国訳史記列伝
箭内亙による譯
老子は楚の苦縣の厲郷、曲仁里の人也。姓は李氏、名は耳、字は伯陽、諡を聃と曰ふ。周の(一)守藏室の史也。孔子、周に適き、將に禮を老子に問はんとす。老子曰く、『子の言ふ所の者は其人と骨と皆已に朽ちたり、獨り其言在る耳。且つ君子は、其時を得れば則ち(二)駕し、其時を得ざれば則ち(三)蓬累して行る。吾之を聞く、良賈は(四)深く藏して・虚なるが若く、君子は盛徳ありて容貌愚なるが若しと。子の(五)驕氣と多欲と(六)態色と(七)淫志とを去れ。是れ皆子の身に益無し。吾が子に告ぐる所以は是の若き而已』と。孔子去つて弟子に謂つて曰く、『鳥は吾其の能く飛ぶを知り、魚は吾其の能く游ぐを知り、獸は吾其の能く走るを知る。走る者は以て(八)罔を爲す可く、游ぐ者は以て(九)綸を爲す可く、飛ぶ者は以て(一〇)矰を爲す可し。龍に至つては、吾其の風雲に乘じて天に上るを知ること能はず。吾今日老子を見るに、其れ猶ほ龍のごとき邪』と。
老子、(一一)道徳を修む、其學は自ら隱して名無きを以て務と爲せり。周に居ること之を久しうして、周の衰ふるを見、廼ち遂に去つて、(一二)關に至る。(一三)關令尹喜曰く、『子將に隱れんとす、彊ひて我が爲めに書を著はせ』と。是に於て老子廼ち書上下篇を著はし、道徳の意を言ふこと五千餘言にして去れり。其の終る所を知る莫し。或は曰く、『老莱子も亦楚人也、書十五篇を著はして道家の(一四)用を言ふ。孔子と時を同じうすと云ふ』と。蓋し老子は百有六十餘歳、或は言ふ二百餘歳と。其の道を修めて壽を養へるを以て也。孔子死してより後百二十九年にして、(一五)史記に『周の太史儋、秦の獻公を見て、「始め秦、周と合して離れ、離れて五百歳にして復た合し、合して七十歳にして霸王たる者出でん」と曰ふ』とあり。或は曰く、『儋は即ち老子なり』と。或は曰く、『非也』と。世、其の然るや否やを知る莫し。
老子は隱君子なり。老子の子、名は宗。宗、魏の將と爲り、段干に封ぜらる。宗の子は注。注の子は宮。宮の玄孫は假。假、漢の孝文帝に仕ふ。而して假の子解、膠西王卬の(一六)太傅と爲る。因て齊に家せり。世の・老子を學ぶ者は則ち儒學を絀け、儒學も亦老子を絀く。『道、同じからざれば、相爲めに謀らず』とは、豈是を謂ふ邪。(一七)李耳は無爲にして自ら化す、清靜にして自ら正し。
莊子は(一八)蒙人也。名は周。周嘗て蒙の(一九)漆園の吏たり。梁の惠王・齊の宣王と時を同じうす。(二〇)其學は闚はざる所無し。然れども其要は老子の言に本づき歸す。故に其著書十餘萬言、大抵率ね(二一)寓言也。(二二)漁父・盜跖・胠篋を作り、以て孔子の徒を詆訿し、以て老子の(二三)術を明にせり。(二四)畏累虚・亢桑子の屬、皆空語にして事實無し。然れども善く(二五)書を屬し辭を離ね、事を指し情を類し、用て(二六)儒・墨を剽剥す。當世の(二七)宿學と雖も(二八)自ら解免すること能はざる也 其言(二九)洸洋自恣以て己に適ふ。故に王公大人より、能く之を(三〇)器とせざりしなり。
楚の威王、莊周の賢なるを聞き、使をして(三一)幣を厚うして之を迎へしめ、(三二)許すに相と爲すを以てす。莊周笑つて楚の使者に謂つて曰く、『千金は重利なり、卿相は尊位也。子獨り(三三)郊祭の犧牛を見ざる乎。之を養食すること數歳、衣するに(三四)文繍を以てし、以て(三五)太廟に入る。是の時に當つて、(三六)孤豚たらんと欲すと雖も、豈に得可けん乎。子亟かに去れ、我を汙すこと無かれ。我寧ろ(三七)汙涜の中に遊戲して自ら快うせん。國を有つ者に(三八)覊せらるること無からん。終身仕へず、以て吾が志を快うせんかな』と。
申不害は(三九)京人也。故鄭の賤臣なり。(四〇)術を學び、以て(四一)韓の昭矦に干む。昭矦用て相と爲し、内、政教を修め、外、諸矦に應ずること十五年、申子の身を終るまで、國治まり兵彊く、韓を侵す者無かりき。申子の學は、(四二)黄老に本づき、(四三)刑名を主とせり。書二篇を著はす。號して申子と曰ふ。
韓非は韓の(四四)諸公子也。刑名法術の學を喜む、而して(四五)其歸は黄老に本づく。非人と爲り口吃し、(四六)道説すること能はず、而して善く書を著はす。李斯と倶に荀卿に事ふ。斯自ら以爲へらく、非に如かずと。非、韓の削弱せらるるを見、數〻書を以て韓王を諫む、韓王用ふること能はず。是に於て韓非、(韓王ノ)國を治むるに、其法制を修明し・(四七)勢を執つて以て其臣下を御し・國を富まし兵を彊うして・以て人を求め賢に任ずるを務めず、反つて(四八)浮淫の蠧を擧げて・之を(四九)功實の上に加ふるを疾へ、以爲へらく、(五〇)儒者は文を用て法を亂し、而して(五一)侠者は武を以て禁を犯す。(五二)寛なれば則ち名譽の人を寵し、急なれば則ち介冑の士を用ふ。今は養ふ所は用ふる所に非ず、用ふる所は養ふ所に非ずと。廉直の・(五三)邪枉の臣に容れられざるを悲み、(五四)往者得失の變を觀る、故に(五五)孤憤・五蠧・内外儲・説林・説難、十餘萬言を作る。然れども韓非は説の難きを知り、説難の書を爲ること甚だ具はれるも、終に秦に死し、自ら脱るること能はざりき。
(五六)説難に曰く、『凡そ説の難きは、吾が知の以て説くこと有るの難きに非ざる也。(五七)又吾が辯の能く吾が意を明にするの難きに非ざる也。又吾が敢て(五八)横失して能く盡すの難きに非ざる也。凡そ説の難きは、(五九)説く所の心を知つて(六〇)吾が説を以て之に當つ可きに在り。説く所、(六一)名高を爲すに出づる者なるに、之に説くに厚利を以てせば、則ち(六二)下節とせられ、而して卑賤とせられ、必ず棄遠せられん。説く所、厚利に出づる者なるに、之に説くに名高を以てせば、則ち無心にして事情に遠しとせられ、必ず(六三)收められざらん。説く所、實は厚利を爲さんとして顯に名高を爲す者なるに、之に説くに名高を以てせば、則ち陽に其身を收めて實は之を疏んぜん。若し之に説くに厚利を以てせば、則ち陰に其言を用ひて顯に其身を棄てん。此を之れ知らざる可からざるなり。夫れ事は密を以て成り、語は泄るるを以て敗る。未だ必ずしも(六四)其身之を泄さざるも、而も(説者ノ)語(適〻)其の匿す所の事に及ばんに、是の如き者は身危し。貴人(六五)過端有り、而して説者、明かに善議を言ひ以て其惡を推せば則ち身危し。(六六)周澤未だ渥からざるに、而も(六七)語極めて知なれば、説行はれて功有るときは則ち(六八)徳亡く、説行はれずして敗有るときは則ち疑はれん、是の如き者は身危し。夫れ(六九)貴人、計を得て、自ら以て功と爲さんと欲するを、説者與かり知れば則ち身危し。(七〇)彼顯に出だす所の事有り、廼ち自ら以て也故と爲すに、説者與かり知れば則ち身危し。(七一)之に彊ふるに其の必ず爲さざる所を以てし、之を止むるに其の已む能はざる所を以てする者は身危し。故に曰く、之と大人を論ずれば則ち以て己を(七二)間すとせられ、之と(七三)細人を論ずれば則ち以て(己ノ)權を(七四)鬻ぐとせられ、其の愛する所(ノ人)を論ずれば則ち以て(七五)資を借るとせられ、其の憎む所(ノ人)を論ずれば、則ち以て己を嘗むとせらる。其辭を(七六)徑省すれば、則ち(七七)不知として之を屈し、(七八)汎濫博文なれば、則ち之を多しとして(七九)久しとす。(八〇)事に順ひ意を陳ぶれば、則ち怯懦にして盡さずと曰ひ、事を慮ること(八一)廣肆なれば、則ち(八二)草野にして(八三)倨侮なりと曰ふ。(八四)此れ説の難き、知らざる可からざる也。凡そ説の務め、説く所の敬する所を飾り・而して其の醜む所を(八五)滅するを知るに在り。彼自ら其計を知とせば、則ち其失を以て之を(八六)窮むる無かれ。自ら其斷を勇とせば、則ち(八七)其敵を以て之を怒らす無かれ。自ら其力を多とせば、則ち(八八)其難を以て之を(八九)概する無かれ。異事の與に計を同じうするを規り、異人の與に行を同じうするを譽めば、則ち以て之を飾つて・傷ふ無かれ。與に失を同じうする有らば、則ち明かに其の失無きを飾れ。大忠は(九〇)拂辭する所無く、(九一)悟言は(九二)撃排する所無く、廼ち後に其辯知を申ぶ。此れ親近せられて疑はれず・(九三)之が難を盡くすを知る所以也。(九四)曠日彌久して(九五)周澤既に渥きを得ば、深く計るも疑はれず、交〻爭ふも罪せられず、廼ち明に利害を計りて以て其功を致し、直ちに是非を指して以て(九六)其身を飾る。此を以て相持する、此れ説の成る也。伊尹は(九七)庖と爲り、百里奚は(九八)虜と爲る、(九九)皆由つて其上に干めし所也。故に此二子は皆聖人なるも、猶ほ身を役して世を渉る此くの如く其れ汙きこと無き能はず。則ち(一〇〇)能仕の設づる所に非ず。宋に富人あり、天雨りて墻壞る。其子曰く、「築かずんば且に盜有らんとす」と。其鄰人の父も亦云ふ。暮にして果して大に其財を亡ふ。其家甚だ其の子を(一〇一)知として、鄰人の父を疑へり。昔鄭の武公、胡を伐たんと欲し、廼ち(一〇二)其子を以て之に妻せたり。因つて羣臣に問うて曰く、「吾、兵を用ひんと欲す、誰か伐つ可き者ぞ」と。關其思曰く、「胡伐つ可し」と。廼ち關其思を戮して曰く、「胡は(一〇三)兄弟の國也、子之を伐てと言ふは何ぞや」と。胡君之を聞いて、鄭を以て己に親しむと爲して、鄭に備へず。鄭人胡を襲うて之を取れり。(一〇四)此二説は其知皆當れり。然れども甚しき者は戮せられ、(一〇五)薄き者は疑はる。知の難きに非ざる也。(一〇六)知に處する則ち難きなり。昔、彌子瑕、衞君に愛せらる。衞國の法、竊に君の車に駕する者は罪、(一〇七)刖に至る、既にして彌子の母病む。人聞き、往いて夜之を告ぐ。彌子矯つて君の車に駕して出づ。君之を聞きて之を賢として曰く、「孝なるかな、母の爲めの故に刖罪を犯せり」と。君と果園に游ぶ。彌子、桃を食うて甘し。(彌子)盡さずして君に奉る。君曰く、「我を愛するかな、其口を忘れて我を念ふ」と。彌子色衰へて愛弛び、罪を君に得るや、君曰く、「是れ嘗て矯つて吾が車に駕し、又嘗て我に食はすに其(一〇八)餘桃を以てせり」と。故に彌子の行未だ初に變らざるに、前には賢とせられて、後には罪を獲る者は、(一〇九)愛憎の至變也。故に主に愛せらるれば則ち知當りて親を加へ、主に憎まるれば則ち(一一〇)罪當りて疏を加ふ。故に諫説の士は、(一一一)愛憎の主を察して而る後之に説かざる可からざるなり。夫れ龍の・蟲たる、(一一二)擾狎して騎す可し。然れども其喉下に(一一三)逆鱗の(一一四)徑尺なるあり。人之に嬰るるあれば則ち必ず人を殺す。人主にも亦逆鱗有り。之に説く者能く人主の逆鱗に嬰るる無ければ則ち(一一五)幾し』と。
人或は其書を傳へて秦に至る。秦王、孤憤・五蠧の書を見て曰く、『嗟乎寡人、此人を見之と遊ぶを得ば、死すとも恨みじ』と。李斯曰く、『此れ韓非の著はす所の書也』と。秦因つて急に韓を攻む。韓王始め非を用ひず、急なるに及んで廼ち非を遣りて秦に使はす。秦王之を悦び、未だ信用せず。李斯・姚賈、之を害み之を毀つて曰く、『韓非は韓の諸公子也。今、王、諸矦を并せんと欲す。非、終に韓の爲にして、秦の爲めにせず、(一一六)此れ人の情也。今、王、用ひず、久しく留めて之を歸さば、此れ自ら患を遺す也。(一一七)過法を以て之を誅するに如かず』と。秦王以て然りと爲し、(一一八)吏に下して非を治めしむ。李斯、人をして非に(一一九)藥を遺らしめ、自殺せしむ。韓非、自ら(一二〇)陳ぜんと欲すれども見ゆるを得ざりき。秦王後に之を悔い、人をして之を赦さしむれば、非已に死せり。申子・韓子は皆書を著はし後世に傳ふ、(一二一)學者多く有り。余、獨、韓子の・説難を爲り而も自ら(禍ヲ)脱るること能はざりしを悲しむ耳。
太史公曰く、老子の貴ぶ所の道は、(一二二)虚無にして因應し、無爲に變化す、故に著書、(一二三)辭稱微妙にして識り難し。莊子は(一二四)道徳を散じて放論す、要は亦之を自然に歸せり。申子は(一二五)卑卑、(一二六)之を名實に施す。韓子は(一二七)繩墨を引いて事情に切に、是非を明かにす、其れ極めて(一二八)慘礉にして恩少し。皆道徳の意に原づく。而して老子は深遠なり。
箭内亙による註
【一】守藏室の史。書物庫の記録官。
【二】駕。馬車に乘ること、即ち出でて世の爲めに盡すを云ふ。
【三】蓬累。斷蓬の如く移轉する也。
【四】多くの貨物を倉庫に藏め置けども、一見、物無きが如きを云ふ。
【五】驕氣。高慢なる氣象を云ふ。
【六】態色。容態ぶることを云ふ。
【七】淫志。志の散漫なることを云ふ。
【八】罔を爲す。網にて捕へる也。
【九】綸を爲す。釣絲にて釣る也。
【一〇】矰を爲す。絲を付けたる箭にて射る也。
【一一】道徳。老子の道徳は儒教の道徳と異なり、虚無清淨なり。
【一二】關は散關とも函谷關とも玉門關ともいふ。
【一三】關令。關所を守る役人。尹は姓、喜は名。
【一四】用。作用也。
【一五】史記。六國の時の史官の記録なり。此語は周本紀・秦本紀を參照せよ。
【一六】太傅。輔佐役。
【一七】李耳即ち何等の作爲する所無くして民自ら化し、清淨平靜にして民自ら正道に歸す。此二句は敍傳中の語、誤りて此に入りしなるべしと古人云ふ。
【一八】蒙。縣の名。
【一九】漆園。城の名。
【二〇】博學なるをいふ。
【二一】寓言。寓は寄する也。他の人又は他の事物に寄せて我が本意を示す言なり。
【二二】漁父、盜跖、胠篋。皆莊子の篇の名なり。詆訾。そしるなり。
【二三】術は道なり。學術なり。
【二四】皆莊子の書中にある人名。
【二五】書を屬し辭を離ね。書をつづり辭を陳ぬる也。事を指し情を類し。世事を指陳し人情を類推する也。
【二六】儒墨を剽剥す。孔子墨子の學を攻撃する也。
【二七】宿學。老成の學者。
【二八】莊子と論戰して、其鋒先を免るること能はず。
【二九】洸洋自恣。廣大にして自分勝手なること。
【三〇】器。すぐれたる人物として用ふる也。
【三一】幣を厚うす。禮物を手厚くする也。
【三二】宰相と爲すべきことを條件として之を聘せし也。
【三三】郊祭。郊外にて天を祭る也。犧牛は、いけにへの牛。
【三四】文繍。縫箔したる衣。
【三五】太廟に入る。太廟に引き入れる也。
【三六】孤豚。仔豚也、仔豚ならば犧牲に用ひられざる故に云ふ。
【三七】汙涜。濁水也。
【三八】覊。束縛せらるること。
【三九】京。縣の名。
【四〇】術。刑名、法術の學を云ふ。
【四一】韓の昭矦に干む。昭矦に面接して仕官を求めし也。
【四二】黄老。黄帝老子。
【四三】刑名。刑名は形名也。名を以て實を責むる學。
【四四】諸公子。末流の公子。
【四五】其歸。其歸著點也。
【四六】道説する。物を言ひ談をすること。
【四七】勢。君主の地位、權力をいふ。
【四八】浮淫の蠧。輕薄淫靡の小人を云ふ。蠧は害蟲也。
【四九】功實。功勞實力ある人を云ふ。
【五〇】儒者は文學を以て古を引き今を譏りて國法を亂す也。
【五一】義侠を立つる人は、武力を以て國禁を犯す也。
【五二】國家無事の時には、名聞ある人を人物と思ひて之を寵愛し、一朝事ある時は、急に介冑の武士を用ひて其急に應ずる也。
【五三】邪枉の臣。よこしまにして枉れる小人を云ふ。
【五四】往古の成敗得失の變を觀察する也。
【五五】孤憤・五蠧・内外儲・説林・説難。竝に韓非の著はしたる韓非子の篇名。
【五六】韓非子説難の篇を參照せよ。煩簡同じからず、順序も亦異なり、蓋し太史公の刪易、傳寫の譌倒、皆之れ有る也。
【五七】原文「又非吾辯之難」の難は衍字なり。
【五八】横失。失は佚也。横矢に縱横に説くを云ふ。
【五九】説く所。我が説を進むる人を云ふ。
【六〇】我が辯説を以て先方の心に合はしむることに在る也。
【六一】名譽を高くせんとする者を云ふ。
【六二】下節。節操見識の低き者也。
【六三】收用せられざる也。
【六四】其身。説者。
【六五】過端。過失の端緒也。
【六六】周澤云云。先方の己を信ずること未だ厚からざるを云ふ。
【六七】語極めて知。説く所極めて理に當る也。
【六八】徳亡く。徳とせられざること。
【六九】貴人、他人より一策を得ること有り、是れを自己の智慧より出でたるが如くにして己の功と爲さんとするに方りて、説者、其出處を知るときは、邪魔とせらるるが故に、其身危し。
【七〇】也は他の字の誤なり。貴人、表面には或る事を爲し、裏面には他の事を爲さんとするに、説者、其事情を知るときは、油斷ならずとせらるるが故に、其身危し。
【七一】之は貴人、人君をさす。
【七二】間。譏刺也。
【七三】細人。小人也。
【七四】鬻。賣る也。
【七五】己の助を借り度いのだなと邪推する也。
【七六】徑省。捷徑に省略する也。
【七七】知識缺乏せりとして之を屈辱す。
【七八】汎濫博文。説の範圍廣大にして引證該博なり。
【七九】久し。長たらしい也。
【八〇】事に順ひ意を陳ぶ。事柄のままに意見を陳べて、大言壯語せざる也。
【八一】廣肆。廣博放肆。
【八二】草野。鄙陋也。
【八三】倨侮。倨傲侮慢也。
【八四】此れ游説の困難なる所以にして、心得置かざる可からざる也。
【八五】滅する。諱みて言はざる也。
【八六】窮むる。追窮する也。
【八七】其敵。敵對の説也。
【八八】其難。敢てし難きをいふ也。
【八九】概。阻碍する也。
【九〇】拂辭。怫然として引退するを云ふ。
【九一】悟言。さとす言葉。
【九二】撃排。攻撃排斥也。
【九三】難は辭の誤。知は得の誤。當に韓非子に從ふべし。傳寫の誤なり。
【九四】曠日彌久。長日月を經過するを謂ふ。
【九五】打解け信用せらるるなり。
【九六】其身を飾る。爵祿を得るをいふ。
【九七】庖。料理人。
【九八】虜。囚虜。
【九九】是れ皆其の君主に任用せらるる手段として此に出でたる也。
【一〇〇】能仕は能士なり。才能ある士なり。設は恥の誤。當に韓非子に從ふべし。
【一〇一】知。賢なり。
【一〇二】其子は其女子なり。
【一〇三】兄弟の國。婦の黨を婚兄弟と曰ひ、壻の黨を姻兄弟と曰ふ。
【一〇四】此二説。鄰人の父と關其思とをいふ。
【一〇五】薄き者。甚しからざる者也。
【一〇六】其智を施し用ふること則ち難き也。
【一〇七】刖。斷足の刑。
【一〇八】餘桃。食殘しの桃。
【一〇九】愛憎の變化甚だしき也。
【一一〇】韓非子には「智當らず罪せられて疏を加ふ」に作る、今史記改めて「罪當りて疏を加ふ」に作る、文義尤も勝れたり。
【一一一】愛憎の主。主の愛憎と曰ふが如し。
【一一二】擾狎。ならすこと。
【一一三】逆鱗。さかさまの鱗。
【一一四】徑尺。直徑一尺。
【一一五】幾。庶幾なり。游説の成功に近き也。
【一一六】此れ人情として當然の事なり。
【一一七】過法。苛酷なる法。
【一一八】司法官の手に下して、韓非を糾彈せしめし也。
【一一九】藥。毒藥。
【一二〇】陳。陳辯なり。
【一二一】申子・韓子の著書を學ぶ者少からず。
【一二二】虚無にして實體無く、自然に因り變化に應じ、何等爲す所無くして、千變萬化す。
【一二三】辭稱。言辭なり。
【一二四】老子の道徳の意を布衍して、縱横放肆の議論を爲す。
【一二五】卑卑。卑近。
【一二六】道徳を刑名法術に施行する也。
【一二七】繩墨を引いて。墨繩を引いたやうにとの意。法則ずくめなるをいふ。
【一二八】慘礉 慘忍刻薄也。恩少し。情愛少き也。
原文
老子者。楚苦縣厲郷曲仁里人也。姓李氏。名耳。字伯陽。諡曰耼。周守藏室之吏也。孔子適周。將問禮於老子。老子曰。子所言者。其人與骨皆已朽矣。獨其言在耳。且君子得其時則駕。不得其時。則蓬累而行。吾聞之。良賈深藏若虚。君子盛徳容貌若愚。去子之驕氣與多欲。態色與淫志。是皆無益於子之身。吾所以告子。若是而已。孔子去。謂弟子曰。鳥。吾知其能飛。魚。吾知其能游。獸。吾知其能走。走者可以爲罔。游者可以爲綸。飛者可以爲矰。至於龍。吾不能知其乘風雲而上天。吾今日見老子。其猶龍邪。老子修道徳。其學以自隱無名爲務。居周久之。見周之衰。迺遂去至關。關令尹喜曰。子將隱矣。彊爲我著書。於是老子迺著書上下篇。言道徳之意。五千餘言而去。莫知其所終。或曰。老莱子亦楚人也。著書十五篇。言道家之用。與孔子同時云。蓋老子百有六十餘歳。或言二百餘歳。以其修道而養壽也。自孔子死之後。百二十九年。而史記周太史儋見秦獻公。曰。始秦與周合而離。離五百歳而復合。合七十歳。而霸王者出焉。或曰。儋。即老子。或曰。非也。世莫知其然否。老子。隱君子也。老子之子名宗。宗爲魏將。封於段干。宗子注。注子宮。宮玄孫假。假仕於漢孝文帝。而假之子解。爲膠西王卬太傅。因家于齊焉。世之學老子者。則絀儒學。儒學亦絀老子。道不同。不相爲謀。豈謂是邪。李耳無爲自化。清靜自正。
莊子者。蒙人也。名周。周嘗爲蒙漆園吏。與梁惠王齊宣王同時。其學無所不闚。然其要本歸於老子之言。故其著書十餘萬言。大抵率寓言也。作漁父。盜跖。胠篋。以詆訿孔子之徒。以明老子之術。畏累虚。亢桑子之屬。皆空語。無事實。然善屬書離辭。指事類情。用剽剥儒墨。雖當世宿學。不能自解免也。其言洸洋自恣以適己。故自王公大人不能器之。楚威王聞莊周賢。使使厚幣迎之。許以爲相。莊周笑謂楚使者曰。千金重利。卿相尊位也。子獨不見郊祭之犧牛乎。養食之數歳。衣以文繍。以入太廟。當是之時。雖欲爲孤豚。豈可得乎。子亟去。無汚我。我寧游戲汚涜之中自快。無爲有國者所覊。終身不仕。以快吾志焉。
申不害者。京人也。故鄭之賤臣。學術以干韓昭矦。昭矦用爲相。内修政教。外應諸矦。十五年。終申子之身。國治兵彊。無侵韓者。申子之學。本於黄老而主刑名。著書二篇。號曰申子。
韓非者。韓之諸公子也。喜刑名法術之學。而其歸本於黄老。非爲人口吃。不能道説。而善著書。與李斯倶事荀卿。斯自以爲不如非。非見韓之削弱。數以書諫韓王。韓王不能用。於是韓非疾治國不務修明其法制。執勢以御其臣下。富國彊兵。而以求人任賢。反擧浮淫之蠧而加之於功實之上。以爲儒者用文亂法。而侠者以武犯禁。寛則寵名譽之人。急則用介冑之士。今者所養非所用。所用非所養。悲廉直不容於邪枉之臣。觀往者得失之變。故作孤憤。五蠧。内外儲。説林。説難。十餘萬言。然韓非知説之難。爲説難書。甚具。終死於秦。不能自脱。説難曰。凡説之難。非吾知之有以説之難也。又非吾辯之難。能明吾意之難也。又非吾敢横失能盡之難也。凡説之難。在知所説之心。可以吾説當之。所説出於爲名高者也。而説之以厚利。則見下節。而遇卑賤。必棄遠矣。所説出於厚利者也。而説之以名高。則見無心而遠事情。必不收矣。所説實爲厚利。而顯爲名高者也。而説之以名高。則陽收其身。而實疏之。若説之以厚利。則陰用其言。而顯棄其身。此之不可不知也。夫事以密成。語以泄敗。未必其身泄之也。而語及其所匿之事。如是者身危。貴人有過端。而説者明言善議。以推其惡者。則身危。周澤未渥也。而語極知。説行而有功。則徳亡。説不行而有敗。則見疑。如是者身危。夫貴人得計。而欲自以爲功。説者與知焉。則身危。彼顯有所出事。迺自以爲也故。説者與知焉。則身危。彊之以其所必不爲。止之以其所不能已者身危。故曰。與之論大人。則以爲間己。與之論細人。則以爲鬻權。論其所愛。則以爲借資。論其所憎。則以爲嘗己。徑省其辭。則不知而屈之。汎濫博文。則多而久之。順事陳意。則曰怯懦而不盡。慮事廣肆。則曰草野而倨侮。此説之難不可不知也。凡説之務。在知飾所説之所敬。而滅其所醜。彼自知其計。則無以其失窮之。自勇其斷。則無以其敵怒之。自多其力。則無以其難概之。規異事與同計。譽異人與同行者。則以飾之無傷也。有與同失者。則明飾其無失也。大忠無所拂辭。悟言無所撃排。迺後申其辯知焉。此所以親近不疑。知盡之難也。得曠日彌久而周澤既渥。深計而不疑。交爭而不罪。迺明計利害以致其功。直指是非以飾其身。以此相持。此説之成也。伊尹爲庖。百里奚爲虜。皆所由干其上也。故此二子者。皆聖人也。猶不能無役身而渉世。如此其汙也。則非能仕之所設也。宋有富人。天雨墻壞。其子曰。不築。且有盜。其鄰人之父亦云。暮而果大亡其財。其家甚知其子。而疑鄰人之父。昔者鄭武公欲伐胡。迺以其子妻之。因問群臣曰。吾欲用兵。誰可伐者。關其思曰。胡可伐。迺戮關其思曰。胡。兄弟之國也。子言伐之何也。胡君聞之。以鄭爲親己。而不備鄭。鄭人襲胡取之。此二説者。其知皆當矣。然而甚者爲戮。薄者見疑。非知之難也。處知則難矣。昔者彌子瑕見愛於衞君。衛國之法。竊駕君車者。罪至刖。既而彌子之母病。人聞。往夜告之。彌子矯駕君車而出。君聞之而賢之曰。孝哉。爲母之故而犯刖罪。與君游果園。彌子食桃而甘。不盡而奉君。君曰。愛我哉。忘其口而念我。及彌子色衰而愛弛得罪於君。君曰。是嘗矯駕吾車。又嘗食我以其餘桃。故彌子之行未變於初也。前見賢而後獲罪者。愛憎之至變也。故有愛於主。則知當而加親。見憎於主。則罪當而加疏。故諫説之士。不可不察愛憎之主而後説之矣。夫龍之爲蟲也。可擾狎而騎也。然其喉下有逆鱗徑尺。人有嬰之。則必殺人。人主亦有逆鱗。説之者。能無嬰人主之逆鱗。則幾矣。人或傳其書至秦。秦王見孤憤五蠧之書曰。嗟乎。寡人得見此人。與之游。死不恨矣。李斯曰。此韓非之所著書也。秦因急攻韓。韓王始不用非。及急迺遣非使秦。秦王悦之。未信用。李斯姚賈害之。毀之曰。韓非。韓之諸公子也。今王欲并諸矦。非終爲韓。不爲秦。此人之情也。今王不用。久留而歸之。此自遺患也。不如以過法誅之。秦王以爲然。下吏治非。李斯使人遺非藥。使自殺。韓非欲自陳不得見。秦王後悔之。使人赦之。非已死矣。申子韓子皆著書。傳於後世。學者多有。余獨悲韓子爲説難而不能自脱耳。
太史公曰。老子所貴道。虚無因應。變化於無爲。故著書辭稱。微妙難識。莊子散道徳放論。要亦歸之自然。申子卑卑。施之於名實。韓子引繩墨。切事情。明是非。其極慘礉少恩。皆原於道徳之意。而老子深遠矣。