朝顔草紙
一
部屋へ入ると直ぐ、父の様子が毎もと違うのを信太郎は感じた。
「お呼びでございますか」「うむ、――」信右衛門は好物の莨を喫っていたが、信太郎の坐るのを待って静かに煙管を措いた。
「突然のことで驚くかも知れぬが、そのほう明日江戸を立って、故郷まで行って来て貰いたいのだ」
「――石見へでございますか」「石見の浜田だ」「何ぞ急な御用でも……」「一人――人を斬るのだ」
意外な言葉だった。訝るように見上げる信太郎の眼を、眤と見返しながら、信右衛門は静かに云った。
「父が永の暇を出されて浜田藩を退身したのは、十五年以前の夏のことであった。なぜ退身したかということは今日まで話さなかったし、出来るならいつ迄も話したくはない、――然し順序として簡単に云おう」「その仔細なら、あらまし存じて居ります」
信右衛門はちょっと意外な面持をした。
「どうして知っているのだ」「亡くなる二年ほどまえ、母上から聞かせて頂きました」「――そうか」
信右衛門は静かに膝を撫でて、
「では神尾采女のことを知って居るな」「はい、――」
安倍信右衛門は今から十五年まえ、石見国浜田藩に物頭格五百石で仕えていた。
当時、足軽の伜で小姓にあがり、そのお側去らずに仕えている神尾采女という者がいた。非常な才人で、主君松平大和守の寵愛を専らにしていたが、二十三歳で御用人に取立てられると急に勢を得て君寵をかさに政治面の事にまで容喙するようになった。――信右衛門は夙くから采女が奸曲の人物であると見ていたので、お側を遠ざけるよう再三にわたって直諫した、それが要するに永の暇になる因だったのである。
安倍の家は祖父の代から大和守に仕えていて、つまり「三代相恩」の主家ではあったが、信右衛門は遂に浜田を見切って浪人し、江戸へ出て数年を過すうち、今の主君堀田山城守に見出されて三百石を賜わり、江戸詰留守役として今日に至ったのである。
「それでは精しく話す要はあるまい」
信右衛門が云った「然し、……父が浜田を退身したのは、武士の本分に欠けていた。真に君家を思うならば諫死をも辞すべきでない、少くとも采女を斬って立退くくらいの覚悟が出来ない筈はなかった。それを……父はまだ若く、客気満々であったため、尽すべき本分を尽さずに来てしまった」
信右衛門は恥ずるように、暫く言葉を切っていたが、再び続けた。
「――つい先頃であったが、父はある席で浜田の噂を耳にした、それに依ると采女は遂に国老にまで経登り、今や全く藩政の実権を握って、悪政秕策、一藩の民を泣かしているとのことだ。……十五年まえに父が斬っていたら、この禍根は残らなかったに違いない、おまえそう思わぬか」「よく分りました」信太郎は父を見上げて「――斬って来いとおっしゃるのは采女のことでございますね」「父が果さずに来た三代相恩の責を、その方が果すのだ。たやすい事ではないぞ」「――斬って参りましょう」
信太郎は片頬に微笑すら浮べていた。信右衛門はその面を見まもっていたが、
「よし、その眼なら大丈夫やれる、手段は選ばぬから仕止めて来い、――その代りに良い褒美をやる」「では兼光のお差料を」「そうではない、他にあるだろう」
信右衛門はちらと笑った。「浜田へ行くと云えば思い出す筈だがな、分らぬか」「何でございましょう」
小首を傾げたが、直ぐに信太郎はさっと頬を赫くした。その様子を信右衛門は楽しそうに眺めて、「どうだ、分ったであろう!」「――はい」「国家老建部監物の娘文絵どの、おまえとは親同志の約した許嫁だ。首尾よく采女を討取ったら嫁に迎えて帰れ、是が褒美だ」
×
「――是が褒美だ」と云った時の、明るい父の顔が信太郎には忘れられなかった。
信右衛門がまだ浜田にいた頃、国家老の建部監物と莫逆の交りがあって、その娘文絵と信太郎とを、行末は夫婦にしようという固い約束が取交してある、ということは、予て亡き母からも聞かされていた。
――浜田には自分の未来の妻がいる。
そう思うことが、若い信太郎の胸をどんなにときめかせたであろうか。
自分では文絵という娘の顔も覚えてはいなかったが、年経つと共に遙かな憧憬が生れ、秘かに描いては消し、消しては描く俤が、いつか心の底に深くかっちりと刻みつけられていたのである。そしてその俤の人が、十五年という長い時の帷をかかげて、今や信太郎の前に現われようとしているのだ。
浜田へ着いた日は雨だった。――城下町へ入ったのが宵の八時頃、
「宿を取って見廻りの者に調べられでもしてはいけないから、着いたら直ぐ建部の家へ草鞋を脱ぐがよい」
そう云われて来たので、城下へ入ったところで夕食をしたためたうえ、馬場外にある建部の屋敷へ向った。するとその途中、宗念寺という寺の近くで思いがけぬ事に出会った。
雨はもう小降りになっていたが、吹き始めた風が右手から強く当るので、笠を傾けながらすたすた急いでいると、宗念寺の土塀の尽きたところが竹の疎林になっている、その中から闇を衝いて、
「えいッ」と云う掛け声と共に、いきなり槍をつけた者があった。全く思い設けぬ出来事だった。はっと、反射的に躰をひらいたが、槍は信太郎の雨合羽を縫い、勢い余って左へ二尺も穂尖が出た。殆ど同時にその千段巻を左手で掴む、右手を刀へやったが柄袋が掛けてあった。
――くそっ。
と思うと右へ廻り込みながら、
「何者だ、人違いするな」と叫びざま力任せに槍を引いた。だっとのめって来るやつを逆に、躰を捻りながら、足を払ってぐいと突き戻したから、相手は雨水の中へ顛倒し、槍は信太郎の手に残った。――見るとその時、前後の闇へばらばらと四五人、白刃を閃めかして詰寄る人影がある。
「人違いするな」
信太郎はもう一度叫んだ「拙者は東国から旅をかけて来た者だ、――それとも貴公たちは追剥盗賊の類か」
闇の中から、一人の男が近寄って来た。そして眤と此方を見透すようにしたが、
「みんな退け、人違いだ」と云った。そして音もなく闇の中へ消えて行った。
信太郎は槍を取り直して、油断なく四辺の気配を窺っていたが、もう人の襲いかかる様子もないので、手早く刀の柄袋を外し、いつでも抜けるようにして置いて静かに歩きだした。然し、それから建部邸へ着くまで遂に何事もなかった。
監物の屋敷は馬場外にあって、千五百石の格式とは思えぬ質素な構えだった。すでに門は閉めてあったが、
「安倍信右衛門の一子信太郎でござる」と云って案内を乞うと、待つ程もなく入れて呉れた。
持って来た槍を門番に預け、濡れた合羽を脱って衣紋を正し、玄関へかかると、式台のところに髪の半ば白くなった小柄の老人が出迎えていて、待ち兼ねたように、
「――信太郎か」と声をかけた。
「おお信太郎じゃ、立派に成長したのう、よく来たよく来た、独りか?」
「はい、――」と云って挨拶をしようとすると、
「ええ辞儀はあがってからの事じゃ、さ、先ず通れ、作兵衛、作兵衛、作兵衛は居らぬか、早う洗足を持て」
監物老人の声は感動に顫えていた、まるで肉親に迎えられるような温かさを感じながら、足を洗ってあがると、直ぐに風呂場へ導かれ、旅塵を落して出ると新しい衣服が揃えてあった。
信太郎は胸の躍るのを抑えきれなかった、ながいあいだの幻が将に実現しようとしているのだ。
――愈々文絵に会うのか。
と思うと、自然に頬が熱くなった。
客間には明々と灯火が輝いて、酒肴の膳を前に監物が坐っていた。信太郎が下座に手をついて挨拶を述べると、
「ああその方も堅固に成人でめでたい、さ、挨拶はそれ程にして此方へ寄れ、先ず一盞、信右衛門の子なら飲む口であろう」「ほんの真似だけでございます」「遠慮は無用だぞ、さあ」と盃を差出した。
二
「その後とんと消息がないで、実はどうした事かと案じていたのだが、それでは間もなく堀田家へ仕官が出来たのだな」「はい、唯今では江戸邸詰めで、留守居役を勤めて居ります」「それは重々めでたい、あれから最早十五年余り経つのう、当藩にも色々の事があった。信右衛門の退身した折とはまた格別の有様じゃ。時に、この度は展墓にでも帰ったのか」
「はい、実は――」と信太郎は盃を措いて、「突然のことで、甚だ不躾とは存じますが、予て父が在藩中にお約束申上げました、御息女との婚約の事に就きまして」「おお、では文絵を迎えに来て呉れたのか」
信太郎は顔を赫くしながら眼を伏せた。然し監物はそのまま黙ってしまった、暫くしても返辞がないので、そっと眼をあげて見ると、手を膝に置いて眼を閉じた監物の眉が苦しそうに深い立皺を刻んでいる。
――ああ、すでに文絵は他へ嫁したな。
信太郎は恟恟としながらそう思った。だが、間もなく監物の口から出た言葉は、それ以上に愕くべきものだった。
「――忝い、よく迎えに来て呉れた」
監物は低い声で云った、「十五年といえば短い月日ではない、然も山河遠く離れ、音信も交さずに過して来たものを、よく忘れずにいて呉れた。若し、若し……文絵が生きていたら、どんなに悦んだことであろう」
「えッ? 生きていたら、とは」「娘は死んだ」「――――」
「去年の秋から病みついて、この春の花を待たずに死んで了ったのだ」
信太郎はあっと息をのんだ。胸の一部にいきなり大きな穴が明いた感じだった、それからその穴を埋めるように、悲しさと落胆とが、一時にどっと烈しく押寄せて来た。若し血が声を発するものなら、そのとき信太郎の全身は哀哭の叫びで引裂けたに違いない。
「残念だが、最早なんとも致方がない、諦めて呉れ信太郎」
監物の慰める言葉を遠いものに聞きながら、やがて信太郎は咽ぶように云った。
「仏間へ御案内願えませぬか」「回向して呉れるか、――さぞ文絵も喜ぶであろう、では此方へ」
監物は起って襖を明けた。
まだ半ば夢見る心地で、灯明の揺れる仏壇の前へ坐った信太郎は、線香をあげ、鐘を打って静かに合掌した。
信太郎は泣かなかった、不思議なくらい泣けなかった。ただその胸に出来た空虚な穴のようなものが時と共に大きくなり、息苦しい絶望の感じが犇々と五体を圧しつけるのだった。監物は黙って、痛ましそうにその様子を見戍っていた。もう慰めの言葉などは云うすべもなかったのである。
寝苦しい一夜が明けた。
朝は清々しい微風と共に快よく晴れたが、信太郎はゆうべよりも新しい悲しみのなかに眼覚めた。気がつくと何処か、さして遠くない部屋から琴の音が聞えて来る、哀調のみなぎる曲であった。じっと耳を澄ましていると、やがて曲に合せて切々たる唄が、……
うらめしのわが縁
薄雪の契りか消えにし
人の形見とて
涙ばかりや残るらん――
朝顔の曲である、絃の音色も唄も、そのまま信太郎の哀傷を歌うもののようだ。
「……文絵、――文絵……」
思わず低く呼んだが、こみあげて来る涙を感じると慌てて起上り、着換えをして庭へ下り立った。
朝食の席に着いた時、監物の隣に一人の娘が坐った、色の透徹るように白い、眉に憂いを含んだ、淋しげな然し驚くほど美しい顔だちである。信太郎はこれが先刻の琴の主だなと思って見た。娘は盲いていた。
「信太郎、――」
監物が静かに云って、「これは文絵の従妹に当る者で小雪と云う。見る通り眼が不自由だが、文絵とは姉妹のように育って来た。彼女のことなら何でも知って居るゆえ、話し相手になってやって呉れ」
「は、それは拙者こそお願い致します」
言葉少なに挨拶を交して箸を執った。娘のそばには乳母とも見える老女が附いて、まめまめしく介添をしてやっていた。と……食事半ばに若い家士が小走りに来て、
「――申上げます」と襖際に手をつき、「唯今、横目方より急の書状を持参仕りました」
そう云って文筥を差出した。
「直に御披見下さるようと……」「うむ」
監物は箸を措いて向き直る、文筥を明けて書状を繰り披げた。文面は一句、走り書きで、
(御槍奉行、柴野靱負殿儀、昨夜雨中宗念寺畔に於て暗殺。只今死体発見仕り候、即刻御登城を……)
みなまで読まず、
「しまった」と云って監物は起つ、
「急の御用が出来した、わしは直ぐ登城するゆえ、信太郎の接待は小雪に頼むぞ」
そう云い捨てて愴惶と去って行った。
×
風渡る庭の翠を前に、信太郎と小雪は相対して座っていた。文絵と姉妹のように育って来たという事を聞いて、信太郎には小雪が他人と思えぬ親しいものに感じられた。
「――文絵どのは、拙者のことを御存じだったでしょうか」
やや暫くして信太郎が訊くと、娘は韻の深い声で、然し細々と答えた。
「はい、存じあげて居りました」「…………」「従姉上さまは毎も、貴方さまのお噂をわたしに聞かせて下さいましたわ、殊に……ご病気になってからは」小雪の声は顫えた。
「……生きている内に一度お眼にかかりたい、ひと眼お会いしてから死にたいと、口癖のように申して居りました。貴方さまもお待ち遊ばしたでしょうけれど、従姉上さまも……ずいぶんお待ち申していましたわ」「有難う、よく云って下すった」
こみあげて来るものをじっと耐えながら、信太郎は心から云った。
「これで本望です、拙者を待っていて下すったという、それさえ分れば……本望です。未練者とお笑い下さるな、文絵どのとの約束を聞かされて十年このかた、現にも夢にも忘れることの出来なかった俤……今でも眼の裏に見えています。信太郎には、文絵どのの他に妻と呼ぶべき者はないのです、せめて是だけのことを云いたかった」「従姉は……仕合せ者でございますわ」
小雪は袂を顔に押当てた。そして耐えがたい嗚咽に、暫し肩を顫わせていたが、やがて静かに涙を押拭って、
「泣いたりして、御免遊ばせ」「拙者こそ悪いことを申しました。ただ、文絵どのと御姉妹のように育って来られたと伺ったので、誰にも云うことの出来ぬ愚痴を、つい聞いて頂きたくなったのです」
「……従姉上さまが聞いたら、――さぞ……」
消えるように云って、又しても溢れてくる涙を隠そうとしてか、小雪は軽く咳きながら外向いた、信太郎も暫くは黙って、そのままじっと膝の上を覓めていたが、やがて気を変えるように云った。
「失礼なお訊ねですが、さきほどのお琴は貴女がお弾きになったのですね」「……お恥しゅう存じます」「たしか朝顔の曲だと思いましたが」「はい」
小雪は頷いて「亡き従姉上がお好きで、あの曲を弾くと毎も……貴方さまのことが想われる、と申して居りました。――涙ばかりや残るらん……という唄の意をそのまま自分の身にひきくらべていたのでございましょう、あの曲を弾いては、よく泣いて居りました」
朝の眼覚めに、それを聞いて自分の悲しさを歌われると思ったのは信太郎だけではなかった。文絵も同じ思いに泣いたと云う。……信太郎はまざまざとそこに、亡き文絵の心の姿を見るように思った。――その時、庭隅の方で突然、けたたましく犬の吠える声が起り、
「うるさい畜生だ、ぶった斬るぞ」という荒々しい声が聞えた。
穏かでない声なので見やると、庭前へ鳥刺しの装束を着た男が二人、長い黐棹を手にしてずかずかと入って来た。そしてこの家の飼犬らしい栗色の逞しい犬が、背筋の毛を逆立てながら凄じい勢いで吠えかかっている。
「どうしたのでしょう、とちがたいそうに吠えているようですけれど」「なんだか妙な男がお庭へ」
信太郎が小雪の問いに答えた時、鳥刺しの一人がいきなり脇差を抜いて、
「この畜生」と叫びながら犬に斬りつけた。
「あ! とちが」
小雪が息を引いて叫んだ、同時に信太郎は大剣を執って広縁から庭へ跳び下り、吠えながら逃げる犬を追おうとする男の前へ、ぱっと割って入った。
「待て待て、何を乱暴するのだ」「なにい」男は眼を怒らせて信太郎を睨め下した。
「貴公たちは何だ、見れば鳥刺しのようだが、断りもなく他家の庭へ踏込み、飼犬を斬ろうなどとは無礼な振舞い、ここが誰の屋敷か知らぬ訳はあるまい」「へっへっへ」男は卑しく笑った。
「知っていたらどうするのだ、我々は鳥刺し組の者だぞ、お鷹の餌鳥刺しだぞ」「ここが何誰様のお屋敷であろうと、餌鳥刺しの我々に吠えつくような犬は、ぶった斬るのになんの遠慮があるものか、それともこの屋敷ではお鷹の餌鳥を刺させねえとでも云うのかね」「下手に騒ぐと後で咆面をかくぜ」
思い切った侮辱である。信太郎が我慢ならじと、「――無礼者」と叫んで踏み出す、とたんに小雪が、「あれ信太郎さま、いけませぬ」と広縁から叫んだ、「お鳥刺し衆にお逆い遊ばしてはなりませぬ」
「いや、いかになんでも無道な奴等ゆえ」「いえいえ、わたくしがお願い致します、どうぞとちを押えてお引下り下さいませ、どうぞお願い申します」
広縁から身を乗出すようにして、懸命に呼びかける様子が如何にも仔細ありげだった、信太郎は尚も吠え猛る犬を制しながら、胸をさすって退いた。
鳥刺し共は汚らしく唾を吐き「態あ見ろ」と云わんばかりに、庭木のあいだを散々に踏み荒らして廻った。
三
「あれは一体どうした事なのです」
鳥刺しの男たちが立去ってから、信太郎は不審で堪らなそうに訊いた。小雪は蒼白めた顔に弱々しい微笑をうかべながら、
「お上の御意でございますわ、御拳の鷹の餌鳥を獲るために、鳥刺し組の者は領内何れの屋敷へも出入り勝手と、御触れが出ているのでございます」「餌鳥を獲るなら人の屋敷へ入るより、野山へ参れば宜しゅうござろう」「さあ、それが……」そう云って小雪は口を噤んだ。
信太郎は益々不審に思ったが、どうしても小雪はそれ以上の説明はしなかった。是には必ず何か訳がある、そう思った時ふと、信太郎は昨夜門番へ槍を預けたことを思いだした。
――そうだ、こんな事は却って門番などの方が精しいかも知れぬ。
そう気付いたから直ぐ門番小屋へ出掛けて行った。そこには五十歳あまりになる老番士がいて、丁寧に信太郎を迎えた。
「預けた槍はあるだろうな」「はい、お預り申してござりまする、お持ちなされまするか」「ちょっと見せて呉れ」
老番士は直ぐ小屋の奥から槍を持って来た。信太郎が受取って見ると、穂先は「麦穂」と呼ばれる四稜の大身で、柄の千段巻の下と、鐓に近いところが青貝散らしになっている、有りふれた道具ではない、
「さっき鳥刺し組の者が庭へ入って来たのを知っているか」槍を見ながら何気ない調子で訊いた。
「存じて居りまする、二度や三度のことではないので、実に心外に耐えませぬ」「御城主の御触れだそうだな」「なあに、みんな腹黒い奴共の企んだ仕事でござりまするよ」
老番士は重い口調で云った、「――本当に餌鳥を獲るためなら、三階山へでも行けば余るほど居りまする。それを……神尾采女がお上を焚きつけて、こんな街中の屋敷へ出入り勝手という御触れを出させたのは、あの通り乱暴狼藉をさせたうえ、万一これに逆いでもすれば、御触れを盾にとって罪に陥れようという卑怯な手段でござります」「だが如何になんでも御老職たる当家まで、それを黙っている法はあるまい」
老番士はちらと信太郎を見上げて、
「失礼でござりますが、貴方様は安倍様の若様でいらっしゃいましょう」「知っているか」「はい、存じ上げて居ります。安倍様はあのとき御退身遊ばして良い事をなさいました、いま貴方様は『御老職たる当家まで黙っている法はあるまい』と仰せられましたが、現に御相談役の河内信濃様が、鳥刺しの黐棹を踏み折ったかどで、永の閉門というきびしいお咎めを受けた程でござります」「然し、それを何とも云う者はないのか」「ござりました」
老人は眉を曇らせて、「――御槍奉行の柴野靱負様が、堪りかねてお上へ御諫言を申上げたそうでござります」「それで、どうした」「お気の毒に……柴野様は昨夜、宗念寺の畔で闇討ちに遭い、敢えなく御最期」「なに、宗念寺で昨夜と云うか」
信太郎は恟とした。昨夜雨中、闇の中から槍をつけた曲者があった、人違いだと云って立去ったが、それでは彼奴等……その後で柴野靱負を暗殺したに相違ない。
「さきほど旦那様が急に御登城遊ばしたのは、横目方よりその報知が来たからでござります。采女に睨まれる者は、みんないつかは同じような最期をみるのでござりましょうよ」「采女の屋敷は何処にある……」「お止し遊ばせ、安倍の若様――」老番士は労わるように云った、「神尾の屋敷は墨小路にござりますが、采女は要慎深い奴で、たいていは鶴ヶ浜の下屋敷に隠れているとのこと、迂濶に手出しでもなされると、どんな罠にかかるか知れませぬ。これまでも再三、血気の方が采女を刺そうとして逆に討たれているのです、どうぞ軽はずみな事はなされますな」「なに、別に何をしようと云う訳ではない」信太郎は立上って、
「この槍はもう暫く預って置いて呉れ」「はい」「鞘が無いから、晒木綿でも巻いて置いて貰おうかな」「畏りました」
門番小屋を出た信太郎は、いちど部屋へ帰ったうえ、市を見物して来ると云い置いて、外へ出掛けた。
×
信太郎は生れて初めて、烈火のような怒りを感じていた。
「なんという奸悪邪智の侫人だ、手段を選ばず斬って来いと仰せられた父上のお言葉が今こそ分る、斬ってやる、必ずこの手で斬ってやるぞ」
それが若し幾らかでも監物のために役立つとすれば、亡き文絵への手向にもなろう。
亀山城の大手から武家屋敷へ入って神尾采女の上屋敷を見た後、更に浜田川に添った海辺へ出た、石州随一の港と云われるだけあって、湾内は波静かに深く澄み、瀬戸ヶ島、矢箆島などという多くの小島が、美しい翠巒を水に写している。鶴ヶ浜にある采女の下屋敷は、香も新しい壮大な別墅造りで、その島々を前に見晴らす景勝の地に建っていた。
仔細に見廻ったが、老門番の云った通り如何にも要慎堅固で、上屋敷も下屋敷も到底外から忍び込むことは出来そうにない。
「――是は駄目だ」舌打をしてその日は帰った。
それから五日のあいだ、懸命に探り廻った結果、信太郎は次のような事実を慥めた。即ち采女はずっと鶴ヶ浜の下屋敷にいて、そこから登城すること。下城の刻限は一日おきに晩く、早い日が酉の上刻(午後六時)晩い日は戌の下刻(午後九時)に及ぶこと。登城下城の供は厳重を極め、鉄砲二挺、槍七本、徒士二十人という人数であること、等である。
「討つなら晩い下城の途中だ」信太郎はそう思った。
然しそれにしても相手は人数も多く、鉄砲という武器があるから、余程その場所と時とを選ばなければならない、五日めの夜、信太郎はその場所を捜して、三ヶ所を得た、その一つは宗念寺の塀外である。そこは片側が寺の長い土塀、片側が杉林と竹の疎林になっていて、狙うには如何にも屈竟である。
「面白いぞ、彼等が柴野靱負を暗殺するのに用いた場所を、こっちでそのまま返上してやるとしよう、ここに限る」信太郎はそう決めて帰った。
馬場外の屋敷へ帰って、自分に与えられた部屋へ入ろうとすると、奥の間から琴の音が聞えて来た。ふと足を停めて聞くと、
しののめのまがきに
露をふくむ朝顔
玉のかずらたおやかに
かかる花のおもかげ――
「ああ、――いつかの朝顔の曲……」
信太郎は、この四五日忘れていた悲しみが、満潮のように胸へ甦ってくるのを感じた。琴の音は哀調を含んで、咽ぶように、訴えるように断続している。信太郎は我にもなく、惹かれるようにその部屋の障子外へ行って佇んだ。歌声は嫋々と起って、
うらめしのわが縁
薄雪の契りか消えにし
人の形見とて――
それを歌うたびに、信太郎を想って泣いたという悲しい唄である。
涙ばかりや残るらん……
と聞きも果てず、つきあげてくる涙を抑えかねて、信太郎はくくと喉を鳴らし、両手で面を蔽いながら嗚咽を忍んだ。その時、琴の音がはたと止んで、
「――そこに誰かいやるか」と小雪の声がした。
「信太郎でござる」「ああ――」
小雪の驚く気配がして「どうぞお入り遊ばしませ、取散らして居りますけれど……」「いや晩うござるから失礼致します。通りかかりに琴の音をうかがったものですから、思わずお騒がせ仕った。どうぞお赦し下さい」「いいえ却ってお恥しゅう存じます」小雪の声は、心なしかうるんでいた。
「――お入り遊ばしませぬか」「忝うござるが、また明日にでも」「左様でござりますか、ではこのまま失礼を……」「――御免」
強く惹かれる気持を抑え、そこを離れて廊下のかどまで来ると、後に障子の開く音がした。振返って見ると小雪の淋しい顔が、じっと此方を見送っていた。
四
烈風が雨雲を北へ北へと吹き払っていた。
さっきひと降り来たあとで、道の上には溜り水がある、丸に剣菱の紋を打った提灯をさきに、神尾采女の下城の行列が、ひたひたと宗念寺の塀外へかかって来た。
采女が反対派の刺客を怖れていた事は、その屋敷構えでも知れるし、供立の様子でもよく分る、実際これまで再三度にわたって不意の襲撃を受けたことがあるのだ。今や情勢は完全に彼の方へ傾いているし、もはや刺客などを怖れる必要のないまでに、彼の勢力は決定的になっていたが、それでも彼は警戒を緩めなかった。
信太郎は革紐の襷をかけ、足拵えを厳重に、然も身軽く、先夜奪い取った槍を小脇にして、じっと機を狙っていたが、采女の駕籠が眼前にさしかかったとき、竹林の中から道へ踏出して、大音に、
「神尾采女、天誅だ」
叫びざま駕籠の中へ一槍入れる。手応えありとみるや、さっと槍を引いて竹林の中へ引返した。殆ど一瞬の出来事である。
「曲者、曲者だ!」「逃がすな!」わっと乱れる供侍たち、「お駕籠を早く、早く行け」
供頭の叫ぶ声がして、徒士二十人は抜きつれながら竹林の中へばらばらと踏込んだ。烈風に煽られる竹叢の左手に当って、明かに人の動く物音がする。
「向うだ、左から廻れ」「右手を詰めろ」と喚き交しながら物音をめあてに進む。鉄砲を持った二人の足軽が、闇の中を盲撃ちに、だーん、だーん、と三四発撃ちかけた。
然しその時すでに信太郎は、竹林の中を追手とは反対の方へぬけていた、彼等はやがて二十間も先の竹に結びつけた繩の仕掛けを発見するに違いない、信太郎はそれを引いて、彼等の追跡を逆に誘ったのである。
供頭は駕籠の中から采女の呻きのもれるのを聞きながら、一刻も早く現場から遠のくことを考えていた。
「急げ、急げ」
陸尺を急きたてながら、宗念寺の土塀を出端れて左へ曲る、とたんに先へ廻って待構えていた信太郎が、無言のまま供頭の太腿へ一槍つけた。
「わっ!」と悲鳴をあげて倒れるやつを、殆ど踏み越えざまに鐓を返して陸尺の足を払った。だあっと横倒しになる駕籠、
「あ、曲者、曲者!」仰天して喚く駕籠脇の供侍五名、抜合せる暇も与えず二人を突き伏せ、
「邪魔するか、退け!」と叫んだ。眼にも止らぬ早業、虚に虚を衝かれて狼狽しきっていたから、この一喝を喰うと残った三名はひと堪りもなく逃げだして了った。信太郎は手向う者なしと見て、つかつかと駕籠の側へ近づき、倒れているのへのしかかるようにしながら、
「采女――采女!」と呼びかけて、ぐいと引戸を明けた、その刹那である、覗きかかる信太郎の喉元を狙って、駕籠の中からさっと短剣を突上げて来た。危い一撃、実に危い一撃だった。
「あ!」と一髪の差で身を捻る、突出して来た腕をひっ掴んで、ぐぐっと絞りながら、
「うん、さすがに一国を毒する奸物だけあるな、その重傷でよく最期の一刀が用いられた、褒めてやるぞ」「な、名乗れ、何者だ!」「十五年以前、貴様のために退国した安倍信右衛門の一子、信太郎正邦だ」「あ、安倍……」
愕然と呻くやつを、引起すようにして、差添を抜きざま一刀、胸元深く刺す、――もう一刀。――止めを刺して振返ると、走って来る人の足音、信太郎は駕籠へ例の槍を立掛けて置いて足早に闇の中を立去った。
同じ頃、同じ烈風を聞きながら。
建部監物は自分の居間で、宵のうちから何通かの手簡を書いていたが、やがてそれも終ったらしく、最後の上封へ、
――遺言状。と認めて筆を擱いた。
御槍奉行の柴野靱負が闇討ちに遭った時、すでに監物は我が事畢んぬと思った。最早どんな手段をもってしても采女の勢力を掣肘することは出来ない。彼はいま運命の波に乗っているのだ、正面から逆えば此方が破砕されるに定っている、
「万策尽きた、斬ろう」と彼は決心したのである。
是までにも義憤の士が再三、彼の屋敷や途上を襲って刺そうとしたが、いずれも失敗に帰したのは、狐のように要慎深い采女の、厳重な警護に妨げられたからであった。然し如何に采女でも城中では裸だ、間近に相対している隙を狙ったら、老いたりとも建部監物、
「采女一人やわか討たで置くべき!」と必殺を期したのである。
×
「――御免下さい」襖の向うで声がした。
「誰じゃ」「信太郎でございます」
監物は手早く机上の書き物を片づけた。信太郎の入って来る気配に、
「何処かへ出掛けたと聞いたが」「はい、ちょっとそこまで出て参りました」
返辞なかばに振向いた監物は、すっかり旅支度の出来ている信太郎を見て驚いた。
「どうしたのだ、その姿は」「お暇仕り度いと存じまして」「なに帰る……この夜中にか」「長々とお邪魔仕りましたが、急に思いたちましたので、甚だ勝手ながらこれから出立致したいと存じます」
監物は惘然と手を拱いた。……明日こそ城中に采女を斬って自刃しようと、覚悟を決した監物は、信太郎に托すべき数々の事があって、既に遺書も認めてあるのだ。
「一両日延ばす訳にはゆかぬか」「はい、是非これより立たせて頂きたく、実はいま駕籠も申し付けてまいりました。幸い雨もやみました様子、雲間に月も見えまするゆえ、月見ながらの夜道も風流かと存じまする」「――――」監物は黙って机上の鈴を振った、そして若侍が来ると、
「小雪にこれへ参れと云え」と命じた。小雪が乳母に手を曳かれて入って来ると、監物は暗い眼を振向けて、
「信太郎がこれから江戸へ帰るそうだ」「え……」小雪の顔がさっと蒼ざめた。
「突然参上致し、長々とお世話を相掛けました、急に思いたちましたので、これから出立仕りたいと存じます」「それは、……急な、――」「御厄介の御礼も致さず、不本意千万ではござりまするが、幾重にも御容赦下さい」そう云って信太郎は監物の方へ向直り、
「お別れに就てお願いがございます、文絵どのの御位牌を頂戴致しとうございます」「位牌をどうする」「信太郎の妻は文絵どの唯一人、生涯文絵どのの位牌を守って、冥福を祈りたいと存じます」
監物はじっと信太郎の面を覓めていたが、
「未練だぞ信太郎、文絵をそれほどに想って呉れる志は忝ないが、その方は安倍の家名を継ぐべき大切な身上、一日も早く他より嫁を迎えて、親に安心をさせるが孝の道だ」「孝の道、――そうかも知れませぬ」
信太郎は顔を伏せて「私の願いは、未練かも知れませぬ、けれど――小父さま、……信太郎は十年も、十年も文絵どのの幻を胸に秘めて来たのです、顔も覚えず姿も知りませぬが、私の心には消すことの出来ない文絵どのの俤が刻みつけられています……他の者はどうあろうとも、私には忘れられません、未練者とお笑い下さい、信太郎には、文絵どのの他に生涯妻はないのです」
監物は黙っていた。小雪も蒼白めたおもてを伏せたまま黙っていた。然し、娘の脇にひき添った乳母は、肩を顫わせながら袖を眼に押当てていた。
「かね、位牌を持って来てやれ」監物が暫くして云った。
「――旦那さま」「ええ早く持って来るのじゃ」乳母は起って行ったが、直ぐに位牌を捧げて来た。
「頂戴致します」信太郎は押戴いて受取ると、じっと位牌の面を覓めてから、静かに旅嚢の中へ納め、「それでは是で」と立上った。とその時である。乳母のかねがいきなり、
「お待ち下さいませ」と堪りかねたように叫んだ、「もうわたくしは我慢が出来ませぬ、お嬢さま、どうか本当の事をお話し遊ばせ」「これ何を申すか!」「いえ、いえ申します、余りと云えば情の強い、位牌を生涯の妻にするとまで仰せられた、信太郎さまのお言葉が貴女には聞えませぬか、なんぼうお気丈な貴女でもそれでは余り恐ろしゅうござります。安倍の若様、今こそお打明け申しまする、貴方のお持ち遊ばした位牌は小雪と云われる旦那さまの姪御のもの、これにおいでなさるのが真の文絵さまでござりまする」
遮る暇もなく、咽びながら一気に叫び終るのを聞いて、信太郎は雷に撃たれたようにそこへ立竦んだ。
「信太郎、赦して呉れ」監物が云った、「かねの申す通り、これが――文絵じゃ、今まで欺いていた罪を赦して呉れ」「何故、何故またさような」「十五年以前の約束を守って、遙々来て呉れたおまえに対して、盲いた娘をこれが文絵だと云うことが出来ようか。出来なかった、わしには出来なかったのだ」
小雪は、否、文絵は、袖で面を蔽いながら泣き伏した。
「文絵どの、お仕度をなさい」信太郎がきっぱりと云った。
「どうするのじゃ」「駕籠は表に来ています、直ぐに江戸へ出立致しましょう、夜道をかけて初めての夫婦旅、寒くないように支度をするのです」「では盲いの娘を」「信太郎の妻は文絵どのです、さあ」
力強く差出す手へ、文絵は涙で濡れた顔を振向けながら惹かれるように縋りついた。
「今宵唯今から、信太郎が貴女の眼になります、何ものも怖れず、しっかりとこの手を掴んでおいでなさい」「――信太郎さま」
文絵の声は歓びと感動にわなわなと顫えていた。監物も乳母も泣きながら、然しつきあげて来る悦びに顔を輝かしていた。
半刻の後である。信太郎と文絵の二人を送り出した監物が、
「これで心残りなく采女を斬って死ねる」と居間へ入って書類の始末にかかった時、家士が遽しくやって来て、
「申上げます」「何じゃ」「唯今横目役より使者にて、神尾采女殿が何者かに闇討ちをかけられ、その場で絶命と」「なに、采女が」監物は愕然として立上った。
「即刻御登城くださるようにと、御門前へお迎えが参って居ります」「よし、登城するぞ」支度を直す暇もなく、大剣を取る、
「そうか」と呻くように云った。
「信太郎め、やり居ったか、夜中急に出立とはいぶかしいと思ったら、みごと先手を打ち居ったな、――さすがは信右衛門の伜、憎い奴め」
思わず浮かぶ頬笑みを、ぐっと噛み殺しながら玄関へ出ると、門前には無数の提灯が犇めき動いていた。その中には昨日まで、采女の権力に阿っていた者たちの紋が、三五ならず明かにそれと見えている、
「ふむ、是で浜田藩も夜が明けるぞ」
莞爾として玄関を出た。いつか吹きやんだ風に、空はぬぐったように晴れて、皎々たる月が西にかかっていた。