違う平八郎
一
永禄十三年正月元日、尾張国清洲城は、祝賀の宴で賑わっていた。
東海の雄今川義元を田楽狭間に屠ったのが二十七歳、それ以来斎藤龍興を降し、近江十八城を抜き、征馬を駆って摂津、河内を蹂躙した織田信長は、威勢ようやく天下を呑むの時期にあった。
――殊に前年の冬、伊勢の北畠倶教を攻破った後のことで、年賀の宴はそのまま勝戦の祝いをも兼ね、城内は歌舞歓声にどよみあがっていた。
館の大広間でも酒宴当に酣で珍しく奥方や侍女たちを侍らせた信長は、機嫌よく盃を挙げながら列座の諸将士の語る伊勢合戦の功名談を聴いていた。
――祝宴は無礼講になり、みんな充分に酔って来ると、手柄話はいつか戦場の失敗談に移り、一座は明朗な笑声に崩れ始めた。
すると丹羽五郎左衛門が、
「そういう話なら拙者に取って置きの珍物がある。我君、……お座興に家来を一名これへ召寄せとうございますが、お目通りお許し願えましょうか」
と仔細あり気に云った。五郎左衛門が折に触れて意表外な笑の種を撒くことはみんな熟く知っている。
「宜し宜し、無礼講じゃ、呼ぶが宜い」
信長も興ありげに頷いた。
五郎左衛門は立って行ったが、間もなく一人の若者を伴れて戻った。――二十一か二であろう、痩形ではあるが骨組の逞しい体つきで、髭の剃跡の青々とした、眼の大きな、凛とした面魂を持っているが、斯うした晴れの席には馴れぬとみえて、どうやらぶるぶると胴震いをしている様子だった。
「――申上げます」
五郎左衛門は妙な含笑いをしながら、
「これは五郎左が伊勢攻めの前に召抱えました者でございます、恐れながらお言葉を賜わりまするよう」
「どうするのだ」
「先ず、お言葉を……」
信長は盃を手にしたまま、含笑いをしている五郎左から若者の方へ眼を移した。
「余が信長じゃ、許す。面を挙げい」
「は、――」
「名は何と云うか」
若者は平伏しながら、
「お側まで申上げます、本……本多平――」
「直答で宜い、判きりと申せ」
「は、――」
若者はさっと顔を蒼くしながら、
「本多、本多平八郎と申します」
「なに本多平八郎とな?」
信長は眼を瞠った。
――本多平八郎と云えば酒井、榊原、井伊と並んで徳川家の四天王と呼ばれ、当時天下に隠れなき豪雄の士である。列座の人々も驚いて一斉に眼を向けた。若者はその様子にひどく慌て、急きこんで吃り乍ら、
「否え、否え、それが、あれでございます、否やあれでは無いのでございます」
「あれで無いとは何だ」
「その、あの、あの豪傑の本多平八郎では無いので、違う方の平八郎でございます、全く違う方の……」
「わはははははは」
破れるような哄笑がどっと広間に溢れた。
「ははははは」
信長も思わず笑って、
「そうか、違う方の平八郎か、面白いな、豪傑でない方の平八郎とは奇妙だ」
「わはははは」
「あっはははははは」
いちど蒼くなった若者の顔が、今度はぽっと赧くなり、何やら口の内でぶつぶつ呟きながら隅の方へ身を縮めて行く、すっかりあがったその恰好がまた笑を誘う種であった。
是が別の場合であったら、こんな結果には成らなかったかも知れない。何しろ勝戦の祝いを兼ねた賀宴の無礼講ではあり、さっきから戦場の失敗談で一座の空気が明るく崩れているところへ、若者の挨拶がひどく場馴れのしない取乱したものだったので、人々は唯もう腹を抱えて笑って了ったのである。
「――五郎左」
やがて信長は振向いて、
「まだ新参とか申したな」
「は、伊勢攻めの折に召抱えました者で」
「徳川の四天王、鬼平八と同名なれば戦いの程もさぞ眼覚しかったであろう」
「それがまた実に」
「暫く、どうぞそれ許りは」
若者が驚いて五郎左衛門の言葉を遮った。然し此方は構わずに膝を進めた。
二
「拙者の持場は灘野口でございましたが、合戦が終って馬を戻して参りますと、柏の木戸の空壕の中に、頭から枯草を被って震えている者がございました。――敵か味方か分らず、二度三度声をかけますとようやく出て来ましたのがこれで、
――どうしたのだ。
と訊きますと、吃驚したように四辺を見廻しながら、
――もう皆行きましたか。
と申します、もうみんな行って了いましたかと……」
「何だそれは、さっぱり分らんぞ」
「拙者にも解せませんでした、熟く訊ねてみますと、もう合戦の初めに胆を潰して、空壕の中に隠れていたのだそうでございます」
またしてもどっと笑声があがった。
「無類の臆病だな」
信長は盃を措いて云った。
「平八郎、顔を見せい」
「……はっ」
「許す、余の眼を熟く見るのだ」
平八郎は額にじっとり汗を滲ませながら、恐る恐るその眼をあげた、――信長は眦の切上った鋭い眼で、暫くのあいだ射抜くように若者の顔を覓めていたが、やがて、
「――五郎左」
と振返って云った。
「この平八郎を余に呉れぬか」
「それはまかり成りませぬ」
五郎左衛門は驚いて、
「是が遖れお役にたつべき勇士ならば、悦んで御意に順いまするが、斯様な臆病者をお側へ差上げ、万一御威光に関わるような失態を致しましては」
「いや、勇士豪傑なれば余の旗本に幾らでも居る、余はこの男の臆病なところが気に入ったのだ、天下の鬼平八と同姓同名を持ち乍ら無類の臆病者だというところが面白い。是非余に譲って呉れ」
「それ程の御懇望なれば……」
「宜し貰ったぞ」
信長は持前の気早さで、
「平八郎、其方は唯今から信長の直臣だ、――近う参れ、盃を取らすぞ」
「…………」
「遠慮に及ばぬ、近う」
急きたてられて、平八郎はなかば夢心地に膝行した。――信長は盃を与え、平八郎が押戴いて口へ持って行こうとした時、
「平八、それは主従の固めであると共に、唯今から臆病を許す盃だぞ、其方だけは臆病御免だ、強くなれとは云わぬぞ、宜いか」
「……は」
「許す、その盃を乾して戻せ」
実に型破りの情景であった。
さっきから一座の笑いどよめく中に、唯一人だけ微笑もせず、昵と平八郎を見戍っている者があった。――それは上段に並んだ婦人たちの中の一人で、切長の眼の艶やかな左の唇尻に黒子のある鮮かに美しい乙女である。衣裳や髪容の高貴さが示す通り、これは信長の夫人の妹であった。
信長の夫人は美仍姫と云って、美濃の斎藤道三の娘である。彼女は美仍姫の妹で寧々と呼び、父道三が亡んだ時信長の許へ引取られたものであった。――姉の美仍姫も美人で評判だったが、寧々は容姿が姉まさりである許りでなく、気性も強く、薙刀と馬術にかけてはなまなかの若侍など遠く及ばぬ腕を持っていた。
平八郎が盃を貰うまで、眸子をとめて見戍っていた寧々は、やがて静かに起って奥へ去った。
「お寧々さま、どう遊ばしました」
侍女の村尾が追って来た。
「御気分でもお悪いのでございますか」
「あのような席にはいられぬ。構わないでお呉れ」
「それでも御年賀の席をお外し遊ばしては悪しゅうございますもの、もう暫くで済みましょうから、我儘を仰せられず……」
「我儘ではありません」
寧々は足早に自分の居間へ入って、くるりと侍女の方へ振返った。眉があがっているし艶やかな双の眸子は泪を含んでいた。
「さっきからの狼藉な有様、そなたは見ていて何と思った。――如何に無礼講の御酒宴とは云え、人の弱味を慰みものにして嘲笑うという法がありますか」
「まあ、あれがお気に障りましてか?」
「どんなに寛いでも武士には武士の作法がある筈、身分の軽い新参者だからと云って、座興の種に笑い辱めるなどとは、殿も列座の人々も情を知らぬ卑怯者です」
「あれ、そんな高いお声で……」
「卑怯者です、情知らずの野人です」
寧々は唇を顫わして叫んだ。――葩をこぼれる露のように、長い睫を伝ってはらはらと泪が溢れ落ちた。
三
少しばかり派手な名披露目であった。
なにしろ強いという事が人間の値打をきめる時代に、臆病でお取立になるというのは桁外れである。若し是がそのまま無事にゆくとしたら却って不思議と云わなければなるまい。――平八はお庭廻りとして信長の側近く仕えることになった初めの日に、早くも自分が困難な立場に置かれたことを知らされたのである。
彼の役目は信長の館を警護するもので、毎日館の庭へ詰めるのであるが、お取立になって初めてお役に就いた日、お厩口のところで向うから来た二人伴れの武士と出会った。同役の人たちとは大抵もう紹介されているが、その二人は顔を知らないので目礼したまま行過ぎようとすると、
「あいや、失礼ながら御意を得たい」
と一人が近寄って来た。
「拙者は御旗本にて室橋辰右衛門と申す者だが、此たび新規お取立になったのは御貴殿でござるか」
「申後れました」
平八郎はいきなり声を掛けられたので、はっとしながら腰を跼めた。
「如何にも拙者はお庭廻りとしてお召出しに与った本多平八郎でござる」
「なに、本多なんと仰有る?」
「平八郎、本多平八郎でござる」
「やっ――?」
相手はやっと云って口と眼を大きく明けた。
「き、貴公が、貴公があの」
「否や、い、否や違います」
平八郎は慌てて手を振りながら、
「あれではござらぬ、あの豪傑の本多平八郎ではないので、違う方の本多平八郎でござる」
「あはあ……なる程」
相手はにやりとした。
「豪傑でない方の平八殿か、豪傑でない方とすると弱い方でござるな、ふむ、つまり弱い平八郎という訳か、――なる程、それでは伊勢の戦で空壕の中で草を被って震えていたというのは貴公だな」
「それには、実は、その、些か仔細があるので」
「面白い、その仔細を聞きたいな」
「然し、……だが、――いや、申しますまい」
「どうして云われぬ」
「申上げても分って頂けまいから」
心弱くも眼を伏せる平八郎を、相手は嘲るように見下して、
「左様さ、戦場は武士の屍を曝すべきところと、幼少の頃より覚悟する我等には、臆病未練の仔細を聞いても分る筈はあるまい、――お邪魔を仕ったな、違う方の平八郎殿」
声高く笑いながら二人は去って行った。
祝宴の席に次ぐこの出来事が、城中に於ける平八郎の位置を決定して了った。それ以来というものは取代え引代え同じような問答に悩まされるのである。若し彼がもっと世馴れているか、有触れた勇士豪傑の類であったら、こんな非運を打開するのは造作もないことだったろう。けれど彼の心はもっと純真であった。つまらぬ俗物たちに嘲弄されるほど隙だらけな真実をもっていたのだ。
大庭の梅林が満開を過ぎた一日、お庭廻りをしていた平八郎は、泉亭の下のところで五六名のお側小姓たちに取巻かれた。――織田の荒小姓と云われるくらいで、年はまだ十五六から七八までだが腕節の強い、鼻息の荒い連中である。
「ああ暫く、暫く待たれい」
少年のくせに頭から横柄なのは、云うまでもなく君寵をかさに衣ているのだ。
「今度新しくお庭廻りに召立てられたのは貴殿ではないか」
「如何にも――」
平八郎は又かと思った。その顔を小意地の悪い眼で覓めながら、年嵩の一人がのし掛るような調子で云った。
「聞けば元、丹羽長秀殿の家臣、つまり陪臣であったものを、新たに御直参としてお召出しになったそうだが、伊勢合戦には余程の手柄をおたてなすったのだろうな」
「我等寡聞にして――」
と次の一人が畳みかけて、「一向にその次第を存ぜぬ、後学のため手柄の様子を承りたい」
「一番槍か、一番首か、それとも一番乗りか精しくお話し願おう」
ごくりと唾をのむ平八郎の様子を見て、彼等の態度は益々傲慢になった。
「さあお始めなさい、御謙遜には及ばぬ」
「我等も幸運にあやかりたい」
「お聞かせ願おう」
「それとも小姓などに手柄話はなさらぬというお積りか」
「それなら我等にも覚悟がある」
「決して、――」
平八郎はもう頬を赧くしていた。「決して左様な訳ではない。手柄と申したところで、実は、いや、お話し申す程の事もなく」
「話す程の事もない――!」
小姓たちは押返して、
「一番槍も一番首もないというと、では兜首の二三級と云うところか」
「それとも又……」
図に乗って詰寄ろうとした時、
「お止め!」
と鋭く遮りながら、一人の美しい姫が小姓たちと平八郎のあいだへ入って来た。――お寧々様である。眉が吊り、濡れた黒玉のような双の眸子は怒りに燃えていた。
「そなた達は何事です、まだ前髪の分際で世間の噂を聞噛り、相手の温和しいのを好い事に嘲弄するとは見下げ果てた仕方、――さ、お詫びを申して此処をお下りなさい」
「――は」
如何に荒小姓でもお寧々様には手も足も出なかった。年嵩のがぺこりと低頭するのにつれて、みんな一つ宛お辞儀をしながら逃げるように去って行った。
お寧々はそれを見送ってから、
「本多さまと、仰有いますのね」
と静かに振返った。
――平八郎は相手が何者であるかを知らない。けれど言葉の調子から考えて凡その身分の見当はついた。
「は、本多平八郎、あの豪傑ではなく違う方の本多……」
「お待ち遊ばせ」
お寧々は屹と遮った。
「なぜそんな断りを仰有いますの?」
「はあ、それは、あれなのです」
「元旦の祝賀の折にも、わたくし上段に侍っていて伺いました。どうしてそのように一々お断りなさいますの、他に何千何百人の本多平八郎がいようと、貴方のお名が本多平八郎ならそんな断りを云う必要は些しもないではございませぬか」
「――仰せの、通りです」
平八郎は耳まで赤くしながら云った。
「それは仰せの通りなのです。けれど……徳川家の豪傑、天下の鬼平八郎と間違えられはせぬかと思うと、つい断らずには」
「そんな弱い心で立派な武士が……」
男勝りの寧々はきりきりと唇を噛んだが、相手の恥ずかしそうな顔色を見ると詰るような口調を急に変えて、
「まあ此方へ来てお掛け遊ばせ」
と自分から先に泉亭へ入って行った。――そして平八郎が来て腰掛へ掛けるのを待って云った。
「貴方は伊勢の戦に、空壕の中で草を被っていたと聞きましたが、わたくしには迚も信じられませぬ。本当なのですか」
「不甲斐ないことですが、本当です」
「そんなに貴方は命が惜しいのですか」
「そうではないのです。否や、そうでないと云っては嘘かも知れません。……お話し申上げたいが、聴いて下さいましょうか」
そう云って振向けた彼の眼は、母に縋る幼児のような切ない色を湛えていた。――寧々はその眼を抱緊めるように受けて頷いた。
「拙者は飛騨国大野郡で生れました」
と平八郎は静かに話しだした。「家は数代伝わる郷士で父は本多市正と申します。祖父は平八郎と云って北条氏康の旗下に豪雄の名を挙げたとか、それにあやかるようにと父は祖父の名を拙者に付けて呉れました。――拙者も斯く戦国の世に生れたからは、遖れ戦場に高名手柄をたて、一国一城の主に成りたいという野心に変りはなく、幼少の頃より武道専一に励んで参りました。そして……自分の口から申しては恥ずかしゅうござるが、武士ひと通りの腕は鍛えあげたと思います。けれど初めて故郷を出で、伊勢の戦に臨みましたときに、思いも懸けぬ事が起って了いました」
「思懸けぬ事とは――?」
「故主丹羽殿の陣場は灘野口でございましたが、合戦の始まると共に拙者は前へ前へと馬を進めました。そして好き敵もがなと馬上に伸上りながら、
――我こそは本多平八郎……。
と名乗ったのです。すると城兵の中から三瀬入道、大河内教通などという名だたる勇士の人々ばかり七八騎、
――本多平八郎とは好き敵ぞ、我こそ相手にならん、我こそ首を挙げん。
と槍を揃え殺到して来たのです」
平八郎はぶるっと身震いをした。――恐らくその時の凄じい光景を思出したに相違ない。それからひと息ついて続けた。
「なにしろ此方は全くの初陣です、あ、徳川の本多平八郎に間違えられたな! と気がついたとたんに、何とも云えぬ怖ろしさで身が竦み、我を忘れて逃げだして了いました」
「そのお気持は熟く分りますわ」
「今でも眼に見えます、――その時の彼等の勢と云ったらなにしろ天下の鬼平八郎と思っているのですから、首を挙げれば千石の手柄とばかり、無二無三に突進して来るのです。それは実に千匹の悪鬼が押寄せるかと思われて、……逃げたのも全く夢中でした」
平八郎はぐっと下唇を噛んだ。
四
お寧々には男の悲しい運命が熟く分った。そして勝気であるだけに愛情もまた一倍な乙女の心は、不思議な力で平八郎の方へ烈しく惹かれるのを感じた。
――お可哀そうに。
そう云ってやりたかった。
元旦の祝宴で初めて彼を見て以来、その肩幅の広い逞しい体つきや、濃い一文字眉や、世俗の垢に染まぬ凛とした眼を、ふとすれば眼前の幻に描く自分に気付いて、人知れず頬を染めることさえあったのである。
「ようこそお話し下さいました」
寧々は容を正して云った。
「世間の者がなんと云おうと、わたくしだけは貴方を唯の臆病者とは思いませぬ、貴方が戦場をお逃げになったのは徳川の本多平八郎殿と間違えられたからでございますわ、――けれど――平八郎さま、斯うお考え遊ばすことは出来ませんかしら、天下に本多平八郎は御自分独り、他にあればそれこそ貴方の偽者だという風に」
「――はあ、……」
「貴方は日本の弓取、織田信長公の御直臣ではございませぬか、鬼平八郎殿が豪勇でも、貴方に比べれば三河の小大名の家来、貴方こそ威張って本多平八郎と名乗れる筈です」
「そうも、思う事は、思うのですが」
「弱いお心ではいけませぬ、貴方はいま御自分の心にある幽霊のために怯えているのです、自分は徳川の本多ではない、違う平八郎だと思う、その弱い心が幽霊になって貴方の心を挫くのです。平八郎さまその幽霊をお捨て遊ばせ。本多平八郎は我一人、我こそ天下唯一人の平八郎とお思いなさいませ。出来ます、必ず貴方には出来ますわ」
平八郎は伏せていた眼をあげた。その眼の底に光りはじめている力を見て、お寧々は思わず平八郎の手を握りながら云った。
「寧々は信じて居りますわ、平八郎さま。貴方は織田家随一の大将に成る方です。寧々の良人は一国の主たるべき方です!」
「――あっ」
あっと云って立上る平八郎の前を、お寧々様は耳まで紅に染めながらすり抜けるようにして走り去った。
然し平八郎を驚かしたのは「良人」という言葉ではなくて寧々という其名であった。身分ある姫とは思っていたがまさか寧々姫とは思いも及ばなかった。美濃尾張かけてその美しさと男に勝る女丈夫で知らぬ者なき寧々姫、――その人がいま自分の前にいたのだ。その人が自分の手を執って、
「――ああ」
平八郎は畏れとも悦びともつかぬ歎声をあげた。
姫は彼のことを織田家随一の大将となるべき人間だと云った。あの時の柔かい、熱い指に籠められた力は、まざまざと血のなかへ浸入って離れない。そして更に――自分の良人たるべき者は一国の主と。
「そうだ!」
平八郎はぐっと空を仰いだ。
「己は天下に唯一人の本多平八郎だ、それで宜いんだ、他に平八郎はいないんだ、己こそ本当の本多平八郎だ、……鬼平八郎とはこの、――この己の、……此処にいる己が」
眼は挑みかかるように空を睨上げたが、そう決心するあとからくたくたと気は挫けて行った。平八郎は己独りと思切るには、余りにかけはなれた相手である。――徳川家に於ける本多忠勝は、十三歳の初陣以来、戦って功を成さざることなく、井伊、榊原、酒井と共に四天王と呼ばれて雷名隠れなき勇将である。それに比べて此方はどうだ、……此処に立っているこの自分は、どうだ。
「これは、無理だ、到底この己には……」
「何をして居る、平八!」
不意に耳許で呼ばれて平八郎は思わずはっと跳上った。――見ると、侍女二名を伴れて信長が立っていた。
「あ、こ、これは上様」
「今更慌てても仕様がない。いま此処で何者と密談して居ったのだ」
「別に、決して、その密談などという」
「隠しても駄目だ」
信長の大きな眼は鋭く光っていたが、その唇は微笑を含んでいた。
「戦場では臆病なくせに、こんな方面は馬鹿に達者ではないか、うん?」
「それが、まるで違いまする、つまり」
「云訳は聞かぬ、奥庭で女子と密会するなどは固い法度だぞ。然しまあ宜い、その勇気があれば結構だ、近いうちに越前へ攻下る。其方には留守をさせようと思っていたが、その勇気に賞でて軍陣の供を許すぞ」
「――は、それは忝のうございます」
「なんだ、もう震えているのか」
信長は声高く笑いながら云った。
「そんなことでは迚も寧々を妻には出来ぬぞ、狙っている猛者が降るほどいる事を忘れるな」
五
永禄十三年四月(同月二十三日改元して元亀となる)、織田信長は自ら征馬を進めて越前に下り、朝倉義景の金崎、手筒の二城を取囲んだ。――この二城は要害堅固の地で、土地不案内の寄手は苦戦必至と思われたが、木下秀吉、明智光秀の両智謀を集めて奇策を建て、それが見事に功を収めたため両城僅に二日で陥落せしめた。
平八郎は信長の幕下にあって金崎城に掛っていた。
――今度こそはひとかどの手柄をたてるぞ、臆病者の汚名を雪いで、立派にお寧々様の出迎えを受けるのだ。
堅く決心していた彼は、金崎城大手掛りに詰め、合戦の到るや遅しと待構えていたが、手筒の城を攻破って木下、柴田勢の合すると共に、総攻を開始するその陣頭へ、猛然と馬を煽って突進したのである。――それまではよかった。ところが城中から浅倉景恒が手勢二千を率いて斬って出るや、忽ち凄じい白兵戦が展開し、平八郎はその渦の中へ巻込まれながら、
「やあやあ、我こそは尾張国にさる者ありと知られたる本多平八郎……」
と声高く名乗りかけた。
――すると敵の人数はどよみあがって、
「おお本多平八郎とは好き敵ぞ」
「我こそ見参」
「我こそ相手にならん」
口々に喚きながら、兜武者七八騎を先頭に二十騎あまりがだあっと寄せて来た。――その凄じいこと、平八郎は慌てて馬上に伸上り、槍を高くあげながら、
「やあ急くな急くな、本多平八郎には相違ないが、あの有名な鬼平八郎ではないぞ、豪傑平八郎ではなく別の平八郎だ。唯の本多平八郎だぞ、間違って後悔するな!」
合戦の最中に、但書付きの名乗をあげるとは奇天裂である。――一所懸命に叫んだが、分る道理はない。むやみに「本多平八郎鬼の平八郎」と云うように聞えるから、敵軍の名ある勇者たちは孰れも相手を捨てて、
「心得たり本多平八郎、見参せん」
「退くな平八郎」
「我こそ相手ぞ」
先を争って殺到する。
――駄目だ、彼等は間違えている。
そう思った刹那! 平八郎は骨の髄から寒気だち、夢中で馬首を廻すと遮二無二そこから逃げだして了った。――そのまま彼の姿は戦場から消えたのである。
金崎城が陥落して、戦捷の馬寄が行われた時、先ず信長が彼のいないことを発見した。見かけた者はないかと調べさせると、
「総攻の時たしかに先陣を馳駆していました」
と云う者が二三人あったし、また、
「いや、なんでも拙者は豪傑の平八郎ではない、違う平八郎、唯の平八郎と頻に断っているのを見かけました」
と申出た者がある。
「唯の平八郎か、わははははは」
周囲にどっと笑声があがった。
――信長も苦笑し乍ら、
「遖れな臆病振りだな、またその辺に隠れているのであろう、誰か捜して参れ、――もう大丈夫だと云ってな」
再び廻りに笑声が起った。
一刻ほど後、丹羽長秀の手の者が、戦場からずっと離れた藪の中に、馬の首へ獅噛みついて震えている平八郎を発見して伴戻った。信長は――悄然として現われた平八郎を見ると床几から立上って、
「どうした平八」
と笑いながら声をかけた。
「貴様、合戦のさ中に断りを云っていたそうではないか」
「はい、なにしろ」
平八郎は泣きそうな顔で、「その、先方が、どう断っても、徳川の平八郎と間違えますので、それで拙者にしましても、また先方にも迷惑であろうと」
「斬るか斬られるかという必至の場合に迷惑もくそもあるか」
「それは、考えてみれば御意の如く」
「まあ宜い、考えてみるに及ばぬぞ、貴様のいるお蔭で戦の凝がおちる。合戦が陽気になっていい、――初めから臆病は許してあるのだ、これからも精出して臆病を稼げ」
三度わっと笑が爆発した。
六
金崎、手筒を抜いた織田軍は、更に進んで朝倉義景の本城、一乗谷に迫ろうとした。――ところが其時、清洲から驚くべき報知がやって来たのである。――使者は三名、然も意外なことにはその中に男装の寧々姫がいた。
「馬鹿なことをする」
幕営へ使者を迎えた信長はお寧々の姿をみつけて眼を怒らせた。
「戦場は女の遊び場ではないぞ」
「お叱りは後に頂きまする」
お寧々は長い羇旅の後ともみえぬ冴え冴えとした眼に、強い意志の光を見せながら云った。
「上様の御運の興廃に係る大事なおしらせ、老臣共の諫を押切って使者に加わりました。直ちに兵を纒めて御帰国遊ばしませ」
「なに、帰れと云うか」
「近江の浅井長政が旗挙を致しました」
「…………」
「六角義賢も共に上様の退路を截って、越前軍と挾撃の策をめぐらせて居ります」
信長はさっと顔色を変えた。浅井長政とは姻籍関係にある、即ち長政の妻は信長の妹であった。それ許りでなく両者は国境を接して常に唇歯輔車の好を保って来ていたので、この突然の警報は遉の信長をも愕然とさせた。
金崎、手筒は屠っても朝倉義景はまだ一乗谷に拠って、隙あらば反撃しようと牙を研いでいる。此処で若し浅井、六角が背後に起つとすれば織田軍の運命は逆賭し難きものになろう。信長は即座に心を決めた。
「宜し、潔く退陣しよう」
と床几から立つ。
「池田、木下、柴田、佐久間を呼べ」
「――上様」
お寧々は退ろうとしながら、
「平八郎殿は御無事でございますか」
「平八……」
信長は振返ったが、
「そうか、お寧々は平八に会いたくて来たのだな、余の軍を気遣って来たと申したのは嘘だったのか、ふといやつめ」
「勿体ない、さ、左様なことが……」
艶やかに匂うような汗の浮いた顔がさっと赤く染った。
――信長は笑って、
「云訳なら聞かずとも宜い、遠路の使に賞でて、許してやる。行って会って来い」
「あの、お許し下さいますか」
「誰ぞ平八を呼んで参れ」
側近の侍が走って行った。
――そこへ、柴田勝家、池田信輝、木下秀吉、佐久間信盛らが走り集って来たので、お寧々はそっと幕営の外へ出て行った。
捜しに行った侍は間もなく戻って来た。そして平八郎が何処かへ身を隠した事を告げた。
「身を隠したとは……?」
お寧々は恟りとして、
「まさか脱走したという訳ではあるまいね」
「それがどうもそうらしいので」
「そうらしいとは?」
「武具、旅嚢、馬、なに一つ残って居らず、何処へ行ったか誰も知る者がござりませぬ、命なくして持場を離れることは軍令に反きますゆえ、恐らくは……」
お寧々はきっと唇を噛んだ。
――遅かった!
正に遅かったのである、平八郎はお寧々が使者の中にいるのを見たのだ、そして彼はそのまま陣営から逃出して了ったのだ。
信長は越前攻略の軍を収めて還った。
朝倉、浅井、六角を相手に、運命を賭しての合戦を始めるのだ。信長は三河の徳川家康に援軍を乞い、兵備を革めて一大決戦の体勢をととのえた。――是が有名な姉川の役で信長の生涯を通じての最も苦戦した戦であり、同時にまたその天下に於ける覇権を確実にしたものであった。
信長の兵は凡そ二万三千、徳川家康は凡そ五千の兵を率いて西上、姉川南岸に陣した。――之に対して浅井長政は兵八千、越前よりの援軍朝倉景鏡の兵一万余騎で、兵数は遙に劣っていたがその意気は恐るべきものがあった。……戦は極めて機微の裡に進退していたが、遂に元亀元年六月二十八日の払暁、織田軍の先鋒が姉川を渡って迫るのを合図に、決戦の幕は切って落されたのである。
七
戦の第一段に於て朝倉勢と鉾を交えた徳川軍は、川を挾んで攻防相半ばしていたが、第二段に移るや遽に朝倉の反撃鋭く、徳川の陣は見る見る崩れたって将に家康の麾下も危く見えた。――同時に一方では、浅井軍の勇将磯野員正は手兵千五百を提げて殺到、信長の先鋒坂井政尚を撃破し、池田信輝を破り、更に第三第四の陣を粉砕して殆ど信長の本陣を侵さんとした。その時である、槍足軽の一人が、不意に信長の前へ進んで、
「上様、御安堵遊ばせ、拙者が居ります」
と槍を伏せて云った。
「――誰だ」
「私でございます」
と云うのを見ると、意外にも越前で失踪した本多平八郎である。信長は驚いた、驚くと共に呆れた。
「其方、平八ではないか」
「は、――あれ以来、森様の槍足軽として、恐れながら御馬前を守護して居ります。何事が起りましょうとも平八存命の限りは御安堵遊ばせ」「安堵しろと申して――」
信長は思わず苦笑しながら、「余は別になんでもないが其方は大丈夫なのか、見れば震えている様子ではないか」
「い、否え、大丈夫でございます」
「はははは」信長は甲高く笑った。
「宜し宜し、よく出て参った、心配する要はない、戦は勝に極って居るのだ、出ると危いから其方は此処にいて見物せい」「いや、いや然し」
「見ろ見ろ、池田めが盛返すぞ」
信長は鎧の袖をはねて立上った。
徳川軍もようやく勢を挽回し始めた、織田軍も憤然反撃を開始した。そして榊原康政が川を渡って朝倉の側面へ奇襲の突撃を敢行したのが勝敗の分れ目となり、浅井、朝倉の陣営はようやく頽勢に陥った。既に大事畢ると見たものであろう、浅井長政の麾下に其人ありと知られた遠藤喜右衛門直経は、手兵五十騎と共にまるで一陣の突風の如く、
「四位殿に見参――」
とばかり信長の幕営めがけて突込んで来た。必死不帰の肉弾である、あっと見る間に遮る者を蹴散らし突伏せ、悪鬼の如く殺到した。――すると其時、右手にあった徳川の陣から、黒糸緘の鎧に鹿の角の前立うった兜を衣て、槍を抱込んだ荒武者が一騎馬を煽って乗りつけながら大音に、
「やあ珍しや喜右衛門、三河国の住人本多平八郎忠勝これにあり、相手は我ぞ退くな」
と名乗りかけた。――それを聞いたとたん、今まで信長の側に震えていた平八郎は、いきなり跳上ると、
「我君、御乗馬拝借!」叫びざま、信長の愛馬、利刀黒の駿足に飛乗って驀地に駆って出た。
不思議でもなんでもない、本多忠勝という名乗を聞いた刹那! 彼の血は初めて烈火の如く燃上ったのだ。今日までの屈辱、人の嘲り、みんな鬼忠勝がいるためであった。同じ名の彼さえいなければ、これほどの恥を受けずとも済んだであろう。――畜生、到頭めぐり会ったぞ。
平八郎は切歯した。――貴様のために、己は今日まで世を忍んでさえいたのだぞ。違う平八郎、弱い平八郎と蔑まれて来たのもみんな貴様がいたためだぞ。
――だが、今日こそ己は自分になれる。今日こそ貴様に間違えられる心配はないんだ。見て居れ! 心の内に叫びながら馬腹を蹴って乗りつけると、喉も裂けよとばかり、
「やあ、遠藤喜右衛門よく承れ、我こそ織田四位殿の家臣にて臆病御免と云われたる本多平八郎依次なり、その首他人にはやらぬ、参れ――ッ」と名乗りかけた。――臆病御免というのは珍しい、喜右衛門も驚いたが、先に出ていた本多忠勝はいきなり自分と同姓同名を名乗られたので、はっと手綱を絞りながら振返る、……その鼻先を、だあっと疾風のように駆けぬけた平八郎、全身これ弾丸という勢で喜右衛門直経の真正面へ突っかけて行った。
喜右衛門は馬首を廻らせて避けようとしたが、平八郎はその隙を与えず、馬もろ共に凄じい勢で体当りを呉れた。あっと見る間に、馬も人も縺合って顛倒する、むろん平八郎も二三間抛出されたが、神速に跳起きると、そのまま喜右衛門に飛掛って、「えいッ」とばかり組伏せ、相手の鎧徹しを抜きざま一太刀、二太刀草摺をあげて刺通した。
実に目叩く間の出来事であった。自分でも半ば夢中で、力弱る相手を押伏せたまま首を掻取った平八郎、やったやったと云いながらそれを太刀の尖へ貫いて起つ。馬を引寄せて飛乗るや、高くその首級を掲げながら、
「やあ、敵も味方も承れ」天にも届けと叫んだ、「浅井家の勇将遠藤喜右衛門直経は四位殿の家臣本多平八郎依次が討取ったるぞ、徳川家の本多平八郎ではないぞ、四位殿の家臣本多平八郎依次!」どうっと騰る味方の軍勢の賞讃の声の中で、平八郎は初めて高くその額をあげた。――今こそ彼は違う平八郎では無くなったのだ。織田家に本多平八郎ありという事をはっきりと世に示したのだ。
――遖れようこそ遊ばしました。お寧々様のそう云って笑う美しい笑顔が、振仰ぐ空に歴々と見える。
――浅井、朝倉の軍勢は算を乱して敗走しつつあった。時に元亀元年六月二十八日午後二時。