暖国の雪に異処なり。しかれどもこほりてかたくなるは雪解とするのはじめなり。春にいたりても年によりては雪の降こと冬にかはらざれども、積こと五六尺に過ず。天地に阳気有を以なるべし。されば春の雪は解るもはやし、しかれども雪のふかき年は春も屋上の雪を掘ことあり。掘とは椈の木にて作りたる木鋤にて土を掘ごとくして取捨るを里言に雪を掘といふ、已に初編にもいへり。かやうにせざれば雪の重に屋を潰ゆゑなり。されば旧冬の家毎に掘除たる雪と春降積たる雪と道路に山をなすこと下にあらはす図を見てもしるべし。いづれの家にても雪は家よりも高ゆゑ、春を迎る時にいたればこゝろよく日光を引んために、明をとる処の窗に遮る雪を他処へ取除るなり。然るに時としては一夜の間に三四尺の雪に降うづめられて家内薄暗、心も朦々として雑煮を祝ふことあり。越後はさら也、北国の人はすべて雪の中に正月をするは毎年の事也。かゝる正月は暖国の人に見せたくぞおもはるゝ。
○ 玉栗
江戸の児曹が春の遊は、女児は繍毬羽子擢、男児は紙鴟を揚ざるはなし。我国のこどもは春になりても前にいへるごとく地として雪ならざる処なければ、歩行に苦しく路上に遊をなす事少し。こゝに玉栗といふ児戯あり。春にもかぎらず雪中のあそび也始は雪を円成て雞卵の大さに握りかため其上へ/\と雪を幾度もかけて足にて踏堅、あるひは柱にあてゝ圧堅、これを肥といふ。さて手毬の大さになりたる時他の童が作りたる玉栗を庇下などに置しめ、我が玉栗を以他の玉栗にうちあつる、強き玉栗弱き玉栗を砕くをもつて勝負を争ふ。此戯所によりて、○コンボウ○コマ○地独楽○雪玉里のなまりに雪をいきといふ○ズヽゴ○玉ゴシヨ○勝合などいふなり。此玉栗を作るに雪に少し塩を入るれば堅なること石の如し、ゆゑに小児互に塩を入るを禁ずるなり。こゝを以てみる時は、塩は物を堅むる物なり。物を堅実にするゆゑ塩蔵にすれば肉類も不腐、朝夕嗽に塩の湯水を以すれば歯をかためて歯の命を長くすといふ。玉栗は児戯なれど、塩の物を堅する証とするにたれり。故にこゝに記せり。又童のあそびに雪ン堂といふ㕝あり、初編にいだせり。
○羽子擢 我里俗はねをつくといはずはねをかへすといふ、うちかへすの心なるべし
江戸に正月せし人の話に、市中にて見上るばかり松竹を飾たるもとに、美く粧ひたる娘たち彩たる羽子板を持て並び立て羽子をつくさま、いかにも大江戸の春なりとぞ。我里の羽子擢は辺鄙とはいひながら、かゝる艶姿にあらず。正月は奴婢どもゝ少しは許て遊をなさしむるゆゑ、羽子を擢んとて、まづ其処を見たてゝ雪をふみかためて角力場のごとくになし、羽子は溲疏を一寸ほど筒切になし、これに鸐雉の尾を三本さしいれる、江戸の羽子に比れば甚大なり。これを擢に雪を掘木鋤を用ふ、力にまかせて擢ゆゑに空にあがる㕝甚高し。かやうに大なる羽子ゆゑに童はまじらず、あらくれたる男女うちまじり、はゞきわらぐつなどにて此戯をなすなり。一ツの羽子を並びたちてつくゆゑに、あやまちて取落したるものは始に定ありて、あるひは雪をうちかけ、又は頭より雪をあぶする。その雪襟懐に入りて冷に耐ざるを大勢が笑ふ、窗よりこれを視るも雪中の一興なり。京伝翁が骨董集に上編ノ下下学集を引て、羽子板は文化十二年より三百七十年ばかりの前、文安のころありしものにて、それよりもなほさきにありし事は詳ならずといはれたり。又下学集には羽子板にハゴイタ、コギイタと両かなをつけたれば、こぎの子といふも羽子の事なりとあり。我国にも江戸の如くに児女のはねをつく所もあり。
○ 雪吹に焼飯を売
雪国にて悚懼物は、冬の○雪吹○ホウラ、春の雪頽なり。此奇状奇事已に初編にもいへり、されど一奇談を聞たるゆゑこゝにしるして暖国の話柄とす。
○そも/\金銭の貴こと、魯氏が神銭論に尽したれば今さらいふべくもあらず。年の凶作はもとより事に臨で餓にいたる時小判を甜て腹は彭張ず、餓たる時の小判一枚は飯一碗の光をなさず。五十余年前の饑饉の時、或所にて餓死したる人の懐に小判百両ありしときゝぬ。
○こゝに我が魚沼郡藪上の庄の村より農夫一人柏崎の駅にいたる、此路程五里計なり。途中にて一人の苧纑商人に遇ひ、路伴になりて往けり。時は十二月のはじめなりしが数日の雪も此日晴たれば、両人肩をならべて心朗にはなしながら已に塚の山といふ小嶺にさしかゝりし時、雪国の恒として晴天俄に凍雲を布、暴風四方の雪を吹散して白日を覆ひ、咫尺を弁ぜず。袖襟へ雪を吹入れて全身凍て息もつきあへず、大風四面よりふきめぐらして雪を渦に巻揚る、是を雪国にて雪吹といふ。此ふゞきは不意にあるものゆゑ、晴天といへども冬の他行には必蓑笠を用ること我国の常なり。二人は橇に雪を漕つゝ雪にあゆむを里言にこぐといふ互に声をかけて助あひ辛じて嶺を逾けるに、商人農夫にいふやう、今日の晴天に柏崎までは何ともおもはざりしゆゑ弁当をもたず、今空腹におよんで寒に堪ず、かくては貴殿に伴て雪を漕ことならず、さいぜんの話におみさまの懐に弁当ありときゝぬ、夫を我に与へたまふまじきや、惟には貰ふまじ、こゝに銭六百あり、死か活かの際にいたりて此銭を何にかせん、六百にて弁当を売玉へといふ。農夫は貧乏の者なりしゆゑ六百ときゝて大によろこび、焼飯二ツを出して六百の銭に替けり。商人は懐にありて温のさめざる焼飯の大なるを二ツ食し、雪に咽を潤して精心健になり前にすゝんで雪をこぎけり。
○かくていそぐほどに雪吹ます/\甚しく、橇を穿ゆゑ道遅く日も已に暮なんとす。此時にいたりて焼飯を売たる農夫は肚減て労れ、商人は焼飯に腹満足をすゝめて往。農夫は屡後るゆゑ終には棄て独先の村にいたり、しるべの家に入りて炉辺に身を温て酒を酌、始て蘇生たるおもひをなしけり。
○さてしばらくありてほうい/\と呼声遠く聞るを家内の者きゝつけ、ふゞきにほうい/\とよぶは人にたすけを乞ふことば也、雪中の常とす雪吹倒れぞ、それ助けよとて、近隣の人をもよび集め手毎に木鋤を持て木鋤を持は雪に埋りし雪吹たふれの人をほりいださんため也、これも雪国の常也走行しが、やゝありて大勢のもの一人の死骸を家の土間へ舁入れしを、かの商人も立寄見れば、最前焼飯を売たる農夫なりしとぞ。この苧纑商人、或時余が俳友の家に逗留の話に件の事を語り出し、彼時我六百の銭を惜み焼飯を買ずんば、雪吹の中に餓死せんことかの農夫が如くなるべし、今日の命も銭六百のうちなりとて笑ひしと俳友が語れり。
○ 雪中の戯場
五穀豊熟して年の貢も心易く捧げ、諸民鼓腹の春に遇し時、氏神の祭などに遭しを幸に地芝居を興行する㕝あり。役者は皆其処の素人あるひは近村近駅よりも来るなり。師匠は田舎芝居の役者を傭ふ。始に寺などへ群居て狂言をさだめてのち、それ/\の役を定む。此群居の議論紛々として一度にて果したる㕝なし。事定りてのち寺に於て稽古をはじむ、技熟してのち初日をさだめ、衣裳髢のるゐは是を借を一ツの業とするものありて物の不足なし。此芝居二三月の頃する事あり、此時はいまだ雪の消ざる銀世界なり。されば芝居を造る処、此役者等が家はさらなり、親類縁者朋友よりも人を出し、あるひは人を傭ひ芝居小屋場の地所の雪を平らかに踏かため、舞台花道楽屋桟敷のるゐすべて皆雪をあつめてその形につかね、なりよく造ること下の図を見て知るべし。此雪にて造りたる物、天又人工をたすけて一夜の間に凍て鉄石の如くになるゆゑ、いかほど大入にてもさじきの崩る気づかひなし。弥生の頃は雪もやゝ稀なれば、春色の空を見て家毎に雪囲を取除るころなれば、処々より雪かこひの丸太あるひは雪垂とて茅にて幅八九尺広さ二間ばかりにつくりたる簾を借あつめてすべての日覆となす。ぶたい花みちは雪にて作りたる上に板をならぶる、此板も一夜のうちに冰つきて釘付にしたるよりも堅し。暖国に比れば論の外なり。物を売茶屋をも作る、いづれの処も平一面の雪なれば、物を煮処は雪を窪め糠をちらして火を焼ば、雪の解ざる事妙なり。
○さて戯場の造作成就しても春の雪ふりつゞきて連日晴を見ず、興行の初日のびる時は役者になりたる家はさら也、此しばゐを見んとて諸方に逗留の客多く毎日空をながめて晴を待わび、客のもてなしもしつくして殆倦果、終には役者仲間いひあはせ、川の冰を砕て水を浴千垢離して晴を祈るもをかし。
百樹曰、余丁酉の夏北越に遊びて塩沢に在し時、近村に地芝居ありと聞て京水と倶に至りしに、寺の門の傍に杭を建て横に長き行燈あり、是に題して曰、当院屋根普請勧化の為本堂に於て晴天七日の間芝居興行せしむるものなり、名題は仮名手本忠臣蔵役人替名とありて役者の名多くは変名なり。寺の門内には仮店ありて物を売り、人群をなす。芝居には仮に戸板を集て囲たる入り口あり、こゝに守る者ありて一人前何程と価を取、これ屋根普請の勧化なり。本堂の上り段に舞台を作り掛、左に花道あり、左右の桟敷は竹牀簀薦張なり。土間には薦を布、筵をならぶ。旅の芝居大概はかくの如しと市川白猿が話にもきゝぬ。桟敷のこゝかしこに欲然やうな毛氈をかけ、うしろに彩色画の屏風をたてしはけふのはれなり。四五人の婦みな綿帽子したるは辺鄙に古風を失ざる也。観人群をなして大入なれば、猿の如き童ども樹にのぼりてみるもあり。小娘が笊を提て冰々とよびて土間の中を売る。笊のなかへ木の青葉をしき雪の冰の塊をうる也。茶を売べきを氷を売るは甚めづらし、氷のこと削氷の条にいふべし。
○さて口上いひ出て寺へ寄進の物、あるひは役者へ贈物、餅酒のるゐ一々人の名を挙、品を呼て披露し、此処忠臣蔵七段目はじまりといひて幕開。おかるに扮しは岩井玉之丞とて田舎芝居の戯子なるよし、頗る美なり。由良の助に扮しは余が旅中文雅を以識人なり、年若なればかゝる戯をもなすなるべし。常にはかはりて今の坂東彦三郎に似たり。技も又観に足り。寺岡平右ヱ門になりしは余が客舎にきたる篦頭なり、これも常にかはりて関三十郎に似て音声もまた天然と関三の如し。余京水と相顧て感じ、京水たはふれにイヨ尾張屋と誉けるが、尾張屋は関三の家号なる事通じがたきや、尾張屋とほむるものひとりもなし。一幕にてかへらんとせしに守る者木戸をいださず、便所は寺の後にあり、空腹ならば弁当を買玉へ、取次申さんといふ。我のみにあらず、人も又いださず。おもふに、人散ば演場の蕭然を厭ふゆゑなるべし。いづくにか出所あらんと尋しに、此寺の四方垣をめぐらして出べきの隙なし。折ふし童が外より垣をやぶりて入りたるその穴より両人くゞりいでしは、これも又可笑一ツにてぞありし。
○ 家内の氷柱
旧冬より降積たる雪家の棟よりも高く、春になりても家内薄暗きゆゑ、高窓を埋たる雪を掘のけて明をとること前にもいへるが如し。此屋上の雪は冬のうちしば/\掘のくる度々に、木鋤にてはからず屋上を損ずる㕝あり。我国の屋上おほかたは板葺なり、屋根板は他国に比れば厚く広し。葺たる上に算木といふ物を作り添石を置て鎮とし風を防の便とす。これゆゑに雪をほりのくるといへどもつくすことならず、その雪のうへに早春の雪ふりつもりて凍ゆゑ屋根のやぶれをしらず。春も稍深なれば雪も日あたりは解あるひは焼火の所雪早く解るにいたりて、かの屋根の損じたる処木羽の下たをくゞりなどして雪水漏ゆゑ、夜中俄に畳をとりのけ桶鉢のるゐあるかぎりをならべて漏をうくる。もる処を修治とするに雪全くきえざるゆゑ手をくだす㕝ならず、漏は次第にこほりて座敷の内にいくすぢも大なる氷柱を見る時あり。是暖国の人に見せたくぞおもはる。
百樹曰、余越遊して大家の造りやうを見るに、楹の太こと江戸の土蔵のごとし。天井高く欄間大なり、これ雪の時明をとるためなり。戸障子骨太くして手丈夫なるゆゑ、閾鴨柄も広く厚し。すべて大材を用る事目を駭せり、これ皆雪に潰ざるの用心なりとぞ。江戸の町にいふ店下を越後に雁木又は庇といふ、雁木の下広くして小荷駄をも率べきほどなり、これは雪中にこの庇下を往来の為なり。余越後より江戸へ皈る時高田の城下を通しが、こゝは北越第一の市会なり。商工軒をならべ百物備ざることなし。両側一里余庇下つゞきたるその中を往こと、甚意快なりき。文墨の雅人も多しときゝしが、旅中年の凶するに遭、皈家を急しゆゑ剌を入れざりしは今に遺憾とす。
○ 雪中歩行の用具
雪中歩行の具初編に其図を出ししが製作を記さず、ふたゝびその詳なるを示す。
○藁ひとたけにてあみたつる。はじめはわらのもとを丸けてあみはじめ、末にいたりてわらをまし二筋にわけ折かへし、
○をはりはまん中にて結びとむる。是雪中第一のはきもの也。童もこれをはく也。上品なるはあみはじめに白紙を用ひ、ふむ所にたゝみのおもてを切入る。
○是はうちわらにて作りあむ。常の韈のつくりのまゝ是をはきて雪中に歩行しても、他の坐につく時足をそゝぐにおよばず。あみやうは甚むづかしきものなり、此図は大略をしるす。
○他国には革にて作りたるを見る。泥行には便なるべし。我国の雪中には途に泥ある所なし、ゆゑにはき物はげたの外わらにてつくる。げたに、●駒の爪●牛のつめなど、さま/″\名もあり、男女の用その形もかはれど、さのみはとて図せず。
○ハツハキといふは里俗のとなへなり、すなはち裹脚なり。わらのぬきこあるひは蒲にても作る。雪中にはかならず用ふ、やまかせぎは常にも用ふ。作りやう図を見て大略を知るべし。やすくいへばわらのきやはんなり。わらは寒をふせぐものゆゑ、雪のはきもの大かたはわらにて作るなり。
○シナ皮とて深山にある木の皮にて作る、寸尺は身に応じ作る。大かたはたて二尺三寸はゞ二尺ばかりなり、胸あてともいふ。前より吹つくる雪をふせぐために用ふ、農業には常にも用ふ。他国にもあるなり。
○シブガラミはあみはじめの方を踵へあて、左右のわらを足頭へからみて作るなり。里俗わら屑のやはらかなるをシビといふ。このシビにて作り、足にからみはくゆゑに、シビガラミといふべきをシブガラミと訛りいふなり。
○かんじきは古訓なり、里俗かじきといふ。たて一尺二三寸よこ七寸五六分、形図の如くジヤガラといふ木の枝にて作る。鼻は反してクマイブといふ蔓又はカヅラといふつるをも用ふ。山漆の肉付の皮にて巻かたむ。是は前に図したる沓の下にはくもの也、雪にふみこまざるためなり。
○すかりはたて二尺五六寸より三尺余、横一尺二三寸、山竹をたわめて作る。○かじき○すかりの二ツは冬の雪のやはらかなる時ふみこまぬ為に用ふ。はきつけぬ人は一足もあゆみがたし。なれたる人はこれをはきて獣を追ふ也。右の外、男女の雪帽子雪下駄、其余種々雪中歩用の具あれども、薄雪の国に用ふる物に似たるはこゝに省く。
百樹曰、余北越に遊びて牧之老人が家に在し時、老人家僕に命じて雪を漕形状を見せらる、京水傍にありて此図を写り。穿物は、○橇○縋なり。戯に穿てみしが一歩も進ことあたはず、家僕があゆむは馬を御するがごとし。
○ 輴
輴字彙禹王水を治し時載たる物四ツあり、水には舟、陸には車、泥には輴、山には欙。書経註しかれば此輴といふもの唐土の上古よりありしぞかし。彼は泥行の用なれば雪中に用ふるとは製作異なるべし。輴の字、○毳○蕝○橇○秧馬、諸書に散見す。或は○雪車○雪舟の字を用ふるは俗用なり。
そも/\此輴といふ物、雪国第一の用具。人力を助事船と車に同く、且に作る事最易きは図を見て知るべし。堀川百首兼昌の哥に、「初深雪降にけらしなあらち山越の旅人輴にのるまで」この哥をもつても我国にそりをつかふの古をしるべし。前にもしば/\いへるごとく、我国の雪冬は凍ざるゆゑ、冬に輴をつかへば雪におちいりて擿ことならじ。輴は春の雪鉄石のごとく凍たる正二三月の間に用ふべきもの也。其時にいたるを里俗輴道になりしといふ。
俳諧の季寄に雪車を冬とするは誤れり。さればとて雪中の物なれば春の季には似気なし。古哥にも多くは冬によめり、実にはたがふとも冬として可なり。
輴は作り易物ゆゑ、おほかたは農商家毎に是を貯ふ。されば載るものによりて大小品々あれども作りやうは皆同じやうなり、名も又おなし。只大なるを里俗に修羅といふ、大石大木をのするなり。
山々の喬木も春二月のころは雪に埋りたるが梢の雪は稍消て遠目にも見ゆる也。此時薪を伐に易ければ農人等おの/\輴を拖て山に入る、或はそりをば麓に置もあり。常には見上る高枝も埋りたる雪を天然の足場として心の儘に伐とり、大かたは六把を一人まへとするなり。さて下に三把を並べ、中には二把、上には一把、これを縄にて強く縛し麓に臨で蹉跌に、凍たる雪の上なれば幾百丈の高も一瞬の間にふもとにいたるを輴にのせて引かへる。或はまた山に九曲あるには、件のごとくに縛したる薪の輴に乗り、片足をあそばせて是にて楫をとり、船を走すがごとくして難所を除て数百丈の麓にくだる、一ツも過ことなし。其術学ずして自然に得る処奇々妙々なり。
輴を引て薪を伐こといひあはせて行ときは、二三人の食を草にて編たる袋にいれて輴にくゝしおくことあり。山烏よくこれをしりてむらがりきたり、袋をやぶりて食を喰尽す。樵夫はこれをしらず、今日の生業はこれにてたれり、いざや焼飯にせんとて打より見れば一粒ものこさず、烏どもは樹上にありて啼。人はむなしく烏を睨て詈り、空肚をかゝへて輴哥もいでず、輴をひきてかへりし事もありしと、その人のかたりき。
の全図(fig58401_07.png、横850×縦580)入る]
そりをひくにはかならずうたうたふ、是を輴哥とてすなはち樵哥なり。唱哥の節も古雅なるものなり。親あるひは夫山に入り輴を引てかへるに、遠く輴哥をきゝて親夫のかへるをしり、輴に遇処までむかへにいで、親夫をば輴に積たる薪に跨せて、妻や娘がこれをひきつゝ、これらも又輴哥をうたうてかへるなど、質朴の古風今目前に存せり。是繁花をしらざる幽僻の地なるゆゑなり。
春もやゝ景色とゝのふといひし梅も柳も雪にうづもれて、花も緑もあるかなきかにくれゆく。されど二月の空はさすがにあをみわたりて、朗々なる窓のもとに書読をりしも遙に輴哥の聞るはいかにも春めきてうれし。是は我のみにあらず、雪国の人の人情ぞかし。
百樹曰、我が幼年の頃は元日のあしたより扇々と市中をうりありく声、あるひは白酒々の声も春めきて心も朗なりしが此声今はなし。鳥追の声はさらなり、武家のつゞきて町に遠所には江鰶の鮨鯛のすしとうる声今もあり、春めくもの也。三月は桜草うる声に花をおもひ、五月は鰹々に白妙の垣根をしたふ。七夕の竹ヤ々々は心涼しく、師走の竹ヤ/\はすゝはらふ竹うりなり聞に忙。物皆季に応じて声をなし、情に入る事天然の理なり。胡笳の悲も又然らん。件のは人の声なり、ましてや春の鶯あるひは蛙、夏の蝉、秋の初雁、鹿、虫の音、冬の水鵲をや。本編輴哥をきゝ春めきてうれしとは真境実事文客の至情なり、我是に感じてこゝに数言を置く。輴哥の春めくこと江戸人にはおもひもよらざる奇情なり、これに似たる事猶諸国にもあるべし。
糞をのする輴哥あり、これをのするほどに小く作りたる物なり。二三月のころも地として雪ならざるはなく、渺々として田圃も是下に在りて持分の境もさらにわかちがたし。しかるにかの糞のそりを引てこゝに来り、雪のほかに一点の目標もなきに雪を掘こと井を掘が如くにして糞を入るに、我田の坪にいたる事一尺をもあやまらず、これ我が農奴等もする事なり。茫々たる雪上何を目的にしてかくはするぞと問ひしに、目あてとする事はしらず、たゞ心にこゝぞとおもふ所その坪にはづれし事なしといへり。所為は賤けれども芸術の極意もこゝにあるべくぞおもはるゝゆゑに、こゝにしるして初学の人芸に進の一端を示す。
輴の大なるを里言に修羅といふ事前にもいへり、これに大材木あるひは大石をのせてひくを大持といふ。ひとゝせ京都本願寺御普請の時、末口五尺あまり長さ十丈あまりの槻を拖し事ありき。かゝる時は修羅を二ツも三ツもかくるなり。材木は雪のふらざる秋伐りてそのまゝ山中におき、輴を用ふる時にいたりてひきいだす。かゝる大材をも拖をもつて雪の堅をしるべし。田圃も平一面の雪なればひくべき所へ直道にひきゆくゆゑ甚弁なり。修羅に大綱をつけ左右に枝綱いくすぢもあり、まつさきに本願寺御用木といふ幟を二本持つ、信心の老若男女童等までも蟻の如くあつまりてこれをひく。木やり音頭取五七人花やかなる色木綿の衣類に彩帋の麾採て材木の上にありて木やりをうたふ。その哥の一ツにハア〽うさぎ/\児兎ハアヽ〽わが耳はなぜながいハアヽ〽母の胎内にいた時に笹の葉をのまれてハアア〽それで耳がながい〽大持がうかんだハアア〽花の都へめりだしたいく百人同音に〽いゝとう/\〽そのこゑさまさずやつてくれ〽いゝとう/\/\。
児曹らが手遊の輴もあり。氷柱の六七尺もあるをそりにのせて大持の学びをなし、木やりをうたひ引あるきて戯れあそぶなど、暖国にはあるまじく聞もせざる事なるべし。猶輴に種々の話あれどもさのみはとてもらせり。
○ 春寒の力
春にいたれば寒気地中より氷結あがる。その力礎をあげて椽を反し、あるひは踏石をも持あぐる。冬はいかほど寒ずるともかゝる事なし。さればこそ雪も春は凍て輴をもつかふなれ。屋根の雪を掘のけてつみ上げおくを、里言に掘揚といふ。前にもいへり往来の路にも掘あげありて山をなすゆゑ、春雪のこほるにいたれば、この雪の山に箱梯のごとく階を作りて往来のたよりとす。かやうの所いづかたにもあるゆゑに下踏の歯に釘をならべ打て蹉跌ざる為とす。唐土にては是を欙とて山にのぼるにすべらざる履とす、欙和訓カンジキとあり。
○ シガ*10
冬春にかぎらず雪の気物にふれて霜のおきたるやうになる、是を里言にシガといふ。戸障子の隙よりも雪の気入りて坐敷にシガをなす時あり、此シガ朝噋の温気をうくる処のは解ておつる。春の頃野山の樹木の下枝は雪にうづもれたるも稍は雪の消たるに、シガのつきたるは玉もて作りたる枝のやうにて見事なるものなり。川辺などはたらく者には髪の毛にもシガのつく事あり、此シガ我が塩沢にはまれなり。おなじ郡の中小出嶋あたりには多し、大河に近きゆゑ水気の霜となるゆゑにやあらん。
○ 初夏の雪
我国の雪里地は三月のころにいたれば次第々々に消、朝々は凍こと鉄石の如くなれども、日中は上よりも下よりもきゆる。月末にいたれば目にも留るほどに昨日今日と雪の丈け低くなり、もはや雪も降まじと雪囲もこゝかしこ取のけ、家のほとり庭などの雪をも掘すつるに、雪凍りて堅きゆゑ雪を大鋸にて大鋸○里言に大切といふひきわりてすつる。その四角なる雪を脊負ひあるひは担持にするなど暖国の雪とは大に異り、雪に枝を折れじと杉丸太をそへてしばりからげおきたる庭樹なども、解ほどけばさすがに梅は雪の中に莟をふくみて春待かほなり、これ春の末なり。此時にいたりて去年十月以来暗かりし坐敷もやう/\明くなりて、盲人の眼のひらきたる心地せられて、雛はかざれども桃の節供は名のみにて花はまだつぼみなり。四月にいたれば田圃の雪も斑にきえて、去年秋の彼岸に蒔たる野菜のるゐ雪の下に萌いで、梅は盛をすぐし桃桜は夏を春とす。雪に埋りたる泉水を掘いだせば、去年初雪より以来二百日あまり黒闇の水のなかにありし金魚緋鯉なんどうれしげに浮泳も言やれ/\うれしやといふべし。五月にいたりても人の手をつけざる日蔭の雪は依然として山をなせり、況や山林幽谷の雪は三伏の暑中にも消ざる所あり。
○ 削氷
百樹曰、余丁酉の年の晩夏豚児京水を従て北越に遊し時、三国嶺を踰しは六月十五日なりしに、谷の底に鶯をきゝて、
足もとに鶯を聞く我もまた谷わたりするこしの山ぶみ
拙作なれども実境なれば記す。此嶺うちこし四里山径隆崛して数武も平坦の路を践ず浅貝といふ駅に宿り猶○二居嶺二リ半を越て三俣といふ山駅に宿し、芝原嶺を下り湯沢に抵んとする途にて遙に一楹の茶店を見る。庇のもとに床ありて浅き箱やうのものに白く方なる物を置たるは、遠目にこれ石花菜を売ならん、口には上らずとおもひながらも、山をはなれて暑もはげしく汗もしとゞに足もつかれたれば茶店あるがうれしく、京水とともにはしりいりて腰をかけ、かの白き物を見ればところてんにはあらで雪の氷なりけり。六月に氷をみる事江戸の目には最珍しければ立よりて熟視ば、深さ五寸計の箱に水をいれその中に小き踏石ほどの雪の氷をおきけり。売茶翁に問ば、これは山蔭の谷にあるなり、めしたまはゞすゝめんといふ。さらばとて乞ひければ翁菜刀を把、盎のなかへさら/\と音して削りいれ、豆の粉をかけていだせり。氷に黄な粉をかけたるは江戸の目には見も慣ず可笑ければ、京水と相目して笑をしのびつゝ、是は価をとらすべし、今ひとさらづゝ豆の粉をかけざるをとて、両掛に用意したる沙糖をかけたる削氷に、歯もうくばかり暑をわすれたるは珍しき事いはんかたなし。
そも/\このけづり氷といふ物を珍味とする事古書に散見せしその中に、定家卿の明月記に曰『元久二年七月廿八日途より和哥所に参る、家隆朝臣唐櫃二合を取寄らる、○破子○瓜○土器○酒等あり、又寒氷あり自刀を取り氷を削る、興に入る事甚し』本書は漢文也件の元久二年乙丑より今天保十一年まで凡六百三十余年を歴て、古人の如く削氷を越後の山村に賞味したる事珍とすべし奇とすべし。実に好古の肝を清くす。
○按にひといふは冰の本訓、こほりと訓は寒凝の義なりと士清翁が和訓栞にいへり。氷室といふ事、俳諧の季寄といふものなどにもみえたれば普人の知りたる事にて、周礼にもいでたれば唐土のむかしにもありしことなり。 御国は仁徳紀に見えたればその古きを知るべし。延喜式に山城国葛城郡に氷室五ヶ所をいだせり、六月朔日氷室より氷をいだして朝庭に貢献するを、諸臣にも頒賜事年毎の例なるよしなり。前に引し明月記の寒氷は朝庭よりの古例の賜にはあるべからず、いかんとなれば削氷を賞味せられしは七月廿八日なり、六月朔日にたまはりたる氷、七月廿八日まで消ずやあるべき。明月記は千写百摹の書なれば七は六の誤としても氷室を出し六月の氷朝を待べからず。盖貢献の後氷室守が私に出すもしるべからず。
○さて氷室とは厚氷を山蔭などの極陰の地中に蔵置、屋を作りかけて守らす、古哥にもよめる氷室守是なり。其氷室は水の氷ををさめおくやうに諸書の注釈にも見えしが、水の氷れるは不潔なり、不潔をもつて貢献にはなすべからず。且水の冰は地中に在りても消易ものなり、是他なし、水は極陰の物なるゆゑ陽に感じ易ゆゑなり。我越後に削氷を視て思に、かの谷間に在といひしは天然の氷室なり。むかしの冰室といふは雪の氷りむろなるべし。極陰の地に竅を作り、屋を造り掛、別に清浄の地に垣をめぐらして、人に踏せず、鳥獣にも穢させず、而雪を待、雪ふれば此地の雪をかの竅に撞こめ埋め、人是を守り、六月朔日是を開、最清浄なる所を貢献せしならん歟。是己が臆断を以て理に就て古の氷室を解するなり。
○氷室の古哥枚挙べからず。かの削氷を賞味し玉ひたる定家に拾遺愚艸「夏ながら秋風たちぬ氷室山こゝにぞ冬をのこすとおもへば」又源の仲正に千載集「下たさゆる氷室の山のおそ桜きえのこりたる雪かとぞ見る」この哥氷室山のおそ桜を消残りたる雪に見たてたる一首の意、氷室は雪の氷なるべくぞおもはるゝ。今加州侯毎年六月朔日雪を献じ玉ふも雪の氷なり。これにても古の氷室は雪の氷なるをおもふべし。
○さてかの茶店にて雪の氷をめづらしとおもひしに、その次日より塩沢の牧之老人が家に在しに、日毎に氷々とよびて売来る、山家の老婆などなり。掌ほどなるを三銭にうる、はじめは二三度賞味せしがのちには氷ともおもはざりき。およそ物の得がたきは珍らしく、得易はめづらしからざるは人情の恒なり。塩沢に居て六月の氷のめづらしからざりしをおもへば、吉野の人はよしのゝ花ともおもはず、松嶋の人は松嶋の月ともおもふまじ。たゞいつまでも飽ざる物は孝心なる我子の顔と、蔵置黄金の光なるべし。
○ 雪の多少
越後国南は上州に隣る魚沼郡なり。東は奥州羽州へ隣る蒲原郡岩船郡なり。国堺はいづれも連山波濤をなすゆゑ雪多し。東北は鼠が関岩船郡の内出羽のさかひ西は市振頸城郡の内越中の堺に至の道八十里が間都て北の海浜なり。海気によりて雪一丈にいたらず年によりて多少あり又消も早し。頸城郡の高田は海を去事遠からざれども雪深し。文化のはじめ大雪の時高田の市中町のながさ一リにあまる雪に埋りて闇夜のごとく、昼夜をわかたざる事十余日、市中燈の油尽て諸人難義せしに、御領主より家毎に油を賜ひし事ありき。此時我塩沢も大雪にて、夜昼をしらず家雪にうづまりて日光を見ざる事十四五日連日ふゞきなるゆゑ雪をほる事ならず家うづまりてくらきなり人気欝悶して病をなすにいたれるもありけり。
百樹曰、余牧之老人が此書の稿本に就て増修の説を添、上梓の為に傭書へ授る一本を作るをりしも、老人が寄たる書中に、
「当年は雪遅く冬至に成候ても駅中の雪一尺にたらず、此日次にては今年は小雪ならんと諸人一統悦び居候所に廿四日十一月なり黄昏より降いだし、廿五六七八九日まで五日の間昼夜につもる事およそ一丈四五尺にもおよび申候。毎年の事ながら不意の大雪にて廿七日より廿九日まで駅中家毎の雪掘にて混雑いたし、簷外急玉山を築戸外へもいでがたく悃り申候。今日も又大雪吹に相成、家内暗く蝋燭にて此状をしたゝめ申候。何程可降哉難計一同心痛いたし居申候」下略是当年天保十亥とし十一月廿九日出の尺翰なり。此文をもつても越後の雪を知るべし。
○余越後の夏に遇しに、五穀蔬果の生育少しも雪を畏たる色なし。山景野色も雪ありしとはおもはれず、雪の浅き他国に同じ。五雑組に天部百草雪を畏ずして霜を畏る。盖雪は雲に生じて陽位也、霜は露に生じて陰位也といへり。越後の夏を視て謝肇淛が此説に伏せり。
○ 浦佐の堂押
我住塩沢より下越後の方へ二宿越て六日町五日町浦佐といふ宿あり。こゝに普光寺といふ真言宗あり、寺中に七間四面の毘沙門堂あり。伝ていふ、此堂大同二年の造営なりとぞ。修復の度毎に棟札あり、今猶歴然と存す。毘沙門の御丈三尺五六寸、往古椿沢といふ村に椿の大樹ありしを伐て尊像を作りしとぞ。作名は伝らずときゝぬ。像材椿なるをもつて此地椿を薪とすればかならず祟あり、ゆゑに椿を植ず。又尊灵鳥を捕を忌玉ふ、ゆゑに諸鳥寺内に群をなして人を怖ず、此地の人鳥を捕かあるひは喰ば立所に神罰あり。たとひ遠郷へ聟娵にゆきて年を歴ても鳥を喰すれば必凶応あり、灵験の煕々たる事此一を以て知るべし。されば遠郷近邑信仰の人多し。むかしより此毘沙門堂に於て毎年正月三日の夜に限りて堂押といふ事あり、敢祭式の礼格とするにはあらねど、むかしより有来たる神事なり。正月三日はもとより雪道なれども十里廿里より来りて此浦佐に一宿し、此堂押に遇人もあれば近村はいふもさらなり。*11
○さて押に来りし男女まづ普光寺に入りて衣服を脱了、身に持たる物もみだりに置棄、婦人は浴衣に細帯まれにははだかもあり、男は皆裸なり。燈火を点ずるころ、かの七間四面の堂にゆかた裸の男女推入りて、錐をたつるの地なし。余も若かりしころ一度此堂押にあひしが、上へあげたる手を下へさぐる事もならざるほどに逼り立けり。押といふは誰ともなくサンヨウ/\と大音に呼はる声の下に、堂内に充満たる老若男女ヲヽサイコウサイとよばはりて北より南へどろ/\と押、又よばはりて西より東へおしもどす。此一おしにて男女倶に元結おのづからきれて髪を乱す㕝甚奇なり。七間四面の堂の内に裸なる人こみいりてあげたる手もおろす事ならぬほどなれば、人の多さはかりしるべし。此諸人の気息正月三日の寒気ゆゑ烟のごとく霧のごとく照せる神燈もこれが為に暗く、人の気息屋根うらに露となり雨のごとくに降、人気破風よりもれて雲の立のぼるが如し。婦人稀には小児を背中にむすびつけて押も有ども、この小児啼ことなきも常とするの不思議なり。況此堂押にいさゝかも怪瑕をうけたる者むかしより一人もなし。婦人のなかには湯具ばかりなるもあれど、闇処に噪雑して一人もみだりがましき事をせず、これおの/\毘沙門天の神罰を怖るゆゑなり。裸なる所以は人気にて堂内の熱すること燃がごとくなるゆゑ也。願望によりては一里二里の所より正月三日の雪中寒気肌を射がごときをも厭ず、柱のごとき氷柱を裸身に脊負て堂押にきたるもあり。二タおし三おしにいたればいかなる人も熱こと暑中のごときゆゑ、堂のほとりにある大なる石の盥盤に入りて水を浴び又押に入るもあり。一ト押おしては息をやすむ、七押七踊にて止を定とす。踊といふも桶の中に芋を洗ふがごとし。ゆゑに人みな満身に汗をながす。第七をどり目にいたりて普光寺の山長耕夫の長をいふ手に簓を持、人の手輦に乗て人のなかへおし入り大音にいふ。「毘沙門さまの御前に黒雲が降たモウ」 衆人「なんだとてさがつたモウ」山男「米がふるとてさがつたモウ」とさゝらをすりならす。此さゝら内へ摺ば凶作なりとて外へ/\とすりならす。又志願の者兼て普光寺へ達しおきて、小桶に神酒を入れ盃を添て献ず。山男挑燈をもたせ人をおしわくる者廿人ばかりさきにすゝみて堂に入る。此盃手に入れば幸ありとて人の濤をなして取んとす。神酒は神に供ずる状して人に散し、盃は人の中へ擲る、これを得たる人は宮を造りて祭る、其家かならずおもはざるの幸福あり。此てうちんをも争ひ奪ふにかならず破る、その骨一本たりとも田の水口へさしおけば、この水のかゝる田は熟実虫のつく事なし。神灵のあらたかなる事あまねく人の知る所なり。神事をはれば人々離散して普光寺に入り、初棄置たる衣類懐中物を視るに鼻帋一枚だに失る事なし、掠れば即座に神罰あるゆゑなり。
○さて堂内人散じて後、かの山長堂内に苧幹をちらしおく㕝例なり。翌朝山長神酒供物を備ふ、後さまに進て捧ぐ、正面にすゝむを神の忌給ふと也。昨夜ちらしおきたる苧幹寸断に折てあり、是人散てのち諸神こゝに集りて踊玉ふゆゑ、をがらを踏をり玉ふなりといひつたふ。神事はすべて児戯に似たること多し、しかれども凡慮を以て量識べからず。此堂押に類せし事他国にもあるべし、姑記して類を示す。
北越雪譜二編巻之一 終
北越雪譜二編 巻二
北越 鈴木牧之 編選
江戸 京山人百樹 増修
○ 雪頽に熊を得
酉陽雑俎に云、熊胆春は首に在り、夏は腹に在り、秋は左の足にあり、冬は右の足にありといへり。余試に猟師にこれを問しに、熊の胆は常に腹にありて四時同じといへり。盖漢土の熊は酉陽雑俎の説のごとくにや。凡猟師山に入りて第一に欲る処の物は熊なり。一熊を得ればその皮とその胆と大小にもしたがへども、大かたは金五両以上にいたるゆゑに猟師の欲るなり。しかれども熊は猛く、且智ありて得るに易からず。雪中の熊は皮も胆も常に倍す、ゆゑに雪に穴居するを尋ね捜し、猟師ども力を戮せてこれを捕るに種々の術ある事初編に記せり。たま/\一熊を得るとも其儕に価を分ゆゑ利得薄し、さればとて雪中の熊は一人の力にては得事難しとぞ。
○茲に吾が住近在に后谷村といふあり。此村の弥左ヱ門といふ農夫、老たる双親年頃のねがひにまかせ、秋のはじめ信州善光寺へ参詣させけり。さてある日用ありて二里ばかりの所へゆきたる留守、隣家の者過て火を出したちまち軒にうつりければ、弥左ヱ門が妻二人の小児をつれて逃去り、命一ツを助りたるのみ、家財はのこらず目前の烟となりぬ。弥左ヱ門は村に火災ありときゝて走皈りしに、今朝出し家は灰となりてたゞ妻子の无㕝をよろこぶのみ。此夫婦心正直にして親にも孝心なる者ゆゑ、人これを憐みまづしばらく我が家に居るべしなど奨る富農もありけるが、われ/\は奴僕の業をなしても恩に報ゆべきが、双親皈り来りて膝を双て人の家に在らんは心も安からじとて諾ず。竊に田地を分て質入なしその金にて仮に家を作り、親も皈りて住けり。草を刈鎌をさへ買求るほどなりければ、火の為に貧くなりしに家を焼たる隣家へ対ひて一言の恨をいはず、交り親むこと常にかはらざりけり。かくてその年もくれて翌年の二月のはじめ、此弥左ヱ門山に入て薪を取りしかへるさ、谷に落たる雪頽の雪の中にきは/\しく黒き物有、遙にこれを視て、もし人のなだれにうたれ死したるにやと辛じて谷に下り、是を視れば稀有の大熊雪頽に打殺れたるなりけり。此雪頽といふ事初編にもくはしく記たるごとく、山に積りたる雪二丈にもあまるが、春の陽気下より蒸て自然に砕け落る事大磐石を転しおとすが如し。これに遇ば人馬はさらなり、大木大石もうちおとさる。されば此熊もこれにうたれしゝたるなり。弥ざゑもんはよきものをみつけたりと大に悦び、皮も胆もとらんとおもひしが、日も西に傾たれば明日きたらんとて人の見つけざるやうに山刀にて熊を雪に埋めかくし、心に目しるしをして家にかへり親にもかたりてよろこばせ、次のあした皮を剥べき用意をなしてかしこにいたりしに胆は常に倍して大なりしゆゑ、弁当の面桶に入れて持かへりしを人ありて皮を金一両胆を九両に買けり。弥ざゑもんはからず十両の金を得て質入れせし田地をもうけもどし、これより屡幸ありてほどなく家もあらたに作りたていぜんにまさりて栄けり。弥左ヱ門が雪頽に熊を得たるは金一釜を掘得たる孝子にも比すべく、年頃の孝心を天のあはれみ玉ひしならんと人々賞しけりと友人谷鴬翁がかたりき。
○ 雪頽の難
吾が住塩沢は下組六十八ヶ村の郷元なれば、郷元を与り知る家には古来の記録も残れり。其旧記の中に元文五年庚申今より百年まへ正月廿三日暁、湯沢宿の枝村掘切村の后の山より雪頽不意に押落し、其响百雷の如く、百姓彦右ヱ門浅右ヱ門の両家なだれにうたれて家つぶれ、彦右ヱ門并に馬一疋即死、妻と嗣息は半死半生、浅右ヱ門は父子即死、妻は梁の下に圧れて死にいたらず。此時 御領主より彦右ヱ門息へ米五俵、浅右ヱ門妻へ米五俵賜し事を記しあり。此魚沼郡は大郡にて 会津侯御預りの地なり。元文の昔も今も 御領内の人民を怜玉ふ事仰ぐべく尊むべし。そのありがたさを吾が后へも示さんとて筆の序にしるせり。近年は山家の人、家を作るに此雪頽を避て地を計るゆゑその難まれなれども、山道を往来する時なだれにうたれ死するもの間ある事なり。初編にもいへるが如く、○ホウラは冬にあり、雪頽は春にあり。他国の人越後に来りて山下を往来せばホウラなだれを用心すべし。他国の人これに死したる石塔今も所々にあり、おそるべし/\。
○ 雪中の葬式
吾が国に雪吹といへるは、猛風不意に起りて高山平原の雪を吹散し、その風四方にふきめぐらして寒雪百万の箭を飛すが如く、寸隙の間をも許さずふきいるゆゑ、ましてや往来の人は通身雪に射れて少時に半身雪に埋れて凍死する㕝、まへにもいへるがごとし。此ふゞきは晴天にも俄におこり、二日も三日も雪あれしてふゞきなる事あり、往来もこれが為にとまること毎年なり。此時に臨で死亡せしもの、雪あれのやむを待も程のあるものゆゑ、せんかたなく雪あれを犯て棺を出す事あり。施主はいかやうにもしのぶべきが他人の悃苦事見るもきのどくなり、これ雪国に一ツの苦状といふべし。我江戸に逗留せしころ、旅宿のちかきあたりに死亡ありて葬式の日大嵐なるに、宿の主もこれに往とて雨具きびしくなしながら、今日の仏はいかなる因果ものぞや、かゝる嵐に値て人に難義をかくるほどなればとても極楽へはゆかるまじ、などつぶやきつゝ立いづるを見て、吾が国の雪吹に比ぶればいと安しとおもへり。
○ 竜燈
筑紫のしらぬ火といふは古哥にもあまたよみて、むかしよりその名たかくあまねく人のしる所なり。その然るさまは春暉が西遊記*12にしらぬ火を視たりとて、詳にしるせり。其しらぬ火といふも世にいふ竜燈のたぐひなるべし。我国蒲原郡に鎧潟とて里言に湖を潟と云東西一里半、南北ヘ一里の湖水あり、毎年二月の中の午の日の夜、酉の下刻より丑の刻頃まで水上に火燃るを、里人は鎧潟の万燈とて群り観る人多し。余が友人これをみたるをきゝしに、かの西遊記にしるしたるつくしのしらぬ火とおなじさまなり。近年湖水を北海へおとし新田となりしゆゑ、湖中の万燈も今は人家の億燈となれり。又我国の八海山は巓に八ツの池あり、依て山の名とす。絶頂に八海大明神の社あり、八月朔日を縁日とし山にのぼる人多し。此夜にかぎりて竜燈あり、其来る所を見たる人なしといふ。およそ竜燈といふものおほかたは春夏秋なり。諸国にある㕝諸書にしるしたるを見るに、いづれもおなじさまにて海よりも出、山よりもくだる。毎年其日其刻限、定りある事甚奇異なり。竜神より神仏へ供と云が普通の説なれど、こゝに珎き竜燈の談あり、少しく竜燈を解べき説なれば姑くしるして好事家の茶話に供す。
我国頸城郡米山の麓に医王山米山寺は和同年中の創草なり。山のいたゞきに薬師堂あり、山中女人を禁ず。此米山の腰を米山嶺とて越後北海の駅路なり、此辺古跡多し。余先年其古跡を尋んとて下越後にあそびし時、新道村の長飯塚知義の話に、一年夏の頃雩の為に村の者どもを从へ米山へのぼりしに、薬師へ参詣の人山こもりするために御鉢といふ所に小屋二ツあり、その小屋へ一宿しゝに是日は六月十二日にて此御鉢といふ所へ竜燈のあがる夜なり。おもひまうけずして竜燈をみる事よとて人々しづまりをりしに、酉の刻とおもふ頃、いづくともなくきたりあつまりしに、大なるは手鞠の如く、小なるは雞卵の如し。大小ともに此御鉢といふあたりをさらずして、飛行する㕝あるひはゆるやか、あるひははしる、そのさま心ありて遊ぶが如し。其光りは螢火の色に似たり。つよくも光り、よはくもひかるあり。舞ひめぐりてしばらくもとゞまるはなく、あまたありてかぞへがたし。はじめより小やの入り口を閉、人々ひそまりて覗ゐたれば、こゝに人ありともおもはざるやうにて、大小の竜燈二ツ三ツ小屋のまへ七八間さきにすゝみきたりしを、かれがひかりにすかしみれば、形ち鳥のやうに見えて光りは咽の下より放つやうなり。猶近くよらばかたちもたしかに視とゞけんとおもひしに、ちかくはよらずしてゆるやかに飛めぐれり。此夜は山中に一宿の心得なれば心用の為に筒をも持せしに、手たれの上手しかも若ものなりしが光りを的にうたんとするを、老人ありてやれまてとおしとゞめ、あなもつたいなし、此竜燈は竜神より薬師如来へさゝげ玉ふなり。罰あたりめと叱りたる声に、竜燈はおどろきたるやうにてはるか遠く飛さりしと知義語られき。
○ 芭蕉翁が遺墨
およそ越後の雪をよみたる哥あまたあれども、越雪を目前してよみたるはまれなり。西行が山家集、頓阿が草菴集にも越後の雪の哥なし、此韻僧たちも越地の雪はしらざるべし。俊頼朝臣に「降雪に谷の俤うづもれて稍ぞ冬の山路なりける」これらは実に越後の雪の真景なれども、此あそん越後にきたり玉ひしにはあらず、俗にいふ哥人は居ながら名所をしるなり。 伊達政宗卿の御哥に「さゝずとも誰かは越ん関の戸も降うづめたる雪の夕暮」又「なか/\につゞらをりなる道絶て雪に隣のちかき山里」此君は御名たかき哥仙にておはしまししゆゑ、かゝるめでたき御哥もありて人の口碑にもつたふ。雪の実境をよみ玉ひしはしろしめす御国も深雪なればなり。芭蕉翁が奥に行脚のかへるさ越後に入り、新潟にて「海に降る雨や恋しきうき身宿」寺泊にて「荒海や佐渡に横たふ天の川」これ夏秋の遊杖にて越後の雪を見ざる事必せり。されば近来も越地に遊ぶ文人墨客あまたあれど、秋のすゑにいたれば雪をおそれて故郷へ逃皈るゆゑ、越雪の詩哥もなく紀行もなし。稀には他国の人越後に雪中するも文雅なきは筆にのこす事なし。吾が国三条の人崑崙山人、北越奇談を出板せしが六巻絵入かな本文化八年板一辞半言も雪の事をしるさず。今文運盛にして新板湧がごとくなれども日本第一の大雪なる越後の雪を記したる書なし。ゆゑに吾が不学をも忘れて越雪の奇状奇蹟を記して後来に示し、且越地に係りし事は姑く載て好事の話柄とす。
さて元禄の頃高田の御城下に細井昌庵といひし医師ありけり。一に青庵といひ、俳諧を善して号を凍雲といへり。ひとゝせはせを翁奥羽あんぎやのかへり凍雲をたづねて「薬欄にいづれの花を草枕」と発句しければ、凍雲とりあへず「萩のすだれを巻あぐる月」此時のはせをが肉筆二枚ありて一枚は書損と覚しく淡墨をもつて一抹の痕あり、二枚ともに昌庵主の家につたへしを、后に本書は同所の親族三崎屋吉兵衛の家につたへ、書損のは同所五智如来の寺にのこれり。しかるに文政のころ此地の 邦君風雅をこのみ玉ひしゆゑ、かの二枚持主より奉りければ、吉兵ヱヘ常信の三幅対に白銀五枚、かの寺へもあつき賜ありて、今二枚ともに 御蔵となりぬと友人葵亭翁がものがたりしつ。葵亭翁は蒲原郡加茂明神の修験宮本院名は義方吐醋と号し、又無方斎と別号す、隠居して葵亭といふ。和漢の博識北越の聞人なり。芭蕉が件の句ものに見えざればしるせり。
百樹曰、芭蕉居士は寛永廿年伊賀の上野藤堂新七郎殿の藩に生る。次男なり寛文六年歳廿四にして仕絆を辞し、京にいでゝ季吟翁の門に入り、書を北向雲竹に学ぶ。はじめ宗房といへり、季吟翁の句集のものにも宗房とあり。延宝のすゑはじめて江戸に来り杉風が家に寄、小田原町鯉屋藤左ヱ門剃髪して素宣といへり、桃青は后の名なり。芭蕉とは草庵に芭蕉を植しゆゑ人よりよびたる名の后には自号によべり。翁の作に芭蕉を移辞といふ文あり、その終りの辞に「たま/\花さくも花やかならず茎太けれども斧にあたらず、かの山中不材の類木にたぐへてその性よし。僧懐素は是に筆を走らし張横渠は新葉を見て修学の力とせしとなり。予その二ツをとらず。たゞ此蔭に遊びて風雨に破れ易きを愛す「はせを野分して盥に雨をきく夜哉」此芭蕉庵の旧蹟は深川清澄町万年橋の南詰に対ひたる今或侯の庭中に在り、古池の趾今に存せりとぞ。余芭蕉年表一名はせを年代記といふものを作せり、書肆刻を乞ども考証未足ゆゑに刻をゆるさず翁身を世外に置て四方に雲水し、江戸に趾をとゞめず。終には元禄七年甲戊十月十二日「旅に病て夢は枯埜をかけ廻る」の一句をのこして浪花の花屋が旅囱に客死せり。是挙世の知る処なり。翁が臨終の事は江州粟津の義仲寺にのこしたる榎本其角が芭蕉終焉記に目前視るが如くに記せり。此記を視るに翁いさゝか菌毒にあたりて痢となり、九月晦日より病に臥、僅に十二日にして下泉せり。此時病床の下にありし門人○木節翁に薬をあたへたる医なり○去来○惟然○正秀○之道○支考○呑舟○丈草○乙州○伽香以上十人なり。其角は此時和泉の淡の輪といふ所にありしが、翁大坂にときゝて病ともしらずして十日に来り十二日の臨終に遇り、奇遇といふべし。以上終焉記を摘要す其角が終焉記の文中に此記義仲寺に施板ありて人の乞ふにあたふ、俳人はかならずみるべき書なり『義仲寺にうつして葬礼義信を尽し京大坂大津膳所の連衆被官従者までも此翁の情を慕へるにこそ招ざるに馳来る者三百余人なり。浄衣その外智月と百樹云、大津の米屋の母、翁の門人乙州が妻縫たてゝ着せまゐらす』又曰『二千余人の門葉辺遠ひとつに合信する因と縁との不可思議いかにとも勘破しがたし』百樹おもへらく、孔子に三千の門人ありて門に十哲をいだす。芭蕉に二千の門葉ありて、庵に十哲とよぶ門人あり。至善の大道と遊芸の小技と尊卑の雲泥は論におよばざれども、孔子七十にして魯国の城北泗上に葬て心喪を服する弟子三千人、芭蕉五十二にして粟津の義仲寺に葬る時招ざるに来る者三百余人、是以人に師たるの徳ありしをおもふべし。盖芭蕉の盆石が孔夫子の泰山に似たるをいふなり。芭蕉曾駔儈儈」の左に「ウルコヽロ」の注記]の風軽薄の習少しもなかりしは吟咏文章にてもしらる。此翁は其角がいひしごとく人の推慕する事今に於も不可思議の奇人なり。されば一句一章といへども人これを句碑に作りて不朽に伝ふる事今猶句碑のあらざる国なし。吟海の幸祥詞林の福禎文藻に於て此人の右に出る者なし。されば本文にもいへるごとくかりそめにいひすてたる薬欄の一句の墨痕も百四十余年の后にいたりて文政の頃白銀の光りをはなつぞかし、論外不思議といふべし。蜀山先生嘗謂予曰、凡文墨をもつて世に遊ぶ者画は論せず、死後にいたり一字一百銭に当らるゝ身とならば文雅幸福足べしといはれき。此先生は今其幸福あり、一字一百銭に当らるゝ事嗟乎難かな。
○さてまた芭蕉が行状小伝は諸書に散見して普く人の知る所なり、しかれども翁の容㒵は挙世知る人あるべからず。されば爰に一証を得たるゆゑ、此雪譜に記載して后来に示すは、かゝる瑣談も世に埋冤せん事のをしければ、いざ然ばとて雪に転す筆の老婆心なり。
○こゝに二代目市川団十郎初代段十郎のち団に改むの俳号を嗣で才牛といふ。后に柏筵とあらたむ。元文元年なり此柏筵は、○正徳○享保○元文○寛保を盛に歴たる名人なり。妻をおさいといひ、俳名を翠仙といふ、夫婦ともに俳諧を能し文雅を好り。此柏筵が日記のやうに書残したる老の楽といふ随筆あり。二百四五十帋の自筆なり嘗梱外へ出さゞりしを、狂哥堂真顔翁珎書なれば懇望してかの家より借りたる時余も亡兄とともに読しことありき。そのなかに芝居土用やすみのうち柏筵一蝶が引船の絵の小屏風を風入れする旁にて、人参をきざみながら此絵にむかしをおもひいだして独言いひたるを記したる文に「我れ幼年の頃はじめて吉原を見たる時、黒羽二重に三升の紋つけたるふり袖を着て、右の手を一蝶にひかれ左りを其角にひかれて日本堤を往し事今に忘ず。此ふたりは世に名をひゞかせたれど今はなき人なり。我は幸に世にありて名もまた頗る聞えたり中略今日小川破笠老まゐらる。むかしのはなしせられたるなかに、芭蕉翁はほそおもてうすいもにていろ白く小兵なり。常に茶のつむぎの羽織をきられ、嵐雪よ、其角が所へいてくるぞよとものしづかにいはれしとかたられたり」此文はせをを今目前に見るが如し。翁の門人惟然が作といふ翁の肖像あるひは画幅の肖像、世に流伝するものと此説とあはせ視るべし小川破笠俗称平助壮年の頃放蕩にて嵐雪と倶に俗称服部彦兵ヱ其角が堀江町の居に食客たりし事、件の老の楽又破笠が自記にも見ゆ。破笠一に笠翁また卯観子、夢中庵等の号あり。絵を一蝶に学び、俳諧は其角を師とす。余が蔵する画幅に延享三年丙寅仲春夢中庵笠翁八十有四筆とあり。描金を善して人の粕をなめず、別に一趣の奇工を為す。破笠細工とて今に賞せらる。吉原の七月創て機燈を作りて今に其余波を残り、伝詳なれどもさのみはとてもらせり。
○ 化石渓
東游記に越前国大野領の山中に化石渓あり。何物にても半月あるひは一ヶ月此渓に浸しおけばかならず石に化す、器物はさらなり紙一束藁にてむすびたるが石に化たるを見たりとしるせり。我が越後にも化石渓あり、魚沼郡小出の在羽川といふ渓水へ蚕の腐たるを流しが一夜にして石に化したりと友人葵亭翁がかたられき。かの大野領の化石渓は東游記の為に名高けれども我が国の化石渓は世にしられず、又近江の石亭が雲根志変化の部に前編人あり語云、越後国大飯郡に寒水滝といふあり、此処深山幽谷にして沍寒の地なり。此滝坪へ万物を投こめおくに百日を過ずして石に化すとぞ、滝坪の近所にて諸木の枝葉又は木の実その外生類までも石に化たるを得るとぞ。予去る頃此滝の石を取よせし人ありて見るに、常の石にあらず全躰鐘乳なり、木の葉など石中にふくむ則石なり。雲林石譜にいふ鐘乳の転化して石になるならん云云。牧之案るに、越後に大飯郡なし又寒水滝の名もきかず。人あり語るとあれば伝聞の誤なるべし。盖北越奇談に会津に隣る駒が岳の深谷に入ること三里にして化石渓と名付る処あり、虫羽草木といへども渓に入りて一年を歴ればみな化して石となる。其川甚苦寒にして夏も渉べからざるが如し。又蘇門岳の北下田郷の深谷にも化石渓あり云々。雲根志の説はこれらの所を聞誤たるならん。
○ 亀の化石
吾が同郡岡の町の旧家村山藤左ヱ門は余が壻の兄なり。此家に先代より秘蔵する亀の化石あり、伝ていふ、近き山間の土中より掘得といふ、実に化石の奇品なり、茲に図を挙て弄石家の鑒を俟。
百樹曰、件の図を視るに常にある亀とは形状少しく異なるやうなり。依て案るに、本草に所謂秦亀一名筮亀あるひは山亀といひ、俗に石亀といふ物にやあらん。秦亀は山中に居るものなり、ゆゑに呼で山亀といふ。春夏は渓水に遊び秋冬は山に蔵る、極て長寿する亀は是なりとぞ。又筮亀と一名するは周易に亀を焼て占ひしも此亀なりとぞ。件の亀の化石、本草家の鑒定を得て秦亀ならば一層の珎を増べし。山にて掘得たりとあれば秦亀にちかきやうなり。化石といふものあまた見しに、多は小きものにてあるひはまた体全も稀なり。図の化石は体全く且大なり、珎とすべし。
○余先年俗にいふ大和めぐりしたるをり、半月あまり京にあそび、旧友の画家春琴子に就て諸名家をたづねし時、鴻儒の聞高き頼先生名襄、字子成、山陽と号、通称頼徳太郎へも訪ひ、坐談化石の事におよび、先生余に蟹の化石一枚を恵。その色枯ずして生が如く、堅硬ことは石なり。潜確類書又本草三才図会等にいへる石蟹泥沙と倶に化して石になりたるなるべし。盆養する石菖の下におくに水中に動が如し。亀の徒者に其図を出す、是も今は名家の形見となりぬ。
○ 夜光玉
雲根志灵異の部に曰、予が隣家に壮勇の者あり儀兵衛といふ。或時田上谷といふ山中に行て夜更て皈るに、むかうなる山の澗底より青く光り虹の如く昇てすゑは天に接る。此男勇漢なれば无二无三に草木を分けて山を越、谷をわたりてかの根元をさぐりみるに、たゞ何の異る事もなき石なり。ひろひとりて背に負ひ皈るに道すがら光ること前の如し。甚だ夜道の労をたすかり、暁の頃我が家に着ぬ。件の石を軒の外に直し置、朝飯などしたゝめて彼の石を見んとするに石なし、いかにせし事やらんとさま/″\にたづねもとむれども行方しれずとなん。又本国甲賀郡石原潮音寺和尚のものがたりに、近里の農人畑を掘居しに拳ほどなる石をほりいだせり、此石常の石よりは甚だうつくし、よつて取りかへりぬ、夜に入りて光ること流星の如し。友のいふ、是は灵石なり、人の持ものにあらず、家にあらば必災あるべし、はやく打やぶりてすつべしと。これをきゝて斧をもつて打砕しを竹やぶの中へすてたり、其夜竹林一面に光る事数万の螢火の如し。翌朝近里の人きゝつたへて集り来り、竹林をたづねみるに少しのくづまでも一石も有る事なし。又筑后国上妻郡の人用ありて夜中近村へ行に一ツの小川あり、かちわたりせしに、なにやらん光る物あり、拾ひとりてみれば小石なり、翌日さる方へ献ず、しばらくして失たりとぞ。以上一条全文是等は他国の事なり、我が越后にも夜光の玉のありし事あり。新発田より蒲原郡東北加治といふ所と中条といふ所の間路の傍田の中に庚申塚あり、此塚の上に大さ一尺五寸ばかりの円石を鎮してこれを礼る。此石その先農夫屋の后の竹林を掃除して竹の根など掘るとてかの石一ツを掘得たり。その色青みありて黒く甚だなめらかなり、農夫これをもつて藁をうつ盤となす、其夜妻庭に出しに燦然として光る物あり、妻妖怪なりとして驚叫。家主壮夫三五人を伴ひ来りて光る物を打に石なり、皆もつて怪とし石を竹林に捨つ、その石夜毎に光りあり、村人おそれて夜行ものなし。依て此石を庚申塚に祭り上に泥土を塗て光をかくす、今猶苔むしてあり。好事の人この石を乞へども村人祟あらん㕝を惧てゆるさずとぞ。又駒が岳の麓大湯村と橡尾村の間を流るゝ渓川を佐奈志川といふ、ひとゝせ渇水せし頃水中に一点の光あり、螢の水にあるが如し。数日処を移さず、一日暴風に水増て光りし物所を失ふ、后四五町川下に光りある物螢火の如し。此地山中なれば村夫等昏愚にして夜光の玉なる事をしらず、敢てたづねもとむる者もなかりしに、其秋の洪水に夜光の玉ふたゝびながれて所在を失ひしとぞ。以上北越奇談の説偖茲に夜光珠の実事あり。我文政二年卯の春下越後を歴遊せしをり、三嶋郡に入り伊弥彦明神を拝、旧知識なれば高橋光則翁を尋しに、翁大によろこびて一宿を許しぬ。此翁和哥を善し且好古の癖ありて卓達の人なり、雅談湧が如く、おもはず笻をとゞめし事四五日なりし。一夕翁の語りけるは、今より四五十年以前吉田の三島郡の内なりほとり大鳥川といふ渓川に夜な/\光りものありとて人怖て近づくものなかりしに、此川の近所に富長村といふあり、こゝに鍛冶の兄弟あり、ひとりの母を養ふ、家最貧し。此兄弟剛気なるものゆゑかの光り物を見きはめ、もし妖怪ならば退治して村のものどもが肝をひしがんとて、ある夜兄弟かしこにいたりしに、をりしも秋の頃水もまさりし川面をみるに、月暗くしてたゞ水の音をきくのみ。両人炬をふりてらしてこゝかしこをみるに光るものさらになく、また怪しむべきをみず、さては人のいふは空言ならん、いざとて皈らんとしけるに、水上俄に光明を放つ、すはやとて両人衣服を脱すて水に飛入り泳ぎよりて光る物を探りみるに、くゝり枕ほどなる石なり、これを取得て家に皈り、まづ灶の下に置しに光り一室を照せり。しか/″\のよし母にかたりければ、不思議の宝を得たりとて親子よろこび近隣よりも来りみるもありしが、ものしらぬ者どもなれば趙壁随珠ともおもはずうち過けり。かくて后弟別家する時家の物二ツに分ちて弟に与んと母のいひしに、弟は家財を望ず光る石を持去んといふ。兄がいはく、光る石を拾ひ得しは我が企なり、汝は我が力を助しのみなり、光る石は親の譲にあらず、兄が物なり。家財を分ならばおやのゆづりをこそわかつべけれ、与ふまじ/\。弟いな/\あの石はおれがものなり、いかんとなればおん身は光る石を拾んとの企にはあらず、妖物を退治せんとて川へいたり、おん身よりは我先に川へ飛いり光りものを探りあてゝかづきあげしも我なり、しかればおれがひろひしを持さらんになにかあらん。いや/\此兄がものなり、弟がのなりと口論やまず、終にはつかみあひうちあひしを、母やう/\におししづめ、しからば光る石を二ツに破りて分つべしといふ。弟さらばとて明玉をとりいだし鍛冶する鑕の上にのせ䤶をもて力にまかせて打ければ、をしむべし明玉砕破内に白玉を孕しがそれも砕け、水ありて四方へ飛散けり。其夜水のかゝりし処光り暉く事螢の群たるが如くなりしに、二三夜にしてその光りも消失けりとぞ。いかに頑愚の手にありしとはいひながら、稀世の宝玉鄙人の一槌をうけて亡びたるは、玉も人も倶に不幸といふべしと語られき。牧之案に、橘春暉が著たる北囱瑣談後編の二蔵石家の事をいふ条に曰、江州山田の浦の木之内古繁、伊勢の山中甚作、大坂の加嶋屋源太兵ヱ、其外にも三都の中の好事家侯国の逸人、蔵石に名の高き人近年夥し、余も諸家の奇石を見しに皆一家の蔵る処三千五千種にいたる、五日十日の日を尽してやう/\眼をふる㕝を得るにいたる、その多き中にも格別に目をおどろかすほどの珎奇の物は无ものなり。加嶋屋源太兵ヱものがたりに、過し年北国より人ありて拳の大さの夜光の玉あり、よく一室を照す、よき価あらば売んといひしかば、即座に其人に托して曰、其玉求たし、暗夜にその玉の入りたる箱の内ばかり白きやうに見えなば金五十両にもとむべし、又その玉にて闇夜に大なる文字一字にても読えられなば金百両にもとむべし、又書状よむほどならば三百金、いよ/\一室をてらさば吾が身上のこらずの力を尽して求むべし、媒して玉はるべしといひしが、そのゝちなにの便もなくてやみぬ、空言にてありしと思はる云云。此文段は天明年中蔵石の世に流行たる頃加嶋屋が話をそのまゝに春暉が后にしるしたるなるべし。さて又余がかの鍛冶屋が玉のはなしをきゝしは文政二年の春なり、今より四五十年以前とあれば、鍛冶が玉を砕きたるは安永のすゑか天明のはじめなるべし。然りとすれば、蔵石の流行たる頃なれば、かのかじまやが話に北国の人一室をてらす玉のうりものありしといひしは、我が国の縮商人などがかぢやの玉の㕝をきゝつたへて商ひ口をいひしもはかられず。しかるに玉はくだきしときゝてかじまやへ答へざりしにやあらん。卞和が玉も楚王を得たればこそ世にもいでたれ、右にのせたる夜光の話五ツあり、三ツは我が越後にありし事なり。いづれも世にいでず、嗟乎惜むべし/\。
百樹曰、五雑組物の部に鍛冶屋がはなしに類せる㕝あり。明の万暦の初閩中連江といふ所の人蛤を剖て玉を得たれども不識これを烹る、珠釜の中に在て跳躍して定ず、火光天に燭、里人火事ならんと驚き来りてこれを救ふ。玉を烹たるもの、そのゆゑを聞て釜の蓋を啓て視れば已に玉は半枯たり。其珠径一寸許、此真に夜光明月の珠なり。俗子に厄せられたる事悲夫と記せり。又曰、五雑組おなじつゞき魏の恵王が径寸の珠前後車を照こと十二乗の物はむかしの事、今天府にも夜光珠はなしと明人謝肇淛が五雑組にいへり。○神異記○洞冥記にも夜光珠の㕝見えたれども孟浪に属す。古今注にはすぐれて大なる鯨の眼は夜光珠を為といへり。卞和が玉も剖之中果有玉といへば、石中に玉を孕たる事鍛冶の砕たる玉卞和が玉に類せり。趙の恵王が夜光の玉を、秦の照王が城十五を以て易んといひしは、加嶋屋が北国の明玉を身上尽して買んと約せしに類せり。さて又癸辛雑譏続集巻下に、機婦糸を水にひたしおきたるに、夜中白く大なる蜘蛛きたりてその水をのむに身に光りをはなつ、かの婦人これを見て大にあやしみ、雞籠を罩てかの蜘蛛をとらへしに腹に夜光珠在、大さ弾丸の如しとしるせり。此事を前文に牧之老人が引たる北越奇談玉の部に越後にありし事とていだせり。その事癸辛雑識に少しもちがはず、おもふに癸辛雑識は唐本にて且又容易には得がたき書なれば、北越奇談の作者俗子の目に奇をしめさんとてたはむれに越後の事としてかきくはへたるもしるべからず。しかし癸辛雑識続集は都下にすら得がたければ本書を見たるにはあるべからず、博識に伝聞したるなるべし又増一阿含経第卅三。等法品第卅九に転輪聖王の徳にそなはりたる一尺六寸の夜光摩尼宝は彼国十二由旬を照すとあり、文多ければあげず。盖一由旬は異国の四十里なり、十二由旬は日本道六十六里なり。一尺六寸の玉六十六里四方を照すは奇異といふべし。転輪王此玉を得て試に高き幢の頭に挙著けるに、人民等玉の光りともしらず夜の明たりとおもひ、おの/\家業をはじめけりと記せり。此事碩学の聞高き了阿上人の話にきゝてかの経を借得て読しが、これぞ夜光の玉の親玉なるべき。
○ 餅花
餅花や夜は鼠がよし野山一にねずみが目にはとありとは其角がれいのはずみなり。江戸などの餅花は、十二月餅搗の時もちばなを作り歳徳の神棚へさゝぐるよし、俳諧の季には冬とす。我国の餅花は春なり。正月十四日までを大正月といひ、十五日より廿日までを小正月といふ、是我里俗の習せなり。さて正月十三日十四日のうちに門松しめかざりを取り払ひ、我国長岡あたりにては正月七日にかざりをとり、けづりかけを十四日までかくる餅花を作り、大神宮歳徳の神夷おの/\餅花一枝づゝ神棚へさゝぐ。その作りやうはみづ木といふ木、あるひは川楊の枝をとり、これに餅を三角又は梅桜の花形に切たるをかの枝にさし、あるひは団子をもまじふ、これを蚕玉といふ。稲穂又は紙にて作りたる金銭、縮あきびとなどはちゞみのひな形を紙にて作り、農家にては木をけづりて鍬鋤のたぐひ農具を小さく作りてもちばなの枝にかくる。すべておのれ/\が家業にあづかるものゝひなかたを掛る、これその業の福をいのるの祝事なり。もちばなを作るはおほかたわかきものゝ手業なり。祝ひとて男女ともうちまじりて声よく田植哥をうたふ、此こゑをきけば夏がこひしく、家の上こす雪のはやくきえよかしとおもふも雪国の人情なり。此餅花は俳諧の古き季寄にもいでたれば二百年来諸国にもあるは勿論なり。ちかごろ江戸には季によらず小児の手遊に作りあきなふときゝつ。
○ 斎の神勧進
我が塩沢近辺の風俗に、正月十五日まへ七八歳より十三四までの男の童ども斎の神勧進といふ事をなす。少し富家の童これをなすには𣖾木を上下より削り掛て鍔の形を作る、これを斗棒といふ。これを二本大小にさし、上下をちやくし、童僕に一升ますをもたせ又はひもありてくびにかくるあり。その中へ五六寸ばかりの木を頭ばかり人形に作り、目鼻をゑがき、二ツつくりて女神男神とし、女神はかしらに綿をきせ、紙にて作りたる衣服に紅にて梅の花などゑがく。男神には烏帽子をきせ、木をけづりかけて髭とす。紙のいふくに若松などゑがく。此二ツをかの升の内におき、斎の神勧進々々とよばゝりありく。敢物の欲にもあらず正月あそびの一ツなり、これ一人のみにあらず、児輩おの/\する事なり。これに与ふるものは切餅あるひは銭も与ふ。又まづしきものゝわらべらは五七人十人余も党をなし、茜木綿の頭巾にあさぎのへりをとりたるをかむり、かの斗棒を一本さし、かの二神を柳こりに入れて首にかけ〽さいの神くわんじん、銭でも金でもくはつ/\とおやれ/\ と門々をおしありく。これに銭をもあたへあるひは濁り酒などのませ、顔に墨をぬりてわらひどよめく、これかならずするならはせなり。又長岡のほとりにてはかの斗棒のけづりかけの三尺ばかりなるに、宝づくしなどゑがきたるをさして勧進す、これは小児にあらず、大人のいやしきがわざなり。勧進のことばに「ぜにでもかねでもおいやれ、らいねんの春は娵でも聟でもとるやうに、泉のすみからわくやうに、すつくらすわいとおいやれ/\」かくして勧進の銭をあつめて斎の神を祭る入用とするなり。さいの神のまつり下にしるす又去年むこよめをむかへたる家の門に、未明よりわらべども大勢あつまり、かの斗棒をもつて門戸を敲き、よめをだせむこをだせと同音によばゝりたゝく。これを里俗の祝事とすればいかる家なく、小どもを入れて物などくはするもあり、かゝる俗習他国にもあまたあるべし。
○さて此事たあいもなき小どものたはむれとのみおもひすぐししに、醒斎京伝翁が骨董集を読て本拠ある事を発明せり。骨董集上編下、粥の木の条に、○粥杖○祝木○ほいたけ棒といふ物、前にいひし斗棒に同じ。京伝翁の説に、粥の木とは正月十五日粥を烹たる薪を杖とし、子もたぬ女のしりをうてば男子をはらむといふ祝ひ事なりとて、○枕の草紙○狭衣○弁内侍の日記その外くさ/\の書を引て、上代の宮裏近古の市中粥杖の事を挙て、考証甚詳なり。今我が郡にいふ斗棒は則いにしへの粥杖の遺風なる事を発明せり、我国にも祝木あるひは御祝棒といふ所もあり。これ七八百年前より正月十五日にする事、京伝翁が引れたる書にてしらるゝなり。その引書の中にも明人の作「日本風土記」にあるはもつとも我国のによく似たり、此書は今より三百年ばかりいぜんの日本の風俗を明人が聞つたへて書たるものなれば、今我国にて小童のたはむれにするも三百年ばかりさきの風俗遠境にもうつりのこりたるなるべし。京伝翁が引たる日本風土記巻の二時令の部とあり、漢文のまゝを引たれどこゝにはかなをまじふに「但街道郷村の児童年十五八九已上に及ぶ者、各柳の枝を取り皮を去り木刀に彫成なし、皮を以復外刀上に纏ひ用火焼黒め皮を去り以黒白の花を分つ、名づけて荷花蘭蜜といふ。再荊棘の条を取香花神前に挿供。次に集る各童手に木刀を執途に隊閙、凡有婚无子の婦木刀を将て遍身打之口に荷花蘭蜜と舎ふ。かならず此婦当年孕男を生」我国にて児童等が人の門を斗棒にてたゝき、娵をだせ聟をだせとのゝしりさわぐは、右の風土記の俗習の遺事なるべし。
百樹案に、件の風土記に再び荊棘の条を取り香花神前に挿といひしは、餅花を神棚へ供ずる事を聞て粥杖の事と混錯して記したるなるべし。然りとすれば餅花も古き祝事なり。
○ 斎の神の祭
吾が国正月十五日に斎の神のまつりといふは所謂左義長なり。唐土に爆竹といふ唐人除夜の詩に、竹爆千門の响燈燃万戸明なりの句あれば、爆竹は大晦日にする事なり。吾朝にては正月十五日、 清涼殿の御庭にて青竹を焼き正月の書始を此火に焼て天に奉るの義とす。十八日にも又竹をかざり扇を結びつけ同じ御庭にて燃し玉ふを祝事とせさせ玉ふ。民間にもこれを学びて正月十五日正月にかざりたるものをあつめて燃す、これ左義長とて昔よりする事なり。これを斎の神祭りといふも古き事なり。爆竹左義長の故事俳諧の季寄年浪草に諸書を引てくはしくいへり。
○吾が郡中にて小千谷といふ所は人家千戸にあまる饒地なり、それゆゑに斎の神の斎あるひは幸ともまつりも盛大なり。これをまつるにその町々におの/\毎年さだめの場所ありてその所の雪をふみかため、さしわたし三間ばかりに周したる高さ六七尺の円き壇を雪にて作り、これに二処の上り階を作る、これも雪にてする、里俗呼で城といふ。さて壇の中央に杉のなま木をたてゝ柱とし、正月かざりたるものなにくれとなくこの柱にむすびつけ又は積あげて、七五三をもつて上よりむすびめぐらして蓑のごとくになし、かやをまじへ入れてかたちをつくる此頂に大根注連といふものゝ左右に開たる扇をつけて飛鳥の状を作りつける。壇の上には席をまうけて神酒をそなへ、此町の長たるもの礼服をつけて拝をなし、所繁昌の幸福をいのる。此事をはればきよめたる火を四隅より移す、油滓など火のうつり易きやうになしおくゆゑ煓々熾々と然あがる、此火にて餅をやきてくらふ、病をのぞくといふ世にふるくありし事なり是則爆竹左義長なり。他国にてもする事なり。或人の話に、此事百余年前までは江戸にもありしが、火災をはゞかるために禁下てやみたりとぞ。
○さて又おんべといふ物を作りてこの左義長に翳て火をうつらせ焼を祝事とす、おんべは御幣の訛言なり。その作りやうは白紙と色かみとを数百枚つきあはせたるを細き幣束のやうにきりさげ、すゑに扇の地紙の形をきりのこす、これを数千あつめて青竹にくゝしくだす。大小長短は作る家の意にまかせ、大なるを以て人に誇る。棹の末にひらき扇四ツをよせて扇には家の紋などいろどりゑがく、いろ紙にて作るものゆゑ甚だ美事なり。これを作りてまづおのれ/\が門へ建おく事五月の幟のあつかひなり。十五日にいたりてかの場所へもちゆき、左義長にかざして焼捨るを祝ひとし慰とす。観る人群をなすは勿論、事をはりてはこゝかしこにて喜酒の宴をひらく。これみな 国君盛徳の余沢なり。他所にも左義長あれどもまづは小千谷を盛大とす。
百樹曰、余京水をしたがへて越後に遊びし時、此小千谷の人岩淵氏牧之老人の親族なりの家に笻をとゞめたる事十四日、八月なりあるじの嗣子廿四五許、号を岩居といふ、書をよくす。余に遇せしこと甚篤。小千谷は北越の一市会、商家鱗次として百物備ざることなし。海を去る事僅に七里ゆゑに魚類に乏しからず。余塩沢にありしは四十余日、其地海に遠くして夏は海魚に乏しく、江戸者の口に魚肉の上らざりし事四十余日、小千谷にいたりてはじめて生鯛を喰せしに美味なりし事いふべからず。又鮏の時節にて、小千谷の前川は海に朝するの大河なれば今捕しをすぐに庖丁す。味はひ江戸にまされり。一日鮏をてんぷらといふ物にしていだせり。余岩居にむかひ、これは此地にては名を何とよぶぞと問ひしに、岩居これはテンプラといふなり、我としごろ此物の名義暁しがたく、古老にたづねたれどもしる人さらになし、先生の説をきかんといふ。余答てまづ食終てテンプラの来由を語べしといひつゝ鮏のてんぷらを飽までに喰せり。
○ てんぷらの説 ○ 煉羊羹の起原
岩居に語て曰、今をさる事五十余年前天明の初年大阪にて家僕四五人もつかふほどの次男年廿七八ばかり利助といふもの、その身よりとしの二ツもうへの哥妓をつれて出奔し、江戸に下り余が家の京橋南街第一衖対ひの裏屋に住しに、一日事の序によりて余が家に来りしより常に出入して家僕のやうに使などさせけるに、花柳に身を果したるものゆゑはなしもおもしろく才もありてよく用を弁ずるゆゑ、をしき人に銭がなしとて亡兄もたはむれいはれき。ある日利助いふやう、江戸には胡麻揚の辻売多し、大阪にてはつけあげといふ魚肉のつけあげはうまきものなり、江戸にはいまだ魚のつけあげを夜みせにうる人なし、われこれをうらんとおもふはいかん。亡兄京伝いはく、それはよきおもひつきなりまづこゝろむべしとて俄に調じさせしに、いかにも美味なり。利助いはく、これを夜みせの辻にうらんにその行灯に魚のごまあげとしるさんもなにとやらまはりどほし、なにとか名をつけて玉はれと乞ひければ、亡兄しばらくしあんして筆をとり天麩羅とかきてみせければ、利助不審の㒵をなし天麩羅とはいかなる所謂にかといふ。亡兄うちゑみつゝ足下は今天竺浪人なり、ぶらりと江戸へきたりて売創る物ゆゑに天ふらなり、是に麩羅といふ字を下したるは麩は小麦の粉にてつくる、羅はうすものとよむ字なり。小麦の粉のうすものをかけたといふ㕝なりと戯言云れければ、利助も洒落たる男ゆゑ、天竺浪人のぶらつきゆゑ天ふらはおもしろしと大によろこび、やがて此店をいたす時あんどんを持きたりて字をこひしゆゑ、余がをさなき時天麩羅と大書して与へしに此てんぷら一ツ四銭にて毎夜うりきるゝ程なり。さて一月もたゝざるうちに近辺所々にてんぷらの夜みせいで、今は天麩羅の名油のごとく世上に伝染わたり、此小千谷までもてんぷらの名をよぶ事一奇事といふべし。されども京伝翁が名づけ親にて利助が売はじめたりとはいかなる碩学鴻儒の大先生もしるべからず。てんぷらの講釈するは天下に我一人なりとたはむれければ、岩居も手をうちて笑ひけり。
○先年此てんぷらの話を友人静廬翁に語りしに翁は和漢の博達時鳴の聞人なり翁曰、事物紺珠明人黄一正作廿四巻夷食の部にてんぷらに似たる名ありきといはれしゆゑ、其書を借りえてよみしに、○塔不剌とありて注に○葱○椒○油○醤を熬、後より鴨或は雞○鵞をいれ、慢火にて養熟とあり。蟹をあぶらげにするも見えたり。
○さて天麩羅の播布に類せる事あり、因に記す。○橘菴漫筆に享和元年京の田仲宣作「京師下河原に佐野屋嘉兵衛といふもの、享保年中長崎より上京して初て大碗十二の食卓を料理して弘めける。是京師浪花に食卓料理の初とかや。嘉兵衛娘はんといへるもの老婆となりて近頃まで存命せり、則今の佐野屋祖なり。大坂にてかれこれ食卓料理あまた弘りたれど野堂町の貴徳斎ほど久しくつゞきたるはなし」岩居がてんぷらをふるまひたる夜その友蓉岳来り、桜屋といふ菓子や余が酒をこのまざるを聞て家製なりとて煉羊羹を恵ぬ、味ひ江戸に同じ。余越後にねりやうかんを賞味して大に感嘆し、岩居に謂曰、此ねりやうかんも近年のものなり、常のやうかんにくらぶれば味ひまされり。吾がをさなきころは常のやうかんすらいやしきものゝ口には入らざりしに、江戸をさる事遠き此地にも出来逢のねりやうかんあるは実に大平の徳化なりといひしに、蓉岳も書画をよくし文事もありて好事ものなればこれをきゝてひざをすゝめ、菓子は吾が家産なり、ねりやうかんを近来のものといふ由来を示し玉へといふ。余かたりていはく、○寛政のはじめ江戸日本橋通一町目よこ町字を式部小路といふ所に喜太郎とて夫婦に丁稚ひとりをつかひ菓子屋とは見えぬ𥴩子造にかんばんもかけず、此喜太郎いぜんは 貴重の御菓子を調進する家の菓子杜氏なるよし。奉公をやめてこゝに住し、極製の菓子ばかりをせいして茶人又は富家のみへあきなひけり。さて此者が工風とてはじめて煉羊羹と名づけてうりけるに羊羹本字は羊肝なる事芸苑日鈔にいへり喜太郎がねりやうかんとて人々めづらしがりてもてはやしぬ。しかれども一人一手にてせいするゆゑ、けふはうりきらしたりとてつかひの重箱空しくかへる事度々なり、これ余が目前したる所なり。かくて一二年の間に菓子や二軒にて喜太郎をまねてねりやうかんをせいし、それもめづらしかりしに今は江戸の菓子やはさらなり、迫々弘り此小千谷にもあれば此国に市会をなす所にはかならずあるべく又諸国にもあるべしといひければ、蓉岳わらつて小倉羹もあり八重なりかんもあり、あすはまゐらすべしといへり。これらの事雪譜の名には似気なき弁なれど本文小千谷のはなしにおもひいだしたれば人の話柄に記せり。なほ近古食類の起原さま/″\あれど余が食物沿革考に上古より挙てしるしたればこゝにはもらせり。
○ 雪中の狼
初編にもしるしたるごとく、我国の獣冬にいたれば山を踰て雪浅国へさる、これ雪ふかくして食にとぼしきゆゑなり。春にいたればもとの棲へかへる。されども雪いまだきえざるゆゑ食にたらず、をりふしは夜中人家にちかより犬などとり、又人にかゝる事もあり、これ山村の事なり。里には人多きゆゑおそれてきたらざるにや。雪中に穴居するは熊のみなり。熊は手に山蟻をすりつけ、これをなめて穴居の食とするよしいひつたふ。
○こゝに我郡中の山村に不祥のことなれば地名人名をはぶくまづしき農夫ありけり、老母と妻と十三の女子七ツの男子あり。此農夫性質篤実にしてよく母につかふ。ひとゝせ二月のはじめ、用ありて二里ばかりの所へいたらんとす、みな山道なり。母いはく、山なかなれば用心なり、筒をもてといふ、実にもとて鉄炮をもちゆきけり。これは農業のかたはら猟をもなすゆゑに国許の筒なり。かくてはからず時をうつし日も暮かゝる皈りみち、やがて吾が村へ入らんとする雪の山蔭に狼物を喰ふを見つけ、矢頃にねらひより火蓋をきりしにあやまたずうちおとしぬ。ちかよりみればくらひゐたるは人の足なり。農夫大におどろき、さては村ちかくきつるならんと我家をきづかひ狼はそのまゝにしてはせかへりしに、家のまへの雪の白きに血のくれなゐをそめけり。みるよります/\おどろきはせいりければ狼二疋逃さりけり、あたりをみれば母はゐろりのまへにこゝかしこくひちらされ、片足はくひとられてしゝゐたり。妻は囱のもとに喰伏られあけにそみ、そのかたはらにはちゞみの糸などふみちらしたるさまなり。七ツの男の子は庭にありてかばね半ば喰れたり。妻はすこしいきありて夫をみるよりおきあがらんとしてちからおよばず、狼がといひしばかりにてたふれしゝけり。農夫はゆめともうつゝともわきまへず鉄炮もちて立あがりしが、さるにても娘はとてなきごゑによびければ、床の下よりはひいで親にすがりつきこゑをあげてなく、おやもむすめをいだきてなきけり。山家は住居もこゝかしこはなれあるものゆゑ、これらの事をしるものもなかりけり。農夫は時の間に六十の母、三十の妻、七ツの子を狼の牙にころされ、歯がみをなして口をしがり、親子ふたり、くりこといひつゝ声をあげてなきゐたり。村のものやう/\にきゝつけきたり此体をみておどろきさけびければ、おひ/\あつまりきたり娘にやうすをたづねければ、囱をやぶりて狼三疋はせいりしが、わしは竈に火をたきてゐたりしゆゑすぐに床の下へにげ入り、ばゞさまと母さまとおとがなくこゑをきゝて念仏申てゐたりといふ。かくて此ありさまをいふべき所へつげしらせ、次の日の夕ぐれ棺一ツに妻と童ををさめ、母の棺と二ツ野辺おくりをなしけるに涙そゝがざるものはなかりけるとぞ。おもふにはゝが筒をもてといひしゆゑ、母の片足を雪の山蔭にくらひゐたる狼をうちおとして母の敵はとりたれど、二疋をもらししはいかに口惜かりけん。これよりのち此農夫家を棄、娘をつれて順礼にいでけり。ちかき事なれば人のよくしれるはなしなり。
百樹曰、日本の狼は幻化事をきかず、唐土の狼はばけること老狐にことならず。宋人李昉等が太平広記畜獣の部に四百四十二巻狼美人に幻化して少年と通じ、あるひは人の母にばけて年七十になりてはじめてばけをあらはして逃さり、又は人の父を喰殺してその父にばけて年を歴たるに、一日その子山に入りて桑を採るに、狼きたりて人の如く立其裾を銜たるゆゑ斧にて狼の額を斫、狼にげ去りしゆゑ家にかへりしに、父の額に傷の痕あるを視て狼なることをさとり、これを殺すに果して老狼なり。親をころしたるゆゑ自県にいたりて事の由をつげたる事など○広異記○宣室志を引てしるせり。悍悪の事に狼の字をいふもの○残忍なるを豺狼の心といひ○声のおそろしきを狼声といひ○毒の甚しきを狼毒といひ○事の猥を狼々○反相ある人を狼顧○義无を中山狼○恣に食を狼飡○病烈を狼疾といひ○狼藉○狼戻○狼狽など、皆彼に譬て是をいふなり。文海披沙されば獣中最可悪は狼なり。余竊に以為、狼は狼にして狼なれども、人にして狼なるはよく狼をかくすゆゑ、狼なるをみせず。これが為に狼毒をうくる人あり。人の狼なるは狼の狼なるよりも可惧可悪。篤実を外面とし、奸慾を内心とするを狼者といひ、娵を悍戻を狼老婆といふ。巧に狼心をかくすとも識者の心眼は明鏡なり。おほかみ/\惧ざらんや恥ざらんや。
北越雪譜中巻 終
北越雪譜二編 巻三
越後塩沢 鈴木牧之 編選
江戸 京山人百樹 増修
○ 鳥追櫓
農家市中正月の行事に鳥追といふ事あり。此事諸国にもあれば、其なす処其国によりてさま/″\なる事は諸書に散見せり。江戸の鳥追といふは非人の婦女音曲するを女太夫とて木綿の衣服をうつくしく着なし、顔を粧ひ、編笠をかむり、三弦に胡弓などをあはせ、賀唱をおもしろくうたひ、門々に立て銭を乞ふ。此事元日よりはじめ、松の内をかぎりとす、松すぎてもありく所もありとぞ。我越後には小正月の小正月とは正月十五日以下をいふはじめ鳥追櫓とて去年より取除おきたる山なす雪の上に、雪を以て高さ八九尺あるひは一丈余にも、高さに応じて末を広く雪にて櫓を築立、これに登るべき階をも雪にて作り、頂を平坦になし松竹を四隅に立、しめを張わたす広さは心にまかす内には居るべきやうにむしろをしきならべ、小童等こゝにありて物を喰ひなどして遊び、鳥追哥をうたふ。その一ツに「あのとりや、どこからおつてきた、しなぬのくにからおつてきた。なにをもつておつてきた、しばをぬくべておつてきた、しばのとりもかばのとりも、たちやがれほい/\引」おらがうらのさなへだのとりは、おつても/\すゞめすはどり鳩」の注記]たちやがれほい/\引」あるひはかの掘揚雪をすてゝ山をなす所の上に雪を以て四方なる堂を作りたて、雪にて物をおくべき棚をもつくり、むしろをしきつらね、なべ・やくわん・ぜん・わん抔此雪の棚におき、物を煮焼し、濁酒などのみ、小童大勢雪の堂にいきんだうと云遊び、同音に鳥追哥をうたひ、終日こゝにゆきゝして遊びくらす。これ暖国にはなき正月あそびなり。此鳥追櫓宿内にいくつとなく作り党をなしてあそぶ。
○ 雪霜
前にもしば/\いへるごとく、北国中にして越後は第一の雪国なり。その中にも魚沼・古志・頸城の三郡を大雪とす。毎年一丈以上の雪中に冬をなせども寒気は江戸にさまでかはる㕝なしと、江戸に寒中せし人いへり。五雑組にいへる霜は露のむすぶ所にして陰なり、雪は雲のなす所にして陽なりとはむべなり。かゝる雪中なれども夏の儲に蒔たる野菜のるゐも雪の下に萌いでゝ、その用をなす㕝おそきとはやきのたがひはあれども暖国にかはる㕝なし。その遅きとは三月にはじめて梅の花を見、五月の瓜・茄子を初物とす。山中にいたりては山桜のさかり四月のすゑ五月にいたる所もあるなり。
○ 地獄谷の火
此書の前編上の巻雪中の火といふ条に、六日町の魚沼郡西の山手に地中より火の燃る事をしるせしが、地獄谷の火の㕝をもらせしゆゑこゝにしるす。○およそ我越後に名高く七不思議にかぞへいふ蒲原郡如法寺村百姓荘右エ門七兵衛孫六が家にも地火ありが家にある地中より燃る火は、普く人の知る所なれども、其火よりも盛大なるは魚沼郡のうち、かの小千谷の在地獄谷の火なり。唐土に是を火井といふ。近来此地獄谷に家を作り、地火を以て湯を燂し、客を待て浴さしむ、夏秋のはじめまでは遊客多し。此火井他国にはきかず、たゞ越後に多し。先年蒲原郡の内或家にて井を掘しに、其夜医師来りて井を掘し㕝を聞、家に皈る時挑灯を井の中へ入れそのあかしにて井を見て立さりしに、井中より俄に火をいだし火勢さかんに燃あがりければ近隣のものども火事なりとしてはせつけ、井中より火のもゆるを見て此井を掘しゆゑ此火ありとて村のものども口々に主人を罵り恨みければ、主人も此火をおそれて埋けるとぞ。此地火一に陰火といふ。かの如法寺村の陰火も微風の気いづるに発燭の火をかざせば風気手に応じて燃る、陽火を得ざれば燃ず。寛文のむかし荘右エ門が如法寺村庭にて韛をつかひたる時より燃はじめしとぞ。前にいふ井中の火も医者が挑灯を井の中へさげしゆゑその陽火にてもえいだしたるなるべし。
●さて又頸城郡の海辺に能生宿といふは北陸道の官路なり、此宿より山手に入る㕝二里ばかりに間瀬口といふ村あり、こゝの農家に地火をいだす㕝如法寺村の地火に同じとぞ。此ほとり用水に乏しき所にては、旱のをりは山に就て井を横に掘て水を得る㕝あり、ある時井を掘て横にいたりし時穴の闇きをてらすために炬を用ひけるに、陽火を得て陰火忽ち然あがり、人是が為に焼死しけるとぞ。是等の㕝どもをおもひはかるに、越後のうちには地火をいだす火脉の地多く、いまだ陽火を得ずして発せざるも多かるべし。
百樹曰、余小千谷にありし時岩居余に地獄谷の火を見せんとて、社友五人を伴ひ用意の酒食を奚奴二人に荷しめ、余与京水と同行十人小千谷をはなれて西の方●新保村●薮川新田などいふ村々を歴て一宮といふ村にいたる、山間の篆畦曲節て茲に抵る行程一里半可なり。是日はことに快晴して村落の秋景百逞目を奪ふ。さて平山一ツを踰て坡あり、則地獄谷へいたるの径なり。坡の上より目を下せば一ツの茅屋あり、是本文にいへる混堂なり。人々坡の半にいたりし時、茅屋の楼上に四五人の美婦あらはれ、おの/\檻によりて、遙にこの人々を指もあり、あるひは笑ひ、あるひは名をよび、あるひは手をうちたゝき、あるひは手をあげてまねく。四面皆山にて老樹欝然として翳塞の中に個美人を見ること愕然し、是狸にあらずんばかならず狐ならんといひければ、岩居友だちと相顧、手を拍て笑ふ。これは小千谷の下た町といふ所の酒楼に居る酌採の哥妓どもなり、岩居朋友と計りて竊に此に招おきて余に興させん為とぞ。渠は狐にあらずして岩居に魅されたるなり。已に地獄谷にくだり皆楼にのぼれり。岩居は余と京水とを伴ひてかの火を視せしむ。
●そも/\茲谷は山桜多かりしゆゑ桜谷とよびけるを、地火あるをもつて四方四五十歩六尺を歩といふをひらきて平坦の地となし、地火を借りて浴室となし、人の遊ぶ所とせしとぞ。桜谷とよびたる処地火のために地獄とよばるゝこと、花はさぞかし薀憤かるべし。
●さてその火を視るに、一ツの浅き井を作りたるその井中より火の燃る事常の湯屋の火よりも盛なり。上に釜あり一間四方の湯槽あり、細き筧ありて后の山の清水を引き湯槽におとす。湯は槽の四方に溢れおつ、こゝをもつて此湯温からず熱からず、天工の地火尽る時なければ人作の湯も尽る期なし、見るにも清潔なる事いふべからず。此混堂に続きて厨処あり、灶にも穴ありて地火を引て物を烹薪に同じ。次に中の間あり、床の下より竹筩を出し、口には一寸ばかり銅を鉗て火を出さしむ。上より自在をさげ、此火に酒の燗をなしあるひは茶を煎、夜は燈火とす。さて熟此火を視るに、筩をはなるゝこと一寸ばかりの上に燃る、扇にあふげば陽火のごとくに消る。筩の口に手をあてゝこゝろむるに少しく風をうくるのみ。発燭の火を翳せば忽然としてもゆることはじめの如し。主の翁が曰、この火夜は昼よりも燥烈く、人の顔青くみゆるといへり。翁が妻水のうちよりもゆる火を見せ申さんとて、混堂のうしろに僅の山田ある所にいたり、田の水の中に少し湧ところあるにつけぎの火をかざししに、水中の火蝋燭のもゆるが如し。老婆がいはく、此火のやうにもゆる処ほかにもあり、夜にいればこと/″\く火をもやすゆゑ獣きたらずといへり。余が江戸の目には視る所こと/″\く奇妙なり。唐土には此火を火井とて、博物志或は瑯瑘代酔に見えたる雲台山の火井も此地獄谷の火のごとくなれども、事の洪大なるは此谷の火に勝らず。唐土と日本とをおつからめて火井の最第一といふべし、是を見たる事越遊の一奇観なり。唐土に火井の在る所北の蜀地に属す、日の本の火井も北の越後に在り、自然の地勢によるやらん。
●さて一人の哥妓梯上にいでゝしきりに岩居を呼ぶ、よばれて楼にのぼれり。余は京水とゝもに此湯に浴す、楼上には早く三弦をひゞかせり。浴しをはりて楼にのぼれば、既に杯盤狼藉たり。嬋娟哥妓袖をつらね、素手弄糸朱唇謡曲迦陵頻伽の声、外面如𦬇の色興を添れば、地獄谷遽然極楽世界となれり。此妓どもを養ふ主人もこゝに来り居て、従る料理人に具したる魚菜を調味させてさらに宴を開く。是主人俗中に雅を挾で恒に文人を推慕ゆゑに、是日もこゝに来りて余に面識するを岩居に約せしとぞ。此人䶕なるゆゑ自ら双坡楼と家号す、その滑稽此一をもつて知るべし。飄逸洒落にしてよく人に愛せらる、家の前後に坡ありとぞ、双坡の字下し得て妙なり。双坡楼扇をいだして余に句を乞ふ、妓も持たる扇を出す。京水画をなし、余即興を書す。これを見て岩居をはじめおの/\壁に句を題し、更に風雅の興をもなしけり。
●かくてやゝ日も傾きければ帰路を促しけるに、哥妓どもは草鞋にて来りしとてそれはわしがのなり、これはあれはとはきすてたるを争ふてはきいづる、みな酔興なれば噪閙して途を行く。細流ある所にいたれば紅唇粉面の哥妓紅裩を褰て渉る、花姿柳腰の美人等わらじをはいて水をわたるなど余が江戸の目には最珍らしく興あり。酔客ぢんくをうたへば酔妓歩々躍る。古縄を蛇とし駭せば、おどされたる妓愕して片足泥田へふみいれしを衆人辴然す。此途は凡て農業の通路なれば憇ふべき茶店もなく、半途に至りて古き社に入りてやすらふ。一妓社の后に入りて立かへり石の水盤の涸たる水を僅に掬、手を洗ひしは私に去りしならん。そのまゝ樹下に立せ玉ふ石地蔵𦬇の前に並びたちながら、懐中より鏡を出して鉛粉のところはげたるをつくろひ、唇紅などさして粧をなす、これらの粧具をかりに石仏の頭に置く。外面女𦬇内心如夜叉のいましめもあれば、𦬇はなにとやおもひ玉ふらんともつたいなし。日も已に下晡なればおの/\あしをすゝめて小千谷へかへりき。此紀行別に一本あり、吾が北越旅談にをさむ。
○ 越後の人物
板額女は加治明神山の城主長太郎祐森が室、古志郡の産なり。又三歳の小児も知れる酒顛童子は蒲原郡沙子塚村の産、今猶屋敷跡あり。始は雲上山国上寺の行法印の弟子なり。玄翁和尚は伊夜彦山の麓箭矧村の産なり。近世にいたりて徳僧高儒和哥書画の人なきにしもあらざれども、遠く四方に雷名せるはすくなし。画人呉俊明のち江戸にいでしゆゑ名をなせり近年相撲に越海・鷲ヶ浜は新潟の産、九紋竜は高田今町の産、関戸は次第浜の産也。常人にて力士の聞えありしは頸城郡の中野善右エ門、立石村の長兵衛、蒲原郡三条の三五右エ門、是等無双の大力にて人の知る所なり。又鎧潟に近き横戸村の長徳寺、谷根村の行光寺も怪力のきこえたかし。此人々はいづれも独して鐘を軽く掛はづしするほどの力は有し人々なり。又孝子にはむかしは村上小次郎、新発田の菊女、頸城郡の僧知良、近くは三嶋郡村田村の百合女百姓伊兵衛がむすめ新発田荒川村門左エ門百姓丑之介がせがれ塚原の豆腐売春松鎌介がせがれ蒲原郡釈迦塚村百姓新六、いづれも孝子の名一国に高かりき。今存在するもありとかや。
百樹曰、余越後にいたらば板額あるひは酒顛童子の旧跡をもたづね、新潟をも一覧なし、名の聞えたる神仏をもをがみたてまつり、寺泊にのこる 順徳帝の鳳跡、義経、夢囱国師、法然上人、日蓮上人、為兼卿、遊女初君等の古跡もたづねばやとおもひしに、越後に入りてのち気運順を失ひ、年稍倹して穀の価日々に躍、人気穏ならず。心帰家にありて風雅をうしなひ、古跡をも空しく過り、惟平々たる旅人となりて、きゝおよびたる文雅の人をも剌問ざりしは今に遺憾なり。嗟乎年の倹せしをいかんせん。
○ 無縫塔
蒲原郡村松より東一里来迎村に寺あり、永谷寺といふ曹洞宗なり。此寺の近くに川あり、早出川といふ。寺より八町ばかり下に観音堂あり、その下を流るゝ所を東光が淵といふ。永谷寺へ入院の住職あれば此淵へ血脉を投げ入るゝ事先例なり。さて此永谷寺の住職遷化の前年、此淵より墓の石になるべき円き自然石を一ツ岸に出す、是を無縫塔と名づけつたふ。此石出ればその翌年には必ず住職病死する事むかしより今にいたりて一度も違ひたる事なし。此墓石大小によりて住職の心に応ぜず淵へかへせば、その夜淵逆浪して住職のこのむ石を淵に出したる事度々あり。先年凡僧こゝに住職し此石を見て死を惧れ出奔せしに翌年他国にありて病死せしとぞ。おもふに此淵に灵ありて天然の死を示すなるべし。友人北洋主人蒲原郡見附の旧家、文をこのみ書をよくす件の寺を覧たる話に、本堂間口十間、右に庫裏、左に八間に五間の禅堂あり、本堂にいたる阪の左りに鐘楼あり、禅堂のうしろに蓮池あり。上に坂あり、登りて住職の墓所あり。かの淵より出したる円石を人作の石の台の脚あるにのせて墓とす。中央なるを開山とし、左右に次第して廿三基あり。大なるは径り一尺二三寸ばかり、八九寸六七寸なるもあり、大小は和尚の徳に応ずといひつたふとぞ。台の高さはいづれも一尺ばかりなりと語られき。かの淵に灵ありといふは、むかし永光寺のほとりに貴人何某住玉ひしに、その内室色情の妬にて夫をうらみ、東光が淵に身を沈め、冤魂悪竜となりて人をなやまししを、永光寺の開山名をきゝもらせり血脉をかの淵にしづめて化度し玉ひしゆゑ悪竜得脱なし、その礼とてかの墓石を淵にいだして死期を示す。是以今にいたりても入院の時は淵に血脉を沈むと寺説につたふとぞ。
○さてまた我が隣国信濃にも無縫塔の事あり。近江の石亭が雲根志にいはく前編灵異之部信濃国高井郡渋湯村横井温泉寺の前に星河とて幅三町ばかりの大河あり、温泉寺の住僧遷化の前年に、此河中へ何方よりともなく、高さ二尺ばかりなる自然石の方にしてうつくしき石塔一ツ流れきたる、実に彫刻せるごとくにて天然の物なり。此石出ると土民ども温泉寺へしらせる事なり、きはめて翌年住僧遷化なり、則しるしに此石を立る。九代以前より始りしが代々九代の石塔、同石同様にて少しも違はず並びあり。或年の住僧此塔の出たる時天を拝していのる、我法華千部読経の願あり、今一年にして満り、何とぞ命を今一年延し玉へと念じて、かの塔を川中の淵に投こみたり。何事もなく一年すぎて千部読経のすみし月に件の石又川中にあらはるゝ、其翌年はたして遷化なりと。その次の住僧塔のいでたる時何のねがひもなく淵へなげこみたり、幾度なげしづめても其夜そのよにいでたり、翌年病死ありしとぞ。此辺にて是を無帽塔と名づく。以上一条の全文越後に永光寺、信濃に温泉寺、事の相似たる一奇怪といふべし。
○百樹曰、牧之老人が此草稿を視て無縫塔の縫の字義通じがたく誤字にやとて郵示して問ひければ、無縫塔と書伝たるよしいひこしぬ。雲根志には無帽塔とあり、無帽の字も又通じがたし。おそらくは無望塔にやあらん。住僧の心には死がいやさに無望塔なるべし。こゝに無稽の一笑を記して博識の確拠を竢つ。
○ 北高和尚
魚沼郡|雲洞村雲洞庵は越後国四大寺の一なり。四大寺とは滝谷の慈光寺、村松にあり村上の耕雲寺、伊弥彦の指月寺、雲洞村の雲洞庵なり。十三世通天和尚は、 霜台君の謙信の事親藉にて、高徳の聞えは今も口碑にのこれり。 景勝君も此寺に物学び玉ひしとぞ。一国の大寺なれば古文書宝物等も多し、その中に火車落の袈裟といふあり、香染の麻と見ゆるに血の痕のこれり。是を火車落とて宝物とする由来は、むかし天正の頃雲洞庵十世北高和尚といひしは学徳全備の尊者にておはせり。其頃此寺にちかき三郎丸村の農家に死亡のものありしに、時しも冬の雪ふりつゞき雪吹もやまざりければ、三四日は晴をまちて葬式をのばしけるに晴ざりければ、強ていとなみをなし、旦那寺なれば北高和尚をむかへて棺をいだし、親族はさら也人々蓑笠に雪をしのぎて送りゆく。その雪途もやゝ半にいたりし時猛風俄におこり、黒雲空に布満て闇夜のごとく、いづくともなく火の玉飛来り棺の上に覆かゝりし。火の中に尾はふたまたなる稀有の大猫牙をならし鼻をふき棺を目がけてとらんとす。人々これを見て棺を捨、こけつまろびつ逃まどふ。北高和尚はすこしも惧るゝいろなく口に咒文を唱大声一喝し、鉄如意を挙て飛つく大猫の頭をうち玉ひしに、かしらや破れけん血ほどはしりて衣をけがし、妖怪は立地に逃去りければ、風もやみ雪もはれて事なく葬式をいとなみけりと寺の旧記にのこれり。此時めしたるを火車おとしの法衣とて今につたふ。
百樹曰、余越遊して塩沢に在し時、牧之老人に伴れて雲洞庵にいたり、塩沢より一里ばかり庵主にも対話なし、かの火車おとしの袈裟といふ物その外の宝物古文書の類をも一覧せり。いかにも大寺にて祈祷の二字を大書したる竪額は 順徳院の震筆なりとぞ。佐渡へ遷幸のときの震筆なるべし門前に直江山城守の制札あり、放火私伐を禁ずるの文なり。庭中池のほとりに智勇の良将宇佐美駿河守刃死の古墳在りしを、先年牧之老人施主として新に墓碑を建たり。不朽の善行といふべし。本文に火車といふは所謂夜叉なるべし、夜叉の怪は唐土の書にもあまた散見せり。
○ 年賀の哥
余六十一還暦の時年賀の書画を集む。吾国はさらなり、諸国の文人三都の名家妓女俳優来舶清人の一絶をも得たり。みな牧之に贈といふ㕝をしるしたるなり、人より人にもとめて千余幅におよべり、帖となして蔵す。ひとゝせ是を風入れするため舗につゞきたる坐しきの障子をひらき、年賀の帖を披き並べおきたる所へ友人来り、年賀の作意書画の評などかたりゐたるをりしも、順礼の夫婦軒下に我が里言には廊下といふ立けり。吾が家常に草鞋をつくらせおきてかゝる者に施すゆゑ、それをも銭をもあたへしに、此順礼の翁立さらでとりみだしたる年賀の帖を心あるさまに見いれたるが云やう、およばずながらわれらも順礼の腰をれを申さん、たんざく玉はれといふ。乞食のやうなるすがたには似気なきことばのおぼつかなしと思ひながら、短尺すゞりばこいだしければ、
三途川わたしは先へ百年も君がむかひをとゞめ申さん 五放舎
としるしたるふでのはこびも拙からず。年賀にはひとふしかはりたる趣向といひ、順礼に五放舎と戯れたる名もおもしろく、友人と倶におどろき感じ、宿を施行せん、ゆる/\ものがたりせんなど、友人もさま/″\にすゝめたれど、杖をとゞめずして立さりけり。国は西国とばかりいへり、いかなるものにてやありけん。
○ 逃入村の不思議
小千谷より一里あまりの山手に逃入村といふあり、にげ入りを里俗にごろとよぶ此村に大塚小塚とよびて大小二ツの古墳双びあり。所の伝へに大なるを時平の塚とし、小なるを時平の夫人の塚といふ。時平大臣夫婦の塚此地に在べき由縁なきことは論におよばざる俗説なり。しかれども爰に一ツの不思議あり、そのふしぎをおもへば、むかし時平にゆかりの人越後に流されなどして此地に終りたるにやあらん。その不思議といふは、昔より此逃入村の人手習をすれば天満宮の祟ありとて一村の人皆無筆なり。他郷に身を寄て手習すれば祟なし。しかれども村にかへれば日を追て字を忘れ、終には無筆となる。このゆゑに文字の用ある時は他の村の者にたのみて書用を弁ず。又此村の子どもなど江戸土産とて錦絵をもらひたる中に、天満宮の絵あればかならず神の祟りの兆ありし事度々なりしとぞ。さればかの大塚小塚を時平大臣夫婦の古墳なりと古くいひつたふるも何か由縁ある事なるべし。菅家の筑紫にて薨じ玉ひたるは延喜三年二月廿五日なり、今を去る事百樹曰、こゝに今といひしは牧之老人が此したがきしたる文政三年をいふなり九百十五年前なり。今にいたりても神灵の明々たる事おそるべし尊むべし。
さて又これにるゐする事あり、南𧮾が東遊記を見るに、南𧮾東遊して津軽に居たる時、六七日も風雨つゞきしうち、所の役人丹後の人や居ると旅店毎にきびしくたづねしゆゑ、南𧮾あるじにそのゆゑを問ひければ、あるじいふやう、当国岩城は人のしりたる安寿姫対王丸の生国なり、さればむかしの人此御ふたりを岩城山の神にまつりて社今に在り。此兄弟丹後にさまよひ三庄太夫が為に悃苦たるゆゑに丹後の人をいみきらひ、丹後の人此国に入ればかならず大風雨有て日をわたる事むかしよりの事なり。丹後の人此国の堺をいづれば風雨たちまちやむゆゑに、丹後の人や居ると捜すなりといへりと。南𧮾子此事に遇たりとて記せり。右にいふ兄弟の父岩城判官正氏在京の時讒にあひて家の亡びたるは永保年中の事なり、今をさる事およそ七百五十余年也。兄弟の怨魂今に消滅せざる事人知を以論ずべからず。百樹曰、安寿は対王が妻なるよし塩尻廿二巻にいへり、猶考西遊記前編景清が塚は日向にあり、世の知る処なり。其母の塚は肥後国求麻の人吉の城下より五六里ほど東、切幡村にまつる。此所に景清が娘の墳もあり、一村の氏神にまつる、此村かならず盲人を忌む、盲人他処より入れば必祟あり、景清後に盲人になりしゆゑ、母の灵盲人を嫌ふと所の人のいへりと記せり。これらの㕝逃入村の不思議に類せり。しかれども件の二ツは社ありて丹後の人を忌、墓ありて盲人をきらふなり、逃入村は墳あるゆゑに天満宮の神灵此地を忌玉ふならん。こゝをもつて考ふるに、かの古墳はいよ/\時平が血脉の人なるべし。
百樹曰、余越遊して小千谷に在りし時、所の人逃入村の事を語りて、かの古墳を見玉へ案内すべしといひしかど、菅神のいみ玉ふ所へ文墨の者強てゆくべきにもあらねば、話をきゝしのみにてゆかざりき。さて 天神様といへば三歳の小児も尊び、時平ときけば此 御神を讒言したる悪人なりとて、其悪千古に上下して哥舞妓狂言にも作りなし、婦女子も普く知る所なれど、童稚女子はその実跡をしれるが稀なり。さればかゝるはかなき冊子に此 御神の事を記すはいともかしこけれど、逃入村の因によりてこゝに書載す。
○謹で案るに、菅原の本姓は土師なりしが、土師の古人といひしが、 光仁帝の御時、大和国菅原といふ所に住たるゆゑに土師の姓を菅原に改らる。菅神御名は道真、字は三、童名を阿呼と申たてまつる。阿呼の御名に余が考あれども、文長ければこゝにはぶく 仁明帝に仕へ玉ひたる文章博士参議是善卿の第三の御子、承和十二年に生れ玉へり。七歳の時紅梅を御覧じて「梅の花紅脂のいろにぞ似たる哉阿古が顔にもぬるべかりけり」十一の春斉衡二年父君より月下梅といふ詩の題を玉ひたる時即坐に「月輝如晴、雪梅花似照星可憐金鏡転庭上玉房馨」御祖父清公御父是善卿の学業を受嗣玉ひて文芸はさらなり、武事にも疎からずまし/\けり。
○清和天皇の貞観元年御年十五にて御元服、同四年文章生に挙られ、下野の権掾にならせらる。同十四年御年廿八御母伴氏身まかり玉ひ、 陽成天皇の元慶四年八月晦日御父是善卿も身まかり玉へり。御年六十九此時 菅神は御年四十一なり。
○寛平四年御年四十八類聚国史二百巻を撰み玉ふ。和哥は菅家御集一巻、詩文は菅家文草十二巻同後草一巻後草は筑紫にての御作なり今も世に伝ふ。大納言公任卿が朗詠集に入れられたる菅家の詩に「送春不用動舟車唯別残鴬与落花若使韶光知我意今𫕟旅宿在詩家」此御作は 延喜帝いまだ東宮たりし時令旨ありて一時の間に十首の詩を作り玉ひたる其一ツなり。
○さて御若年より数階を歴給ひて後、寛平九年御年五十三権大納言右□将を兼らる。此時時平大納言に任ぜられ左□将を兼、 菅神と並び立て執政たり。此時大臣の官なかりしゆゑ、大納言にて執政たり。此年七月三日 宇多帝御位を太子敦仁親王へ譲り玉ひ朱雀院へ入らせ玉ひ、亭子院と申奉り、御法体ありては 寛平法皇とぞ申奉る。 敦仁親王を 醍醐天皇とも後よりは延喜帝とも申奉る。御年十三年号を昌泰と改元す。同二年時平公左□臣、 菅神右□臣相倶に 帝を補佐し奉らる、時に時平公二十七、 菅神五十四。両公左右の□臣たれども才徳年齢双璧をなさず、故に心齟齬して相和せず。是 菅神の讒毒を得玉ふの張本なり。
○そも/\時平公は大職冠九代の孫照宣公の嫡男にて、代々□臣の家柄なり。しかのみならず延喜帝の皇后の兄なり。このゆゑに若年にして□臣の貴重に職ししなり。此人の乱行の一ツを言ば、叔父たる大納言国経卿は年老、叔母たる北の方は年若く業平の孫女にて絶世の美人なり。時平是に恋々す、夫人もまた夫の老たるを嫌ふの心あり。時平或日国経の許に宴し、酔興にまぎらして夫人を貰はんといひしを、国経も酔たれば戯言とおもひてゆるしけり。さて国経が酔臥たるを見て叔母を車にいだき入れて立かへり、此腹に生れたるを中納言敦忠といふ、時平の不道此一を以て其余を知るべし。かゝる不道の人なれば、 寛平法皇の帝の御父御心には時平の任を除き 菅神御一人に国政をまかせ玉はんとのおぼしめしありしに、延喜元年正月三日、帝亭子院へ朝覲のをりから御内心を示し玉ひしに 帝もこれにしたがひ玉ひ、其日 菅神を亭子院にめして事のよしを内勅ありしに 菅神固辞したまひしに許し玉はざりけり。同月七日従二位にすゝみ玉へり此密事いかにしてか時平公の聞にふれしかば、事に先じて 帝に讒するやうは、君の御弟斉世親王は道真の女を室適して寵遇厚し。是以君を廃して親王を立、国柄を一人の手に握んとの密謀あり 法皇も是に応じ玉ふの風説ありと言を巧に讒しけり。時に 延喜帝御年十七なり。 皇后は時平公の妹なれば内外より讒毒を流して若帝の御心を動し奉りたるなり。
○さて時平が毒奏はやく中りて、同月廿五日左降の宣旨下りて右□臣の職を削り、従二位はもとのごとく太宰権帥とし文官筑紫へ左遷に定め玉へり。 寛平法皇此事を聞しめして大におどろかせ給ひ、御車にもめし玉はず俄に御沓をすゝめ玉ひて清涼殿に立せ玉ひ、斯と申せとおほせありしかども左右の諸陣警固して事を通ぜず、是も時平が讒に一味する菅根の朝臣がはからひとかや。 法皇は草坐玉ひ終日庭上に御し晩にいたりてむなしく本院へ還□玉へり。
○菅神に御子二十三人おはせり。御男子四人は四方へ流れ玉ふ、是も時平が毒舌によれり。姫たちは都にとゞまり幼きはふたり筑紫へしたがへ給へり。年頃愛玉ひたる梅にさへ別れををしみたまひて「東風吹ば匂ひをこせよ梅の花主なしとて春な忘ぞ」此梅つくしへ飛たる事は挙世の知る処なり。又桜を「桜花主を忘れぬものならば吹こん風にことつてはせよ」
○斯て延喜元年辛酉二月朔日京の高辻の御舘をいで玉ひて、津の国須磨の浦に日を移しつくしへ抵りたまへり。やかたをいで玉ひてよりつくしへいたり給ひしまでの事どもを、菅神の筆記せさせ給ひたるを須麻の日記とて今も世にのこれり、一説に偽書といふ。
○筑紫太宰府にて「離家三四月 落涙百千行 万事皆如夢 時々仰彼蒼」御哥に「夕ざれば野にも山にも立烟りなげきよりこそもえまさりけれ」又雨の日に「雨の朝かくるゝ人もなければやきてしぬれ衣ひるよしもなき」ぬれぎぬとは無実のつみにかゝるをいふなり
○つくしにいたり玉ひては不出門行といふ詩を作り玉ひて、寸歩も門外へいで玉はず。是朝廷を尊恐、御身の謫官たるをつゝしみたもふゆゑなり。御句に「都府楼纔看瓦色 観音寺只聴鐘声」
○菅神延喜元年二月朔日都を出玉ひて筑紫へいたり玉ひしは八月なり。是より前の御詩文を菅家文草といひ十二巻左遷より後のを菅家後草とて一巻今も世につたふ。後草に九月十三夜の題にて「去年今夜侍清涼 秋思詩篇独断膓 恩賜御衣今在此 捧持毎日拝余香」此御作に注あり、その趣は、○去年とは昌泰三年なり延喜元年の一年まへ其年の九月十三夜、 清涼殿に侍候ありし時、秋思といふ題を玉はりしに、詩の意にことよせて諫たてまつりしに、其いさめを容玉ひよろこばせ給ひて御衣を賜ひたるを、此配所にもちくだりて毎日御衣にのこりたる余香を拝すと、 帝をしたひ御恩を忘れ玉はざる御心の誠を作り玉ひたるなり。此一詩をもつても無実の流罪に所して露ばかりも帝を恨み玉はざりしを知るべし。朝廷を怨み給ひて魔道に入り、雷公になり玉ひたりといふ妄説は次に弁ずべし。
○高辻の御庭の桜枯たりときゝ玉ひて「梅は飛桜はかるゝ世の中に松ばかりこそつれなかりけれ」
○さて太宰府に謫居し給ふ事三年にして延喜三年正月の頃より 御心例ならず、二月廿五日太宰府に薨じ玉へり、御年五十九。御墓は府にちかき四ツ辻といふ所に定め、 御棺をいだしけるに途中にとゞまりてうごかず、則その所に葬り奉る、今の 神庿是なり。
○延喜五年八月十九日同所安楽寺に始て 菅神の神殿を建らる。味酒の安行といふ人是をうけたまはる。同九年神殿成る。是よりさき四人の御子配流をゆるされ玉ひ、おの/\故の位にかへされ玉ふ。
○神去玉ひしのち水旱風雷の天変しば/\ありて人の心安からず。是ぞ 菅公の祟りなるらんなど風説しけるとかや。
○菅神薨去より七年にあたりて延喜九年四月、左□臣藤原時平公薨ず、歳三十九。又一男八条の大将保忠、その弟中納言敦忠および時平の女、延喜帝の女御なり孫の東宮までも相つゞきて薨ぜらる。又時平の讒毒に荷担したる菅根の朝臣は延喜八年十月死す。これらの事どもをも 菅神の祟なりと世に流布せしは 菅公の冤謫を世の人哀戚きたるゆゑとかや。
○延長元年三月保明太子薨去。時平の孫、まへに東宮といひし是也。
○同年四月廿日贈位正二位本官の右□臣に復し玉ふ。神さり給ひしより二十年。
○一条院の御時正暦四年五月廿一日 菅神に正一位左□臣を贈らる。菅神百年御忌にあたる。
○同年閏十月十九日大政□臣を贈らる。しかれば此 御神の御位は正一位大政□臣としるべし。後年屡神灵の赫々たる徴ありしによりて、 天満宮、或 自在天神の贈称あり。
○そも/\ 醍醐天皇は在位卅二年百廿代の御皇統の中にも殊に御徳達たりしゆゑ、延喜の聖代と称し、御在位の久かりしゆゑ 延喜帝とも申奉る。 御若冠の時とは申ながら、賢者の聞えある重臣の 菅公を時平大臣が一時の讒口を信じ玉ひて其実否をも糺し玉はず、卒尓に菅公を左遷ありしは 御一代の失徳とやいふべき。しかるを 菅神の恨み玉はざりしは配所の詩哥にてもしらる、 菅神はうらみ玉はずとも賢徳忠臣の冤謫を天のいきどほりて水旱風雷の異変、讒者奸人の死亡ありしならん。俗子は是を 菅神の怨灵とするは是又 菅神の賢行に瑾つけるなり。しかれども竊に謂く、賢者は旧悪をおもはずといふも事にこそよれ、冤謫懆愁のあまり讒言の首唱たる時平大臣を肚中に深く恨み玉ひしもしるべからず。本編にいふ逃入村を神の忌玉ふも其徴とするの一ツなるべし。
○神去り玉ひしより廿八年の後延長八年六月二十六日、大雷清涼殿に隕て藤原清貫大納言平稀世右中弁其外侍候の人々雷火に即死す、 延喜帝常寧殿に渡御ありて雷火を避たまふ。是をも 菅神の祟とするはいよ/\非説なりと、安斎先生伊勢平蔵の菅像弁にもいへり。
○太宰府より一里西に天拝山あり。 菅神この山にのぼりて朝廷を怨む告文を天に捧て祈り、雷神となり玉ひしといふは、賢徳の御心をしらざる俗子の妄説を今に伝へたるなり。和漢三才図会にも実しやかに記したるは、不出門行の御作に心を深めざるにやあらん。
○法性坊尊意叡山に在し時 菅神の幽灵来り我冤謫の夙懟を償とす、願くは師の道力をもつて拒ことなかれ。尊意曰、卒土は皆王民なり、我もし 皇の詔をうけ玉はらば避るに所なし。菅神怍色あり、適柘榴を薦、 菅神哺を吐て焔をなし玉ひしといふ故事は、元亨釈書の妄説に起る。此書は今天保十年より五百廿年前元亨二年東福寺の虎関和尚の作なりかゝる奇怪の事を記すは仏者の筆癖なりと、安斎先生もいへり。
○白太夫といふは伊勢渡会の神職 菅神文墨に於格外の懇友なり、ゆゑに北野に祀りて今も社あり。此御神の事を作りたる俗曲に梅王松王桜丸の名はかの梅は飛の御哥によりてまうけたる名なり。
○北野の御社の始は天慶五年六月九日より勅命によりて建創。其起りは西の京七条に住たる文子といふ女に神託ありしによりてなり。北野縁起につまびらかなり。
○世に渡唐の天神といひて唐服に梅花一枝を持玉ふを画く。故事は、仏鑑禅師聖一国師とおくり名す、東福寺の開山国師号の始祖博多に住玉ひたる跡の地中より掘いだしたる石に 菅神の灵唐土へ渡り玉ひて経山寺の無準禅師に聖一国師の師なり法を受玉ひて日本へ帰り玉ひたりと、件の石に彫つけありしと古書に見えたるを拠として、渡唐の 神影を画き伝へたるなり。此事固妄説なりと安斎先生の菅像弁にいへり。菅家聖庿伝暦といふ書の附録に、沙門師嵩が菅神渡唐記あり、其説孟浪に属す。
○菅神左遷の実跡を載たるは、○日本紀略抄録に巻序を失意せり○扶桑略記巻卅三〇日本史百卅三の列伝五十九〇菅家御伝記神統菅原陳経朝臣御作正史によられたれば証とすべし其余虚実混合したる古今の書籍枚挙すべからず。
○本朝文粋に挙たる大江匡衡の文に「天満自在天神或は塩梅於天下輔導一人帝の御こと或日月於天上照臨万民就中文道之大祖風月之本主也」云云。大江家は 菅原家と倶に 朝廷に累世する儒臣なり。しかるに 菅神を崇称たる事件の文の如し。是以凡文道に関者此 御神を崇ざらんや、信ぜざらんや。
○およそ 菅神を祀る社にはおほかたは雷除の護府といふ物あり。此 御神雷の浮名をうけ玉ひたるゆゑ、 神灵雷を忌玉ふゆゑに此まもりかならず験あるべし。
○さて如件条説するは、本編にいへる逃入村の 神灵の事に因て実跡の書どもを摘要して御神の略伝を児曹に示すなり。固不学のすさみなれば要跡の漏たるも説の誤謬たるもあるべし。あなかしこ謹で附記す。
○再按るに、孔子の聖なるもその灵は生る時よりも照然として、その墓十里荊棘を生ぜず、鳥も巣をむすばず。関羽の賢なるも死しては神となりて祈に応ず。是則生は形を以て運り、死ては神を以て運ゆゑなりとかや。文海披沙の説菅神も此論に近し。逃入村の事を以ても千年にちかき神灵の赫々たること仰ぐべし敬ふべし。盖冥々には年月を置ずときけば百年も猶一日の如くなるべし。菅公の神灵にるゐする事和漢に多し、さのみはとこゝにもらせり。
○ 田代の七ツ釜
魚沼郡の官駅十日町の南七里計、妻在庄の山中此へんすべて上つまりといふに田代といふ村あり。村を去事七八町に七ツ釜といふ所あり、里俗滝つぼを釜といふ滝七段あるゆゑに七ツ釜とよびきたれり。銚子の口不動滝などいふも七ツ釜の内にて、妙景奇状筆をもつて云べからず。第七番目の釜の地景を爰に図するをみて其大概をしるべし。此所の絶壁を竪御号横御号といふ、里俗伊勢より御師の持きたるおはらひ箱をおがうさまといふ、此絶壁の石かの箱の状に似たるをもつて斯いふなり。その似たりといふは此ぜつへきの石どもの落てあるを視れば、厚さ六七寸計にして平みあり、長さは三四尺ばかり、長短はひとしからず、石工の作りなしたるが如し。此石数百万を竪に積重ねて、此数十丈の絶壁をなす也。頂は山につゞきて老樹欝然たり、是右の方の竪御がうなり。左りは此石の寸尺にたがはざる石を横に積かさねて数十丈をなす事右に同じ。そのさま人ありて行儀よくつみあげたるごとく寸分の斜なし、天然の奇工奇々妙々不可思議なり。此石の落たるを此田代村の者さま/″\の物に用ふ、片石にても他所に用ふれば祟ありし事度々なりとぞ。余文政三年辰七月二日此七ツ釜の奇景を尋て目撃したるを記す。天の茫々たる他国にも是に似たる所あるべし、姑くその類を示す。
○百樹曰、余仕に在し時同藩の文学関先生の話に、 君侯封内の丹波笹山山に天然に磨の状したる石をつみあげて柱のやうなるを並て絶壁をなし、満山此石ありとかたられき。又西国の山に人の作りたるやうなる磨の状の石を産する所ありと春暉が随筆にて見たる事ありき、今その所をおもひいださず。
○又尾張の名古屋の人吉田重房が著したる筑紫記行巻の九に、但馬国多気郡納屋村より川船にて但馬の温泉に抵る途中を記したる条に曰、○猶舟にのりて行。右の方に愛宕山、宮島村、野上村、石山地名など追続てあり。此石山の川岸に臨れる所に奇しき石あり、其形ち磨磐の如く、上下平にして周は三角四角五角八角等にして、石工の切立し如く、色は青黒し。是を掘出したる跡もありて洞のごとし。天下の広きには珍奇なる事おほきものなりけり云云。是も奇石の一類なれば筆の次にしるしつ。
北越雪譜二編巻之三 終
北越雪譜二編 巻之四
越後 鈴木牧之 編選
江戸 京山人百樹 増修
○ 異獣
魚沼郡堀内より十日町へ越る所七里あまり、村々はあれども山中の間道なり。さてある年の夏のはじめ、十日町のちゞみ問屋ほりの内の問屋へ白縮なにほどいそぎおくるべしといひこしけるゆゑ、その日の昼すぐる頃竹助といふ剛夫をえらみ、荷物をおはせていだしたてけり。かくて途も梢々半にいたるころ、日ざしは七ツにちかし、竹助しばしとてみちのかたはらの石に腰かけ焼飯をくひゐたるに、谷間の根笹をおしわけて来る者あり、ちかくよりたるを見れば猿に似て猿にもあらず。頭の毛長く脊にたれたるが半はしろし、丈は常並の人よりたかく、顔は猿に似て赤からず、眼大にして光りあり。竹助は心剛なる者ゆゑ用心にさしたる山刀を提、よらば斬んと身がまへけるに、此ものはさる気色もなく、竹助が石の上におきたる焼飯に指しくれよと乞ふさまなり。竹助こゝろえて投与へければうれしげにくひけり、是にて竹助心をゆるし又もあたへければ、ちかくよりてくひけり。竹助いふやう、我はほりの内より十日町へゆくものなり、あすはこゝをかへるべし、又やきめしをとらすべし、いそぎのつかひなればゆくぞとて、おろしおきたる荷物をせおはんとせしに、かのもの荷物をとりてかる/″\とかたにかけさきに立てゆく。竹助さてはやきめしの礼にわれをたすくるならんとあとにつきてゆくに、かのものはかたにものなきがごとし。竹助は嶮岨の道もこれがためにやすく、およそ一里半あまりの山みちをこえて池谷村ちかくにいたりし時、荷物をばおろし山へかけのぼる、そのはやき事風の如くなりしと、竹助が十日町の問屋にてくはしく語りしとて今にいひつたふ。是今より四五十年以前の事なり、その頃は山かせぎするものをり/\は此異獣を見たるものもありしとぞ。
○前にいふ池谷村の者の話に、我れ十四五の時村うちの娘に機の上手ありて問屋より名をさしてちゞみをあつらへられ、いまだ雪のきえのこりたる囱のもとに機を織てゐたるに、囱の外に立たるをみれば猿のやうにて顔赤からず、かしらの毛長くたれて人よりは大なるがさしのぞきけり。此時家内の者はみな山かせぎにいでゝむすめ独りなればことさらに惧れおどろき、逃んとすれど機にかゝりたれば腰にまきつけたる物ありて心にまかせず、とかくするうちかのもの立さりけり。やがてかまどのもとに立しきりに飯櫃に指して欲きさまなり、娘此異獣の事をかねて聞たるゆゑ、飯を握りて二ツ三ツあたへければうれしげに持さりけり。そのゝち家に人なき時はをり/\来りて飯を乞ふゆゑ、後には馴ておそろしともおもはずくはせけり。
○さて此娘、 尊用なりとて急のちゞみをおりかけしに、折ふし月水になりて 御機屋に入る事ならず。御機屋の事初編に委しく記せり手を停め居れば日限に後る、娘はさらなり、双親も此事を患ひ歎きけり。月やくより三日にあたる日の夕ぐれ、家内のもの農業よりかへらざるをしりしにや、かのもの久しぶりにてきたれり。娘、人にものいふごとく月やくのうれひをかたりつゝ粟飯をにぎりてあたへければ、れいのごとくすぐに立さらず、しばしものおもふさましてやがてたちさりけり。さて娘は此夜より月やくはたととまりしゆゑ、不思議とおもひながら身をきよめて御機を織果、その父問屋へ持去り、往着しとおもふ頃娘時ならず俄に紅潮になりしゆゑ、さては我が歎しを聞てかのもの我を助しならんと、聞く人々も不思議のおもひをなしけりと語り。そのころは山中にてたまさかに見たるものもあり、一人にても連ある時は形を見せずとぞ。又高田の藩士材用にて樵夫をしたがへ、黒姫山に入り小屋を作りて山に日をうつせし時、猿に似て猿にもあらざる物、夜中小屋に入りて焼火にあたれり。たけは六尺ばかり、赤髪、裸身、通身灰色にて、毛の脱たるに似たり、腰より下に枯草をまとふ。此物よく人のいふことにしたがひて、のちにはよく人に馴しと高田の人のかたりき。按るに和漢三才図会寓類の部に、飛騨美濃あるひは西国の深山にも如件異獣ある事をしるせり。さればいづれの深山にもあるものなるべし。
○ 火浣布
宝暦年中平賀鳩渓源内火浣布を創製し、火浣布考を著し、和漢の古書を引、本朝未曾有の奇工に誇れり。没してのち其術つたはらず、好事家の憾事とす。しかるに我国甞火浣布を作るの石を産す、その在る所は、○金城山○巻機山○苗場山○八海山その外にもあり。その石軟弱して爪をもつても犯すべきほどの軟なる石なり。いろは青く黒し、これをくだけば石綿を出す。此石を得て試みしに、石中に在る石綿といふものは、木綿わたを細く紬たるを二三分ほどにちぎりたるやうなるものなり。是を紡績するに秘術ありて火浣布を造るなり、其秘術を得ば小女子も火浣布を織るべし。
○さて我駅中に稲荷屋喜右エ門といふもの、石綿を紡績する事に千思万慮を費し、竟に自その術を得て火浣布を織いだせり。又其頃我が近村大沢村の医師黒田玄鶴も同じく火浣布を織る術を得たり。各々秘してその術を人に伝へざるに、おなじ時おなじ村つゞきにておなじ火浣布の奇工を得たるも一奇事なり、是文政四五年の間の事なりき。此両人の説をきゝしに力をつくせば一丈以上なるをも織うべし、しかれども其機工容易ならずといへり。平賀源内は織こと五六尺に過ずと火浣布考にいへり。また玄鶴が源内にまさりたる事は、玄鶴は火浣布の外に火浣紙火浣墨の二種を造れり。火浣墨を以て火浣紙に物をかき、烈火にやけて火となりしをしづかにとりいだし、火気さむれば紙も字ももとのごとし。しかれども其実用をいへば、火浣布も火浣紙も火災の供には憑がたし、いかんとなれば、火に遇ば倶に火となり人ありて火中よりいださゞれば火と倶に砕けて形をうしなふ、たゞ灰とならざるのみなり。翫具には用うる所さま/″\あるべし。源内死して奇術絶たりしに件の両人いでゝ火浣布の機術再世にいでしに、嗚呼可惜、此両人も術をつたへずして没したれば火浣布ふたゝび世に絶たり。かの源内は江戸の饒地に火浣布を織しゆゑ其聞え高く、この両人は越後の辟境に火浣布をおりしゆゑ其名低し、ゆゑにこゝにしるして好事家の一話に供す。
○ 弘智法印
弘智法印は児玉氏下総国山桑村の人なり。高野山にありて蜜教を学び、後生国に皈り大浦の蓮花寺に住し、行脚して越後に来り、三嶋郡野積村里言のぞみ海雲山西生寺の東、岩坂といふ所に錫をとゞめて草庵をむすびしに、貞治二年癸卯十月二日此庵に寂せり。辞世とて口碑につたふる哥に「岩坂の主を誰ぞと人問ば墨絵に書し松風の音」遺言なりとて死骸を不埋、今天保九をさる事四百七十七年にいたりて枯骸生るが如し。是を越後廿四奇の一に数ふ。此事雑書に散見すれども図をのせたるものなし、ゆゑに図をこゝにいだす。此図は余先年下越後にあそびし時目撃したる所なり。見る所たゞ面部のみ、手足は見えず。寺法なりとて近く観る事をゆるさず、閉眼皺ありて眠りたるが如し。頭巾法衣はむかしのまゝにはあらざるなるべし。是、他国には聞ざる越後の一奇跡なり。
百樹曰、唐土にも弘智に似たる事あり。唐の世の僧義存没してのち尸を函中に置、毎月其徒これをいだし爪髪の長たるを剪薙常とす。百余年を経ても廃せざりしが、後国のみだれたるに因てこれを火葬せしとぞ。又宋人彭乗が作墨客揮犀に鄂州の僧无夢も尸を不埋、爪髪の長たる義存に同じかりしが、婦人の手に摸られしより爪髪のびざりしとぞ。事は五雑組に記して枯骸の確論あれども、釈氏を詰るに似たる説なればこゝに贅せず。○高僧伝に義存が㕝ありしかと覚しが、さのみはとて詳究せず。
○ 土中の舟
蒲原郡五泉の在一里ばかりに下新田といふ村あり。或年此村の者ども㕝ありて阿加川の岸を掘しに、土中より長さ三間ばかりの船を掘いだせり。全体少しも腐ず、形今の船に異るのみならず、金具を用うべき処みな鯨の髭を用ひて寸鉄をもほどこしたる処なし。木もまた何の木なるを弁ずる者なく、おそらくは異国の船ならんといへりとぞ。余下越後に遊びし時、杉田村小野佐五右エ門が家にてかの船の木にて作りたる硯箱を見しに、木質漢産ともおもはれき。上古漂流の夷船にやあらん。
○ 白烏
前にもいへる如く雪譜と題するものに他事をいふは哥にいふ落題なれど、雪はまた末にいふべし、姑くおもひいだすにまかす。
○天保三年辰四月、我が住塩沢の中町に鍵屋某が家のほとりに喬木あり。此樹に烏巣をむすび、雛梢々頭をいだすころ、巣のうちに白き頭の鳥を見る。主人怪しみ人をして是を捕へしめしに、全身は烏にして白く、觜眼足は赤き烏の雛なり、人々奇として集り観る。主人俄に籠を作らせ心を尽して養ひ、やゝ長じて鳴音も烏に異ならず、我が近隣なれば朝夕これを観たり。奇鳥なれば乞ふ人も多く、江戸へ出して観物にせんなどいひしも有しが、主人をしみてゆるさず。かくて其冬雪中にいたり、山の鼬狐など餌に乏く人家にきたりて食をぬすむ事雪中の常なれば、此ものゝ所為にや、籠はやぶれて白烏は羽ばかり椽の下にありしときゝし。初編に白熊の事を載たるゆゑ、白烏もまたこゝに記しぬ。
○ 両頭の蛇
文政十年亥の八月廿日隣駅六日町の在、余川村の農人太左エ門の軒端に、両頭の蛇いでたるを捕ふ。長さ一尺にたらず、その頭二ツ並びて枝をなすのみ。いろもかたちも常の蛇にかはらず。あるにまかせて古き箱にいれ、餌もいれおきしに、二三日すぎていつ逃ゆきしやあたりをたづねしかどをらざりしとぞ。
○ 浮嶋
小千谷より西一里に芳谷村といふあり、こゝに郡殿の池とて四方二三町斗の池ありて浮嶋十三あり。晴天風なき時日出れば十三の小嶋おの/\離散して池中に遊ぶが如し、日入れば池の正中にあつまりて一ツの嶋となる。此池に種々の奇異あれども文多ければしるさず。羽州の浮嶋はものにも記して人の知る処なれど、此うきしまはしる人まれなり。
○ 石打明神
小千谷の内農人某の地面に小社あり石打明神といふ。昔より祀る処也、その縁起は聞もらせり。贅肉あるもの此神をいのり、小石をもつていぼを撫、社の椽の下の𥴩子の内へ投いれおくに、日あらずしていぼのおつる事奇妙なり。さてなげいれたる小石、いかなる形なりともいつとなく人の円めたるごとく円石となるも又奇妙ふしぎなり。されば社のえんの下に大小の円石満みちたり。
○百樹曰、余も小千谷に遊びし時、此石を視て話柄に一ツ持帰んとせしに、所の人のいふやう、此神是石を惜み玉ふといひつたふときゝて取たるをもとの処へかへし、つら/\視たるに数万の石人の磨なしたる玉のごとし。凡神妙は肉知を以て測べからず。
○ 美人
百樹曰、小千谷の因にいふ、余小千谷の岩居が家に旅宿せし時天保七年八月或日筆を採に倦、山水の秋景を観ばやとて独歩いで、小千谷の前に流るゝ川に臨岡にのぼり、用意したる書をかく。毛氈を老樹の下にしき烟くゆらせつゝ眺望ば、引舟は浪に遡りてうごかざるが如く、下る舟は流に順ふて飛に似たり。行雁字をならべ帰樵画をひらく。群木は少しく霜を染て紅々、連山は僅に雪を載て白々。寒国の秋景江戸の眼を新になし、おもはず一絶を得などしてしばしながめゐたるをりしも、十六七の娘三人おの/\柴籠をせおひ山をのぼりてこゝにやすらひ、なにやらんものいひかはしてわらふをきく。余は山水に目を奪はれたるに「火をかしなされ」とて烟管さしよせたる顔を見れば、蓬髪素面にて天質の艶色花ともいふべく玉にも比すべし。百結の鶉衣此趙璧を羅む。余愕然し山水を棄て此娘を視るに一揖して去り、樹の下の草に坐してあしをなげだし、きせるの火をうつしてむすめ三人ひとしく吹烟。双無塩独の西施と語るは蒹葭玉樹によるが如く、皓歯燦爛としてわらふは白芙蓉の水をいでゝ微風に揺がごとし。嗟乎惜べし、かゝる美人も是辺鄙に生れ、昏庸頑夫の妻となり、巧妻常に拙夫に伴れて眠り、荊棘と倶に腐らん事憐に堪たり。若江戸にいださば朱門に解語の花を開、あるひは又青楼に揺泉樹の栄をなし、此隣国出羽に生れたる小野の小町が如く美人の名をもなすべきに、此美人を此僻地に出すは天公事を解さゞるに似たりと独歎息しつゝ言んとししに、娘は去来とてふたゝび柴籠をせおひうちつれて立さりけり。目送て顧、越後には美人多しと人の口実にいふもうべなり、是無他なし、水によるゆゑなり。されば織物の清白なる越後の白縮に勝れるはなし、ことさら此辺は白縮を産する所なり、以て其水の至清なるをしるべし。江河潔清なれば女に佳麗多しと謝肇淛がいひしも理なりとおもひつゝ旅宿に帰り、云々の事にて美人を視たりと岩居に語りければ、岩居いふやう、渠は人の知る美女なり、先生を他国の人と眼解欺てたばこの火を借たるならん、可憎々々「否々にくむべからず、吾たばこの火を借て美人にえん烟縁をむすびし」と戯言ければ、岩居手を拍て大に笑ひ、先生誤り、かれは屠者の娘なりと聞て再び愕然たり。糞壌妖花を出すとはかゝる事にぞいひしなるべし。
○再按に、小野の小町は羽州の郡司小野の良実の女なり、楊貴妃は蜀州の司戸元玉が女なり、和漢倶に北国の田舎娘世に美人の名をつたふ。北方に佳人ありといひしも、北は陰位なれば女に美麗を出すにやあらん。二代目の高尾は万治野州に生れ、初代の薄雲は信州に産して、ともに北廓に名をなせり。されば越後に件の美人を見しも北国なればなるべし。
○ 蛾眉山下橋柱
文政八年乙酉十二月、苅羽郡越後椎谷の漁人椎谷は堀侯の御封内なりある日椎谷の海上に漁して一木の流れ漂ふを見て薪にせばやとて拾ひ取て家にかへり、水を乾さんとて庇に立寄おきしを、椎谷の好事家通りかゝり、是を見てたゞならぬ木とおもひ熟視に、蛾眉山下木/喬といふ五大字刻しありしをもつてかの国の物とおもひ、漁人には薪を与へて乞ひうけけるとぞ。さて余が旧友観励上人は椎谷ざい田沢村浄土宗祐光寺強学の聞えあり、甞て好事の癖あるを以てかの橋柱の文字を双鈎刊刻して同好におくり且橋柱に題する吟詠をこひ、是も又梓にして世に布んとせられしが、故ありていまだ不果。かの橋柱は後に御領主の御蔵となりしとぞ。椎谷は余が同国なれども幾里を隔たれば其真物を不見、今に遺憾とす。姑伝写の図を以てこゝに載つ。○百樹曰、牧之翁が此草稿にのせたる図を見るに少しくおもふ所有しゆゑ、其実説を詳究せし事左の如し。
百樹曰、了阿上人が和哥の友相場氏は 椎谷侯の殿人ときゝて、上人の紹介をもつて相場氏に対面して件の橋柱の事を尋ねしに、余に謂しは、橋柱にはあらず標準なりとて、俗に書翰帒といふ物に作りたるを出して其図を示さる。余が友の画人千春子が真物を傍におきて縮図なし、蛾眉山下木/喬といふ五字は相場氏みづから心を深めてうつされしとぞ。下に図するこれなり彫たる人の頭を左りに顧せ、その下に五字を彫つけしは、是より左り蛾眉山下橋なりと人にをしゆる標準なりとかたられき。是にて義理渙然たり。今俗に指をゑがきてそのしたにをしゆる所を記したるを間みる事あり、和漢の俗情おなじ事なり。
○さて此標準を得たる実事をきゝしに、北海はいづれの所も冬にいたれば常に北風烈しく礒へ物をうちよする、椎谷はたきものにとぼしき所ゆゑ貧民拾ひ取りて薪となす事常なり。しかるに文政八酉の十二月、例の如く薪を拾ひに出しに、物ありて柱のごとく浪に漂ふをみれば人の頭とみゆる物にて甚兇悪なり。貧民等惧れてたちさり、ものゝかげより見居たるに、此もの竟に礒にうちあげられしを見て人々立よりみたるに、文字はあれども読者なく、是は何ものならんとさま/″\評し居たるをりしも、こゝに近き西禅院の童僧通りかゝり、唐詩選にておぼえたる蛾眉山の文字を読、これは唐土の物なりときゝて貧民拾ひて持かへり、さすがに唐土の物ときゝて薪にもせざりしに、此事閧伝して竟に主君の蔵となりしと語られき。
縮図左のごとし。丈一丈余、周二尺五寸余。木質弁名べからず。
○按るに、蛾眉山は唐土の北に在る峻岳にて、富士にもくらぶべき高山なり。絶頂の峯双立て八字をなすゆゑ、蛾眉山といふなり。此山の標準、日本の北海へながれきたりたる其水路を詳究せんとて「唐土歴代州郡沿革地図」に拠て清国の道程図中を撿」の左に「アラタムル」の注記]するに、蛾眉山は清朝の都を距こと日本道四百里許の北に在り、此山に遠からずして一条の大河東に流。蛾眉山の麓の河々皆此大河に入る。此大河瀘州を流れ三峡のふもとを過ぎ、江漢に至り荊州に入り、○洞庭湖○赤壁○潯陽江○楊子江の四大江に通じて江南を流湎りて東海に入る。是水路日本道五百里ばかりなり。さて件の標準洪水にてや水に入りけん、○洞庭○赤壁○潯陽○楊子の海の如き四大江を蕩漾周流して朽沈ず。滔々たる水路五百余里を流れて東海に入り、巨濤に千倒し風波に万顛すれども断折砕粉せず、直身挺然として我国の洋中に漂ひ、北海の地方に近より、椎谷の貧民に拾れて始て水を辞れ、既に一燼の薪となるべきを、幸に字を識者に遇ひて死灰をのがれ、韻客の為に題詠の美言をうけたるのみならず、竟には 椎谷侯の愛を奉じて身を宝庫に安んじ、万古不朽の洪福を保つ㕝奇妙不思議の天幸なれば、実に稀世の珍物なり。
按ずるに、蛾蛾同韻五何反なれば相通じて往々書見す。橋を木/喬に作る頗る異体なり。依て明人黄元立が始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44字考正誤、清人顧炎武が亭林遺書中に在る始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44金石文字記あるひは始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44碑文摘奇藤花亭十種之一あるひは楊霖竹菴が始めきっこう(亀甲)括弧、1-1-44古今釈疑中の字体の部など通巻一遍捜索したれども木/喬の字なし。蛾眉山のある蜀の地は都を去る事遠き僻境なり。推量するに、田舎の標準なれば学者の書しにもあるべからず、俗子の筆なるべし。されば我今の俗竹をにんべん+竹のつくりと亻に誤の類か、猶博識の説を俟つ。
○ 苗場山
苗場山は越後第一の高山なり、魚沼郡にあり登り二里といふ。絶頂に天然の苗田あり、依て昔より山の名に呼なり。峻岳の巓に苗田ある事甚奇なり。余其奇跡を尋んとおもふ事年ありしに、文化八年七月偶おもひたちて友人四人●嘯斎●擷斎●扇舎●物九斎従僕等に食類其外用意の物をもたせ、同月五日未明にたちいで、其日は三ツ俣といふ駅に宿り、次日暁を侵して此山の神職にいたり、おの/\祓をなし案内者を傭ふ。案内は白衣に幣を捧げて先にすゝむ。清津川を渉りやがて麓にいたれり。巉道を踏嶮路に登るに、掬樹森列して日を遮り、山篠生ひ茂りて径を塞ぐ。枯たる老樹折れて路に横りたるを踰るは臥竜を踏がごとし。一条の渓河を渉り猶登る事半里許、右に折れてすゝみ左りに曲りてのぼる。奇木怪石千態万状筆を以ていひがたし。已に半途にいたれば鳥の声をもきかず、殆東西を弁じがたく道なきがごとし。案内者はよく知りてさきへすゝみ、山篠をおしわけ幣をさゝげてみちを示す。藤蔓笠にまとひ、樷竹身を隠し、石高くして径狭く、一歩も平坦のみちをふまず。やう/\午すぐる頃山の半にいたり、僅の平地を得て用意したる臥座を木蔭にしきて食をなし、暫く憇てまたのぼり/\て神楽岡といふ所にいたれり。これより他木さらになく、俗に唐松といふもの風にたけをのばさゞるが稍は雪霜にや枯されけん、低き森をなしてこゝかしこにあり。またのぼり少しくだりて御花圃といふ所、山桜盛にひらき、百合・桔梗・石竹の花などそのさま人の植やしなひしに似たり。名をしらざる異草もあまたあり、案内者に問へば薬草なりといへり。またのぼりゆき/\て桟齴なる道にあたり、岩にとりつき竹の根を力草とし、一歩に一声を発しつゝ気を張り汗をながし、千辛万苦しのぼりつくして馬の背といふ所にいたる。左右は千丈の谷なり、ふむ所僅に二三尺、一脚をあやまつ時は身を粉砕になすべし。おの/\忙怕あゆみて竟に絶頂にいたりつきぬ。
○偖同行十二人、まづ草に坐して憇ふ時、已に下晡なり。はじめ案内者のいひしは登り二里の険道なれば、一日に往来することあたはず、絶頂に小屋在、こゝにのぼる人必その小屋に一宿する事なりといへり。今その小屋をみれば木の枝、山さゝ、枯草など取りあつめ、ふぢかつらにて匍匐入るばかりに作りたるは、野非人のをるべきさまなり。こゝを今夜のやどりにさだめたるもはかなしとて、みな/\笑ふ。僕どもは枯枝をひろひ石をあつめて仮に灶をなし、もたせたる食物を調ぜんとし、あるひは水をたづねて茶を烹れば、上戸は酒の燗をいそぐもをかし。さて眺望ば越後はさら也、浅間の烟をはじめ、信濃の連山みな眼下に波濤す。千隈川は白き糸をひき、佐渡は青き盆石をおく。能登の洲崎は蛾眉をなし、越前の遠山は青黛をのこせり。こゝに眼を拭て扶桑第一の富士を視いだせり、そのさま雪の一握りを置が如し。人々手を拍、奇なりと呼び妙なりと称讃す。千勝万景応接するに遑あらず。雲脚下に起るかとみれば、忽晴て日光眼を射る、身は天外に在が如し。是絶頂は周一里といふ。莽々たる平蕪高低の所を不見、山の名によぶ苗場といふ所こゝかしこにあり。そのさま人のつくりたる田の如き中に、人の植たるやうに苗に似たる草生ひたり、苗代を半とりのこしたるやうなる所もあり。これを奇なりとおもふに、此田の中に蛙蛗螽もありて常の田にかはる事なし、又いかなる日てりにも田水枯ずとぞ。二里の巓に此奇跡を観ること甚不思議の灵山なり。案内者いはく、御花圃よりまへにいひたる所別に径ありて竜岩窟といふ所あり、窟の内に一条の清水ながれそのほとりに古銭多く、鰐口二ツ掛りありて神を祀る。むかしより如斯といひつたふ。このみち今は草木に塞れてもとめがたしといへり。絶頂にも石に刻して苗場大権現とあり、案内者は此石人作にあらず、天然の物といへり。俗伝なるべし。こゝかしこ見めぐるうち日すでにくれて小屋に入り、内には挑燈をさげてあかりとし、外には火を焼てふたゝび食をとゝのへ、ものくひて酒を酌。六日の月皎々とてらして空もちかきやうにて、桂の枝もをるべきこゝちしつ。人々詩を賦し哥をよみ、俳句の吟興もありてやゝ時をうつしたるに、寒気次第に烈しく、用意の綿入にもしのぎかねて終夜焼火にあたりて夢もむすばず、しのゝめのそらまちわびしに、はれわたりたればいざや御来迎を拝たまへと案内がいふにまかせ、拝所にいたり日の昇を拝し、したくとゝのへて山をくだれり。別に紀行あり、こゝには其略をいふのみ。
○百樹曰、余越遊したる時、牧之老人に此山の地勢を委しくきゝ真景の図をも視たるに、巓の平坦なる苗場の奇異、竜岩窟の古跡など水にも自在の山なれば、おそらくは上古人ありて此山をひらき、絶頂を平坦になし、馬の背の天険をたのみてこゝに住居し耕作をもしたるが、亡びてのち其灵魂こゝにとゞまりて苗場の奇異をもなすにやと思へり。国史を捜究せば其徴する端をも得べくや、博達の説を聞ん。
○ 三四月の雪
我国冬はさらなり、春になりても二月頃までは雨降る事なし、雪のふるゆゑなるべし。春の半にいたれば小雨ふる日あり、此時にいたれば晴天はもとより、雨にも風にも去年より積雪しだい/\に消るなり。されども家居などは乾に北東の間あたる方はきゆる事おそし。山々の雪は里地よりもきゆる㕝おそけれども、春陽の天然につれて雪解に水増て川々に水難の患ある事年々なり。春のすゑにいたれば、人の住あたりの雪は自然にきゆるをまたずして家毎に雪を取捨るに、あるひは雪を籠にいれてすつるもあり、あるひは鋸にて雪を挽割てすてもし、又は日向の所へ材木のごとくつみかさねておくもあり。かやうにすればきゆることはやきゆゑなり。少しの雪は土をかけ又は灰をかくればはやくきゆそも/\去年冬のはじめより雪のふらざる日も空曇りて快く晴たるそらを見るは稀にて、雪に家居を降埋められ手もとさへいとくらし。是に生れ是に慣て、年々の㕝なれども雪にこもりをるはおのづから朦然として心たのしからず。しかるに春の半にいたり雪囲を取除れば、日光明々としてはじめて人間世界へいでたるこゝちぞせらる。一年夏の頃、江戸より来りたる行脚の俳人を停おきしに、謂やう、此国の所々にいたり見るに富家の庭には手をつくしたるもあれど、垣はいづれも粗略にて仮初に作りたるやうなり、いかなるゆゑにやといふ。答ていふ、いぶかり給ふもことはりなり、かりそめに作りおくは雪のゆゑなり。いかんとなればいかほどつよく作るとも一丈のうへこす雪におし崩るゝゆゑ、かろくつくりおきて雪のはじめには此垣をとりのくるなりと語りし事ありき。されば三月の末にいたれば我さきにと此垣を作る事なり。さて又雪中は馬足もたゝず耕作もせざれば、馬は空く厩にあそばせおく事凡百日あまり也。我国に牛のみつかふ所もあり雪きゆるの時にいたれば馬もよくしりてしきりに嘶き路にいでんとする心あり、人も又久しくちゞめたる足をのばさせんとて厩をひきいだせばよろこびてはねあがりなどするを、胴縄ばかりの躶馬に跨り雪消の所にはしらす。此馬冬こもりの飼やうによりて痩ると肥るありて、やせたるは馬主の貧さもしるゝものなり。馬のみにあらず、童どもゝ雪のはじめより外遊する事ならざりしに、夏のはじめにいたりてやう/\冬履稿沓をすてゝ草履せつたになり、凧などにかけはしるはさもこそとうれしさうなれ。桃桜も此ころをさかりにて雪に世外の花を視るなり。
○ 鶴恩に報ゆ
天保七年丙申の春、我が郡中小千谷の縮商人芳沢屋東五郎俳号を二松といふもの、商ひの為西国にいたり或城下に逗留の間、旅宿の主がはなしに、此近在の農人おのれが田地のうちに病鶴ありて死にいたらんとするを見つけ、貯たる人参にて鶴の病を養しに、日あらず病癒て飛去りけり。さて翌年の十月鶴二羽かの農人が家の庭ちかく舞くだり、稲二茎を落し一声づゝ鳴て飛さりけり。主人拾ひとりて見るにその丈六尺にあまり、穂も是につれて長く、穂の一枝に稲四五百粒あり。主人おもへらく、さては去年の病鶴恩に報んため異国より咥えきたりしならん、何にもあれいとめづらしき稲なりとて領主に奉りけるに、しばらくとゞめおかれしのちそのまゝ主にたまはり、よくやしなへとおほせによりて苗のころにいたり心をつくして植つけけるに、鶴があたへしにかはらずよく生ひいでければ、国の守へも奉りしとかたれり。東五郎猶その村その人をも尋きけば、鶴を助けたる人は東五郎が縮を売たる家なれば、すぐさまその家にいたり猶委く聞て、さて国の土産にせん、穀を一二粒賜はれかしと乞ければ、あるじ越後は米のよき国ときけばことさらに生ひなんとて、もみ五六十粒与へたるを国へ持かへりて事の来由を申て 邦君に奉りしを、 御城内に植しめ玉ひ、東五郎へ 御褒賞など在しと小千谷の人その頃物がたれり。おもふに余がごとき賤農もかゝるめでたき 御代に生れたればこそ安居してかゝる筆も採なれ。されば千年の昌平をいのりて鶴の話に筆をとゞめつ。猶雪の奇談他事の珎説こゝに漏したるも最多ければ、生産の暇ふたゝび編を嗣べし。
通巻画図京水 岩瀬百鶴 筆
北越雪譜二編 四巻大尾