愛ちやんの夢物語
はしがき
此書は有名なレウィス、キァロルと云ふ人の筆に成つた『アリス、アドヴェンチュアス、イン、ワンダーランド』を譯したものです。邪氣なき一少女の夢物語、滑稽の中自ら教訓あり。むかし、支那の莊周といふ人は、夢に胡蝶と化つたと云ふ話しがありますが、夢なればこそ、漫々たる大海原を徒渉りすることも出來ます、空飛ぶ鳥の眞似も出來ます。世に夢ほど面白いものはありません。今少時、姊さんの膝を枕の假寐に結んだ愛ちやんの夢、解いてほどけば美しい花の數々、色鮮かにうるはしきを摘みなして、この一篇のお伽噺は出來あがつたのです。
明治四十二年十二月譯者
第一章
兎の穴へ
愛ちやんは、姊さんと堤の上にも坐り勞れ、その上、爲ることはなし、所在なさに堪へ切れず、再三姊さんの讀んでる書物を覘いて見ましたが、繪もなければ會話もありませんでした。愛ちやんは、『繪もなければ會話もない書物が何の役に立つだらうか?』と思ひました。
それで愛ちやんは、慰みに雛菊で花環を造つて見やうとしましたが、面倒な思ひをしてそれを探したり摘んだりして勘定に合ふだらうかと、(暑い日で直に眠くなつたり、懵然するものだから一心に)心の中で考へてゐますと、突然可愛い眼をした白兎が、その傍に驅け寄つて來ました。
が、これぞと云ふ程の事もありませんでした。又愛ちやんは、兎が途から駈け出して來て、『あァ/\遲くなつた』なんて云ふだらうとは些とも思ひませんでした。(後からよく考へて見れば不思議だが、其時にはそれが全く通常のやうに思はれました)が、其時兎は實際襯衣の衣嚢から時計を取出して、それを見てゐましたが軈て駈け出しました、愛ちやんも亦駈け出しました。愛ちやんは兎が襯衣の衣嚢から時計を取出して、面白さうにそれを燒いて了うなんてことを、是れまで决して見たことがないわと心に一寸思ひました。愛ちやんは野原を横斷つて其後を追蒐けて行つて、丁度それが生垣の下の大きな兎穴に跳び下りるのを見ました。
直ぐ其後から愛ちやんも下りて行きました。今度は何うして出て來やうかと云ふやうなことは些とも考へずに。
兎の穴は暫くの間隧道のやうに眞直に通じて居ました。止まらうと思ふ隙もない程急に、愛ちやんは非常に深い井戸の中へ落ちて、びッしよりになりました。
井戸が深かつたのか、それとも自分の落ちるのが極めて徐かつた所爲か、落ち切つてから身の周りを見廻し、此先何うなるだらうかと疑ひ出した迄には隨分長い間經ちました。最初愛ちやんは下を見、それから今迄の事を知らうとしましたが、眞暗で何一つ見えませんでした。乃で愛ちやんは井戸の四方を見て、其處が蠅帳や棚で一ぱいになつてることを知りました。此處彼處に地圖も見えれば、木釘には數多の繪も掛つて居ました。過ぎがてに愛ちやんは、棚の一つから一個の甕を取下しました、それには『橙糖菓』と貼紙してありましたが、空だつたので大いに失望しました。愛ちやんは脚下の生物を殺すのを恐れて其甕を放り出さうとはせず、其處を通りがけに蠅帳の一つに其れを藏ひました。
『よし、此流れに隨いて行けば、梯子段を轉がり落ちる氣遣ひもなし!家に居る皆がどの位私を大膽だと思ふでせう!さうだ、斯麽事何にも話すまい、縱令屋根の上から落ちても!』愛ちやんは自ら斯麽事を思ひました。(どれが眞實のことやら)
下るわ、/\、/\。流れは何處まで行つても盡きないのかしら?『今までに私は幾哩落ちたかしら?』と愛ちやんは聲高に云ひました。『私は何處か地球の中心近くへ出なければならない。オヤ、どうも四千哩下りたらしいよ―』(愛ちやんは學校の課業に斯ういふ風な種々な事を習びました、そしてこれが自分の智識を示すに甚だ好い機會ではなかつたが、誰も聞いてるものがなかつたので一層復習をするに好い都合でした)『――さア、大分人里遠く離れた――緯度や經度は何の邊まで來てるでせう?』(愛ちやんは緯度が何か、經度が何か、其麽事は些とも知りませんでした、が其言葉を立派な崇重な言葉だと思つて居ました)
愛ちやんは又直ちに斯う云ひ出しました。『私は若しや地球を貫いて一直線に落ちて行くのぢやないかしら!逆さになつて歩いてる人間の中へ出て行つたらどんなに可笑いでせう!オー可厭なこと、私は――』(と云つて、今度は正しい言葉が出なかつたものだから、其處に誰も聞いてるものゝないのを、寧ろ喜びました)『――でも私は其國が何といふ國だか其人達に訊いてやりたいわ。ねえ阿母さん、ニューズィーランドでせう、それともオーストレリア?』
(さう云つて阿母さんに寄りかゝらうとしました――皆さんが空中を落ちて行く時に寄りかゝることを想像して御覽なさい!そんな事が出來るものでせうか?)『それで阿母さんは、私を何といふ莫迦な娘だとお思ひでせう!もう决してお尋ねしまい、屹度何處かに書いてあるわ』
下るわ、/\、/\。所在なさに、愛ちやんは又話し初めました。『玉(猫の名)が屹度今夜私を探してよ!皆が夕飯時分に牛乳皿を出してやるのを憶えてゝくれゝば可いが。玉や、さう/\、お前も一緒に來れば好かつたね!空中には鼠は居ないだらうけど、蝙蝠なら捕まへられる、それは鼠に酷く似てゐるのよ。でも猫が蝙蝠を食べるかしら?』ところで愛ちやんは徐々眠くなり、夢でも見てるやうに『猫が蝙蝠を食べるかしら?猫が蝙蝠を食べるかしら?』と頻りに云つてゐましたが、時々反對に、『蝙蝠が猫を食べるかしら?』なんて云ひました、それで愛ちやんは、どつちが何うとも其質問に答へることが出來ませんでした。愛ちやんは自分が轉寐しながら、玉と手に手を取つて歩いて居るのを夢に見て、『さァ玉ちやん、眞實の事をお云ひ、お前これまでに蝙蝠を食べたことがあるかい?』と一生懸命になつて云つて居ますと、急に、がさッ!/\!といふ音がして、愛ちやんは棒ッ切れや枯葉の積み堆なつた上に下りて來て、水の流れは此處に盡きました。
愛ちやんは些とも怪我をしませんでした、一寸跳び上つて上を見ましたが頭の上は眞暗でした。愛ちやんの前には、も一つ長い路があつて、白兎がまだ急いで駈けて行くのが見えました。逡巡してゐずに愛ちやんは風のやうに走りました、兎が角を曲らうとした時に、『あれッ、私の耳と髯は何うしたんだらう、遲いこと』と云ふのを聞きました。愛ちやんは其後から直ぐに其角を曲りましたが、もう兎の姿は見えませんでした。愛ちやんは屋根からずらりと一列に吊られた洋燈の輝いてる、長くて低い大廣間に出ました。
大廣間の周圍には何枚となく戸がありましたが、何れも皆閉つて居ました。愛ちやんは一方は下、一方は上と一枚毎に檢べてから、その眞中へ行つて見ました、どうしたら再び出られるだらうかと怪しみながら。
突然愛ちやんは、全然丈夫な硝子で出來た小さな三脚洋卓の所へ來ました。其上には小さな黄金造りの鍵が只一つあつたばかり、愛ちやんは最初、此鍵が大廣間の戸の何れか一枚に附屬してるに違ひないと思ひました、が悲しいことには、其錠が大き過ぎても亦小さすぎても、何れにせよ何の戸をも開けることの出來ないことです。けれども次に愛ちやんは前に氣のつかなかつた窓帷の所へ來ました、其背後には殆んど五尺位の高さの小さな戸がありました、愛ちやんは其小さな黄金の鍵を其錠に試み、それがぴッたり合つたので大悦び!
愛ちやんは戸を開けて、それが鼠穴位の小さな路に通じて居ることを知り、膝をついて前に見たことのある美しい花園を、其路について覘き込みました。愛ちやんは何うかして此暗い穴から出て、美しい花壇や、清冽な泉の邊に徜徉ひたいと頻りに望みました、が其戸口からは頭を出すことさへも出來ませんでした、可哀相に愛ちやんは、『縱令私の頭ばかり拔け出しても、肩が無くては何にもならない』と思ひました。『何が何でも望遠鏡のやうに篏め込まれては堪らない!些と始めさへ解ればもう占めたものだ』此頃では身にふりかゝる種々の難事を、愛ちやんは何でも一つとして出來ないことはないと思ふやうになりました。
此小さな戸の傍に待つて居ても仕方がないと、愛ちやんは洋卓の所へ戻つて行きました、半は他の鍵を見出したいと望みながら、さもなければ兎に角、人間を望遠鏡のやうに篏め込む何か規則の書物でもありはしないかと。今度は其上に小さな瓶が一本ありました、(『確かに前には此處に無かつた』と愛ちやんが云ひました)瓶の頸には、『召上れ』と美事に大字で刷つた貼紙が結びつけてありました。
『召上れ』と云ふのだから此程結構なことはないが、悧巧な小さな愛ちやんは大急ぎで其れを飮まうとはしませんでした。『否え、先ァ見てから、其上「毒」か毒でないかを確かめなくては』と云ひました、それと云ふのも愛ちやんが、友達から教へられた瑣細な道理を憶えて居なかつたため、野獸に食ひ殺されたり、其他正體の知れぬものに害されたりした子供の話を種々讀んでゐたからです。その瑣細な道理と云ふのは例へば、眞赤に燒けた火箸を長い間持つてると火傷するとか、又は指を小刀で極深く切ると何時でも血が出るとか云ふことです。それから又『毒』と記してある瓶から澤山飮めば、それが屹度晩かれ早かれ體の害になるものだと云ふことを决して忘れませんでした。
しかし、此瓶には『毒』とは書いてありませんでした、其故愛ちやんは思ひ切つてそれを味つて見ました、ところが大變味が好かつたので、⦅それは實際櫻實漬、カスタード(牛乳と鷄卵とに砂糖を入れて製したるもの)、鳳梨、七面鳥の燒肉、トッフィー(砂糖と牛酪で製して固く燔いた菓子)、それに牛酪つきの𤍠い炕麺麭、と云ふやうなものを一緒にしたやうな一種妙な味がしました⦆早速それを飮んで了ひました。
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『まア好い氣持だこと!望遠鏡のやうに締めつけられるやうだわ』と愛ちやんが云ひました。
眞箇にそんなでした。愛ちやんは今僅か一尺あるかなしの身長になつたので、これなら其美しい花園に此小さな戸口から拔けて行かれると思つて、その顏は嬉しさに輝きました。それでも最初暫くは、もつと收縮するだらうと待つて居ました。愛ちやんは些や薄氣味惡くなつて來たと見えて、『出て行つた先で、私は蝋燭のやうに消え失せて了うのではないかしら、まァ何うなるでせう?』と呟いて、試みに蝋燭が吹き消された後の燄の樣を想像して見ました、前に其麽物を見たことを記憶して居ませんでしたから。
暫くしてから、もう何ともないことを知つて、愛ちやんは直ちに花園へ行かうと决心しました、が可哀相に愛ちやんは、戸口まで來てから、其小さな黄金の鍵を忘れたことに氣がついて、それを取りに洋卓の所へ戻つて行つた時には、もう何うしてもそれに手が達きませんでした。硝子を透いて明かにそれが見えてるので、愛ちやんは一心に洋卓の一脚に攀登らうとしましたが滑々してゝ駄目でした。可哀相に愛ちやんは、終には試し草臥れて、坐り込んで泣き出しました。
『そんなに泣いたつて仕方がない』と愛ちやんは些や鋭い聲で獨語を云ひました。『時間さへ經てば可いわ!』愛ちやんは何時も自分に良い忠告をし、(それに從ふことは滅多にないが)時には涙の出る程我れと我が身を責めることもありました。甞て自分一人で毬投げをして居て、吾れと吾れを騙したといふので、自分の耳を叩かうとしたことを思出しました、それといふのも此不思議な子供が、一人でありながら、假りに二人だと思つてることが甚だ好きだつたからです。『二人だと思つても駄目よ!と云つて、一人だけ立派な人にするんでは滿らないわ!』と愛ちやんは可哀相にもさう思ひました。
忽ち愛ちやんは洋卓の下に在つた小さな硝子筺に眼がつきました。開けて見ると、中には極く小さな菓子があつて、それに『お上り』と美事に小さな乾葡萄で書いてありました。『よし、食べやう、若し其爲めに私が、もつと大きくなれば鍵に手が達くし、又若し小さくなれば戸の下を匍はれる、何方にしろ私は其花園に出られる、何うなつても關はない!』と愛ちやんが云ひました。
愛ちやんは少し食べて、氣遣しさうに『何方?何方?』と呟いて、何方へ大きくなつたかと思つて頭の天邊へ手をやつて見ましたが、矢張大きさが同じなので落膽しました。確かに、これは大抵の子供が菓子を食べる時に起ることだが、愛ちやんは何か素晴しいことが起るのをばかり望んで居て、通常の道で進んで行くのは、一生に取つて全く鈍くさくて莫迦氣てるやうに思はれました。
それから愛ちやんは食べ初めると、直きに其菓子を平げて了ひました。
第二章
涙の池
『奇妙々々!』と愛ちやんが叫びました(非常に驚いた爲に何と云つて可いか些と解らず)『今私は一番大きい望遠鏡のやうに、何時も外へ向いたッきりだわ!左樣なら、足よ!(足を見下した時に、それが何處か遠くの方へ行つて了つたと見えて、殆んど見えませんでした)。『オヤ、可哀相に私の小さな足は!今、誰がお前に靴や靴足袋を穿かしてくれるでせう?私には迚も出來ないわ!でも、餘り遠ッ離れて居るんですもの。お前精一ぱい遣つて御覽――だけど、私深切にしてやつてよ。でなければ、屹度足が云ふことを聞かないわ!屹度さうよ。耶蘇降誕祭の度毎に私は新らしい長靴を一足づつ買つてやらう』と愛ちやんが思ひました。
それから愛ちやんは、それをするには何ういふ風にしたら可いだらうかと工夫を凝し初めました、『それには乘物へ乘つて行かなければならない』と思つたものゝ、『足に贈物をするなんて餘程可笑いわ!宛名が何んなに變でせう!
愛ちやんの右の足樣へ
火消壺の傍の、
竈雜布を献ぐ。
(愛ちやんの優しい心根から)。
まア、何んといふ莫迦な事を私は云ふてるんでせう!』
折しも愛ちやんは、大廣間の屋根で頭を打ちました。實際愛ちやんは今九尺以上も身長が高くなつたので、直ぐに小さな黄金の鍵を取り上げ、花園の入口へ急いで行きました。
可哀相な愛ちやん!横になつて一つの眼で花園を覘き込むことしか出來ず拔け出ることは前よりも一層六ヶ敷なつたので、愛ちやんは坐り込んで又泣き出しました。
『耻かしくもなく能く泣けたものですね』と愛ちやんが云ひました。『そんな大きな體をしてさ!』(愛ちやんはよく斯う云ひます)『泣くなんテ!お默んなさい、よ!』云つても矢張同じやうに泣いて居て!涙の一斗も流した揚句、到頭其處に深さ殆んど四五寸の大きな池が出來て、大廣間が半分も浸つて了ひました。
すると遠くの方でパタ/\と小さな跫音のするのが聞えました、愛ちやんは急いで眼を拭いて何か來たのだらうかと見てゐました。歸つて來たのは兎で、綺羅美やかな服裝をして、片手には白い山羊仔皮の手套を一對、片手には大きな扇子を持つて、『あァ、公爵夫人、公爵夫人!あァ、辛抱して待つて居たら此麽情けない目に合やしなかつたらうに!』と呟きながら、大急ぎで駈けて來ました。愛ちやんは頗る失望して誰かに助けて貰はうと思つてた矢先でしたから兎が傍へ來たのを幸ひ、低い怕々した聲で、『萬望、貴方――』と云ひかけました。すると兎は何と思つたか大急ぎで、白い山羊仔皮の手套も落せば扇子も打捨つて、一目散に闇の中へ駈け込みました。
愛ちやんは扇子と手套とを取り上げ、大廣間が甚だ暑かつたので、始終扇子を使ひながら話し續けました。『まァ今日は餘程奇妙な日よ!昨日は何の事もなかつたんだのに、昨夜の中に私は何うかなつたのかしら?さうねえ、今朝起きた時には何ともなかつたかしら?、何だか氣が些と變なやうでもあるし、と云つて、若し私が同じやうでなかつたら何うなるんでせう、此世の中で誰れが私なんでせう!まァ、それは大きな謎だわ!』そして愛ちやんは、自分の同年齡で自分の知つてる子供を殘らず片ッ端から考へ始めました、若しも自分が其中の誰かと變へられたのではないかと思つて。『私、確かに花ちやんではなくッてよ』と云て愛ちやんは、『でも、彼娘の髮は彼麽に長い縮ッ髮だけど、私のは一本だつて縮れちや居ないもの。それから又、私は確かに松子さんでもなくッてよ、だッて、私は何でも知つてるけども、彼娘は、あァ、彼娘は些としか知らしないわ!第一彼娘は彼娘、私は私よ、それから――あァ何だか譯が解らなくなつて了つた!私が平常知つてた事を皆知つてるか何うか試して見やう。斯うと、四五十二、四六十三、四七――オヤ!そんな割合では二十にならないわ!けど、乘算九々表も當にならないのね。今度は地理の方よ。倫敦は巴里の首府なり、巴里は羅馬の首府なり、又羅馬は――ア、皆間違つてるわ、屹度!私は松子さんに變へられたのだわ!私試つて見やう「何うして磨く、小さな――」を』乃で愛ちやんは恰度お稽古の時のやうに前掛の上へ兩手を組んで、それを復習し初めました、が其聲は咳嗄れて變に聞え、其一語々々も平常と同じではありませんでした。――
『何うして磨く、小さな鰐が、
輝く尾をば、
浴びるわ浴びるわナイルの河水
黄金の鱗の一枚ごとに!』
『嬉しさうにも齒並を見せて、
爪をば殘らず、
綺麗にひろげて小魚を招く、
愛嬌こぼるゝ可愛い頥で!』
『屹度間違つてるわ』と憐れな愛ちやんが云ひました、眼には涙を一ぱい溜めて、『私は屹度松子さんになつたのよ、あの窮屈な小さな家へ行つて住まなければならないのかしら、翫具一箇有りやしないわ!それで、お稽古ばかり澤山させられてさ!あァ斯うしやう、私が若し松子さんだつたら此處に斯うして止まつて居やう!他人の頭を接合けたつて駄目だわ、「復たお出で、ね、一體誰が自分なんだか?」能く氣をつけて居やう、「それが解つたら來るわ、それでなければ私が他の人になるまで此處に居やう」――だけど、ねえ!』と愛ちやんは叫んで、急に泣き出しました、『誰か頭を下へおろしてくれゝば可いなァ!もう唯た一人法師で居るのは可厭になつて了つたわ!』
斯う云つて兩手を見ると、驚くまいことか、愛ちやんは話をしてる中に何時か兎の小さな白い山羊仔皮の手套を穿めて居たのです。『何うして穿めたのかしら?』と思ひました。『私、復た小さくなるんだわ』愛ちやんは起き上り、身長を度らうと思つて洋卓の所へ行きました、自分で思つてた通り殆んど二尺も高くなつて居ましたが、急に又縮み出しました。愛ちやんは直ちに此れが扇子を持つて居た所爲だと云ふ事を知つて急いで其扇子を捨てました、恰も縮むのを全く恐れるものゝ如く。
『それは狹い遁路だつたのよ!』と云つて愛ちやんは、急な變化には一方ならず驚かされましたが、それでも我が身の然うして其處に在つたことを大層悦んで、『さァ花園の方へ!』と云つて全速力で小さな戸の方へ駈け戻りました。しかし悲しいことには、小さな戸は又閉つてゐて、小さな黄金の鍵が以前のやうに硝子洋卓の上に載つてゐました、『前より餘程不可いわ』と此憐れな愛ちやんが思ひました、『だッて、私は先きには斯麽に小さかなかつたんですもの、なかつたんですもの!眞箇に餘程酷いわ、さうよ!』
云ひ終るや愛ちやんの片足は滑つて、水の中へぱちやん!愛ちやんは鹹水の中へ頥まで浸りました。初め、愛ちやんは兎に角海の中へ落ちたんだと思つて、『そんなら汽車へ乘つて歸れるわ』と獨語を云ひました(愛ちやんは生れてから是迄に只た一度しか海岸へ行つたことがないので、勝手に斯う獨斷をして居ました。英吉利の海岸へ行けば何所にでも、海の中に泳いでる澤山の機械が見られる、子供等は木の鍬で沙ッ掘りをしてゐる、そして一列に並んでる宿屋、それから其後ろには停車場)併し愛ちやんは直きに、自分が涙の池に落ちたんだと云ふことに氣がつきました。其池は、愛ちやんの身長が九尺ばかりに伸びた時に、濡れ法師になつた池です。
『そんなに泣くのは止さう!』と云つて愛ちやんは、出口を見出さうとして泳ぎ廻りました。『私は今屹度罰せられるんだわ、斯うして自分の涙の中に溺れるなて―眞箇に奇態だわ!けども今日は何も彼も皆な變よ』
折も折、愛ちやんは少しく離れて池の中で何かゞ水音を立てゝるのを聞きつけ何だらうかと思ひつゝ傍へ/\と泳いで行きました。初め愛ちやんは、それが海象か河馬に違ひないと思ひました。が今の我が身の小さいことに氣がつくと共に、それが矢張自分のやうに滑り落ちた一疋の鼠に過ぎないことを知りました。『さて此鼠に何を話してやらうかしら?大抵皆な變な事ばかりだが、兎に角話しても關はないだらう』と愛ちやんが思ひました。乃で愛ちやんが云ふには、『鼠ちやん、お前此池の出口を知つてゝ?私全然泳ぎ草臥れて了つてよ、鼠ちやん!』(愛ちやんはこれが鼠と話をする正しい方法だと思ひました。嘗て此麽事をしたことはないのですが、兄さんの拉典語の文典に、『鼠は――鼠の――鼠に―鼠を――おゥ鼠ちやん!』と書いてあつたのを覺えて居ましたから)鼠は些や訝しげに愛ちやんの方を見て、其小さい片方の眼を瞬くやうに見えましたが、何とも云ひませんでした。
『屹度それは英語を知らないんだ』と愛ちやんは思つて、『あァ解つた佛蘭西の鼠だわ、ウィリアム第一世と一緒に來た』(歴史を習つたけれども愛ちやんは、何が何年位前に起つた事か判然と知りませんでした)乃で又愛ちやんが云ふには、『私の猫は何處に居るでせう?』それは佛語教科書の一番初めの文章でした。鼠は水の中から一跳びはねて、なほも跳び出しさうに全身を振はして居ました。『あら御免よ!』と愛ちやんは急いで叫びました、此憐れな動物の機嫌をそこねた事を氣遣つて。『私はお前が猫を好かないことを全く忘れて了つてゐたの』
『猫は可厭!』と鋭い激した聲で鼠が云ひました。『若しお前樣が私だつたら猫を好くの?』
『まァ可厭なこと』と優しい聲で云つて愛ちやんは、『怒ッちや可厭よ。だけど、私はあの玉ちやんを見せてあげたいわ、若しお前が玉ちやんを只た一目でも見やうものなら屹度猫が好きになつてよ、そりや玉ちやんは可愛らしくつて大人しいわ』と半ば呟きながら涙の池を物憂げに泳ぎ廻りました、『それから、玉ちやんは圍爐裏の傍にさも心地好ささうに、咽喉をゴロ/\云はせながら坐つて、前足を舐めたり、顏を洗つたりしてゐるの――飼つて見れば可愛いものよ――鼠捕りの名人だわ――オヤ、御免よ!』と又愛ちやんが叫びました。今度は鼠が全身の毛を逆立つて居たので、愛ちやんは屹度鼠が甚く怒つたに違ひないと思ひました。『そんなにお前が嫌ひなら、もう玉ちやんのことは話さないわ!』
『さう、眞箇に!』怖れて尻尾の先までも顫へてゐた鼠が叫びました。』若し私が斯麽事を話したが最期!私の一家族は殘らず猫を仇敵に念ふ。えッ、あの不潔な、下等動物め!もう二度と云ふのは御免だ!』
『私もさ!』と云つて愛ちやんは大急ぎで話を外らしました。『え――好き――い――い――犬を?』鼠が返辭をしなかつたので、愛ちやんは又一心になつて續けました。『私の家の近所に、それは綺麗な犬が居てよ、お前に見せてやりたいわ!可愛い清しい眼をした獵犬よ、知つてゝ、こんなに長い縮れた茶色の毛の!何でも投げてやると取つて來てよ、御馳走なんぞ遣るとチン/\するわ――私、よくは知らないけど――それは百姓の犬で、大變役に立つんですッて、一疋百圓よ!それが皆な鼠を殺すんですッて――ナニ、否え!』と痛ましげな聲で愛ちやんが叫びました、『又氣に觸つたかしら!』鼠が池の水を攪き亂し、一生懸命に泳ぎ去らうとするのを、愛ちやんは靜かに呼び止めました。『鼠ちやん!戻つてお出でよ、可厭なら、もう猫や犬の事を話さないから!』鼠はこれを聞いて振返り、靜かに再び愛ちやんの所へ泳いで來ましたが、其顏は眞青でした、(愛ちやんはそれを甚だ氣の毒に思ひました)鼠は低い慄へ聲で、『あの岸へ行かうぢやありませんか、それから身の上談をしませう、然うすれば何故私が猫や犬が嫌ひか解ります』と云ひました。
恰度立去るべき時が來ました、池にはそろ/\其中に落ち込んだ澤山の鳥や動物が群集して居ました。家鴨やドード鳥、ローリー鳥や小鷲、其他種々の珍らしい動物が居ましたが、愛ちやんの水先案内で、皆な隊を成して殘らず岸に泳ぎつきました。
第三章
候補競爭と長話
岸の上に集まつた一隊は、それこそ滑稽で觀物でした――鳥の諸羽は泥塗れに、動物は毛皮と毛皮と膠着かんばかりに全濡になり、雫がたら/\落ちるので體を横に捩つて、氣持惡さうにしてゐました。
最初の問題は、云ふまでもなく何うして再びそれを乾燥さうかと云ふことで、その爲め皆なで相談會を開きました、暫くして愛ちやんは、宛で前から皆なを知つてでも居たやうに、臆面もなく親しげに話し出しました。
乃で愛ちやんは隨分長い間ローリー鳥と議論をしました、ローリー鳥は終には澁ッ面して拗ねて背中を向けて、『私はお前より年上だよ、私の方が能く知つてる』と只斯う云つたばかりなので、此愛ちやんはローリー鳥が果して幾つ年とつて居るか、それを聞かない中は承知しませんでした、がローリー鳥が何うしても其年齡を云ふのを拒んだものですから、終には仕方なく默つて了ひました。
到頭、其中でも權勢家の一人らしく見えた鼠が、『坐り給へ諸君、まァ聞き給へ、僕が直きにそれの乾くやうにして見せる!』と呶鳴りました。多勢のものは殘らず言下に、鼠を中心にして大きな輪を作つて坐りました。愛ちやんは怪訝な顏しながら眼を離さず見て居ました、でも早速乾燥さなければ屹度惡い風邪を引くと思ひましたから。
『エヘン!』と一つ咳拂ひして、鼠は尊大に構へて、『諸君宜しいか?最も乾燥無味なものは是です、まァ默つて聞き給へ、諸君!「ウィリアム第一世、其人の立法は羅馬法皇の御心に愜ひ、忽ちにして首領の必要ありし英人の從ふ所となり、近くは纂奪及び征服を恣にするに至りました。エドウィン、モルカー、マーシア及びノーザンブリア伯、皆然りです――」』
『ウム!』と云つてローリー鳥は慄へ上りました。
『何です!』と鼠は顏をしかめたが、頗る丁寧に、『何か仰しやいましたか?』
『私ではない!』とローリー鳥が急いで云ひました。
『貴方に違ひありません』と鼠が云ひました。『――さて、「エドウィンとモルカー、マーシア及びノーザンブリア伯が彼れに盟ひました。するとカンタベリーの忠節なる大僧正スチガンド氏すら、それを當然の事だと思ひました――」』
『それを?』と家鴨が云ひました。
『それをさ』と鼠は些や意地惡く答へて、『無論君も「それ」の譯を知つてるだらう』
『それは能く解つてる、大方蛙か蟲ぐらゐのものだらう』と云つて家鴨は『しかし、僕の訊くのは大僧正が何うしたと云ふのだ?』
鼠は此質問を聞き流して速かに云ひ續けました、『――エドガーアセリングと共に、行きてウィリアムに面謁し、王冠を捧げたのは當然のことです。ウィリアムの行動は最初禮に適ふたものでした。併しながら彼のノルマンの倨傲――何うかしましたか?』と云つて愛ちやんの方を振向きました。
『矢張濡れてるは、些とも乾かなくッてよ』と愛ちやんが悲しさうに云ひました。
『然らば』とドード鳥が嚴格に云つて立上り、『此會議の延期されんことを動議します。蓋し、もつと早い有効な治療方法が――』
『英語で云ひ給へ!』と云つて小鷲は、『そんな長ッたらしい事は半分も解らない、幾ら云つたつて駄目だ、何れも信ずるに足らん!』云つて微笑を秘すために頭を下げました。他の數多の鳥の中には故意と聞えよがしに窃笑をしたのもありました。
『余輩の云はんと欲する所のものは』と憤激してドード鳥が云ひました、『吾々を乾かせる唯一の方法は候補競爭(西洋鬼ごつこ)である』
『候補競爭とは?』と愛ちやんが云ひました。愛ちやんは別段其れを知りたくはなかつてのですが、ドード鳥が恰かも誰かゞ何か話すだらうと思つて言ひ澱みましたが、他に誰も何とも言はうとするものがなかつたので。
『さて』ドード鳥が云ふには、『それを説明する唯一の方法はそれを行ふことである』(若し皆さんが冬の或る日、自ら其れを試みんと欲するならば、ドード鳥がそれを如何にして行つたかを話しませう)
最初ドード鳥は、一の輪を描いて競爭進路を定めました、(「輪の形は些や正確でなくても關はない」とドード鳥が云ひました)それから其處に居た一隊のものが皆な、其進路に沿うて其方此方に排置されました。『一、二、三、進め』の號令もなく、各自に皆勝手に走り出して勝手に止まりましたから、容易に競爭の終りを知ることが出來ませんでした。けれども各自に一時間半か其所いら走り續けた時に、全く乾いて了ひました、ドード鳥は急に、『止めッ!』と叫びました。乃で皆な息喘きながら其周圍へ集つて來て、『だが、誰が勝つたの?』と各自に訊きました。
此質問には、ドード鳥が大思想家でないため答へることが出來ず、一本の指で其額を抑え、長い間立つて居ました(よく繪にある沙翁のやうな姿勢をして)其間他のものも皆默つて待つてゐました。終にドード鳥が口を開いて、『各自に皆な勝つた、皆な褒美が貰へる』
『しかし誰が褒美を呉れるんですか?』と異口同音に尋ねました。
『左樣、無論、彼娘が』と愛ちやんを指しながらドード鳥が云つたので、其一隊が殘らず一時に愛ちやんの周りを取圍みました。『褒美!褒美!』とガヤ/\叫びながら。
愛ちやんは當惑して、知らず/\衣嚢に片手を入れ、乾菓子の箱を取出し、(幸ひ鹹水は其中に浸込んで居ませんでした)褒美として周圍のものに殘らず其れを渡してやりました。丁度一個と一片宛。
『しかし彼娘は自分から自分に褒美を貰はなければならない』と鼠が云ひました。
『無論』とドード鳥が莫迦に眞面目になつて答へました。
『お前は未だ他に何か衣嚢に持つてるの?』と云ひ足して、愛ちやんの方を振向きました。
『只た指環を一箇』と愛ちやんが悲しさうに云ひました。
『皆な渡してお仕舞ひ』とドード鳥が云ひました。
それから再び皆なが集つた時に、ドード鳥は嚴かに指環を示して、『吾輩は此優美なる指環を諸君の受納せられんことを望む』此短い演説が濟むと一同拍手喝采しました。
愛ちやんは何から何まで可笑くて堪りませんでした、が皆な揃ひも揃つて眞面目くさつてるので、眞逆自分獨り笑ふ譯にも行きませんでした。何と云つて可いか解らぬので、愛ちやんは只一禮し、成るべく嚴格な容貌をして指環を取出しました。
それから乾菓子を食べました。大きな鳥は其味が解らないと云つて訴す、小さな鳥は哽せて背中を叩いて貰う、それは/\大騷ぎでした。それが濟むと、皆な復た輪になつて坐り、もツと何か話してくれと鼠に迫りました。
『お前身の上話をする約束ではなくッて』と云つて愛ちやんは、『何故嫌ひなのサ――ネとイが』と後から咡くやうに云ひました、又鼠が怒りはしないかと氣遣はしげに。
『私のは長くて其上可哀相なの』と云つて、鼠は愛ちやんの方へ振向きながら長太息を吐きました。
『長いの、さう』と云つて愛ちやんは、鼠の尾を不思議さうに眺めて、『でも、何故可哀相なの?』愛ちやんの鼠が話をしてる間始終謎でも聞いてるやうな氣がしました、それで愛ちやんの考へでは、其話といふのは何か斯麽風なものだらうと思ひました。――
『福公が
家で鼠に
逢つて
云ふに
は、「一
緒に芝ッ
原へ來
い、罰
してや
るから――
サア、も
う何と
云つて
も駄目
だ。何
うして
も訊問
の必要
がある、
今朝か
ら眞箇
に何に
も爲な
いのだ
もの」
すると、
鼠が小人
に云ふに
は「こん
な訊問が
何にな
るか、檢
事もな
ければ
判事も
ない、徒
らに吾々
の息を
費すば
かりだ」
「僕が判
事にな
つてや
らう、檢
事にもな
つてやら
う」と云
つて狡猾
な福公は、
「吾輩が總
ての訴訟
を判く、
可いか、
汝に死
刑の宣
告をす
る」』
『お前の知つた事ではない』と鼠は眞面目になつて愛ちやんに云つて、『何を考へてるのか?』
『え、何ですか』と愛ちやんは丁寧に答へて、『貴方はこれで五度お辭儀をしましたね?』
『しない!』と鼠は怒つて叫びました。
『皆さん!』と云つて愛ちやんは、尚ほ續けやうとして氣遣はしげに身の周りを見廻し、『さア、これで解散しやうぢやありませんか!』
『そんな事をする必要はない』と云ひさま、鼠は起ち上つて歩き出しました。
『莫迦なことを云ふ、それは私を侮辱すると云ふものだ!』
『そんな譯ぢやなくッてよ』と優しくも愛ちやんが辯疏しました。『眞箇に腹立ッぽいのね、もう怒つてゝ!』
鼠は只齒軋りしたばかり。
『お出でよ、話してお了ひな!』と愛ちやんが背後から呼びかけました。他の者も皆聲を合せて、『さうだとも/\!』併し鼠は只口惜しさうに頭を振つて、さッさと歩いて行つて了ひました。
『まァ、行つて了つた、可哀相に!』鼠の姿が全く見えなくなるや否や、ローリー鳥は斯う云つて長太息を吐きました。乃で初めて機會を得て、一疋の年老つた蟹が自分の娘に云ひ聞かせるには、『あァ、お前ね!よく憶えてお居で、これは、お前の惡性は何うしても直すことが出來ないと云ふ好い一つの教訓だから!』『何ですッて阿母さん!』と其若い蟹が怒つて咬みつくやうに云ひました。『年甲斐もない、お愼みなさい!』
『あァ、此處に玉ちやんが居れば可いにねえ!』と別段誰に云ふともなく愛ちやんが聲高に云ひました。
『玉ちやんて誰のこと、え、誰?』とローリー鳥が云ひました。
愛ちやんは素より、其可愛い猫のことを話さう話さうと思つてた所だッたので、𤍠心に答へて云ふには、『玉ちやんは私の猫よ。鼠捕りの名人だわ!あァ然うだ、鳥を追ッ驅ける所を見せてあげたいのね!それこそ玉ちやんは其れを見るが早いか、直ぐに小鳥などは捕つて食べて了つてよ!』
此話は一同に著しき感動を與へました。中には遁出した鳥さへあり、年老つた一羽の鵲は用心深くも身仕舞して、『家へ歸らう、夜露は咽喉に毒だ!』と云ひ出しました。又金絲雀は顫へ聲で、『お歸りよ、皆な!もう寢る時分ぢやないか!』と其子供等を呼びました。種々の口實を設けて、皆な殘らず立去つた後には、唯た愛ちやん一人になつて了ひました。
『玉ちやんの事を話さなければ可かつた』と悲しげな聲で愛ちやんが呟きました。『誰も此處に居たもので、玉ちやんの好きなものはないと見える、だけど、屹度玉ちやんは世界中で一番良い猫に違ひないわ!おゥ可愛い玉ちやん!私は今迄のやうに始終お前の傍に居られるかしら!』云つて憐れな愛ちやんは、心細くなつて急に又泣き出しました。
暫くして愛ちやんは遠くの方で、パタ/\小さな跫音のするのを聞きつけ一心に其方を見戌つて居ました、鼠が機嫌を直して、戻つて來て、彼の話を終までして呉れゝば可いがと思ひながら。
第四章
蜥蜴の『甚公』
來たのは白兎でした、再び駈け戻つて來て、恰も何か遺失物でもした時のやうにきよろ/\四邊を見廻しながら、『公爵夫人!公爵夫人!オヤ、私の可愛い足は!私の毛皮や髯は!何と云つても屹度夫人は私を罰するに違ひない!何處へ其れを落したかしら?』と呟くのを聞いて、愛ちやんは立所に屹度兎が扇子と白い山羊仔皮の手套とを探して居るに違ひないと思つて、深切にも其れを尋ねてやりましたが、何處にも見えませんでした。――あの涙の池で泳いでからは何も彼も變つたやうで、硝子洋卓も小さな戸のあつた大廣間も全く何處へか消え失せて了ひました。
忽ち兎は愛ちやんの居るのに氣がつき、聲を怒らして呼びかけました、『オヤ、梅子さん、其處に何をしてるの?早く行つて手套と扇子とを持つてお出で!早くさ!』愛ちやんの驚きは如何ばかりでしたらう、直ぐに兎の指した方へ向つて駈け出しました、間違つてるのも何も關はず。
『私を小間使だと思つてるのよ』と愛ちやんは駈けながら獨語を云ひました。『喫驚して人の見境もないんだわ!だけど、扇子と手套は持つて來てやつた方が可いわ――さうよ、若し有つたら』云ひ終ると同時に小綺麗な小さな家へ來て居ました、其入口にはぴか/\した眞鍮の表札に『山野兎』と其名が彫りつけてありました、愛ちやんは聲もかけずに二階へ駈け上りました、眞實の梅子さんに逢つて、扇子と手套とを見付けない前に戸外へ追出されやしないかと氣遣ひながら。
『奇態だこと、兎の使ひに來るなて!』と獨語を云つて、『今度は屹度玉ちやんが私を使ひにやるだらう!』云つて愛ちやんは其時の事を種々想像して見ました、『「愛ちやん!まァ此處へお出で、用があるんだから!」「一寸お入り、乳母やも!私が歸つて來るまで鼠が逃げ出さないやうに、此鼠穴を番してお居で」だけど』と云つて尚ほ、『若し斯麽風に人を使ふやうでも、皆なが玉ちやんを家に置いて呉れるかしら!』
やがて愛ちやんは整然と片付いた小さな部屋へ行きました、窓の中には洋卓もあり、其上には(愛ちやんの望み通り)一本の扇子と二三の小さな白い山羊仔皮の手套とが載つてゐました。愛ちやんは其扇子と手套とを取上げ、將に其處を立去らうとして、姿見鏡の傍にあつた小さな壜に眼が止まりました。今度は『召上れ』と書いた貼紙がありませんでしたが、それにも拘らず愛ちやんは栓を拔いて直ちに唇に宛てがひました。『屹度今に好い心持になるに違ひない』と獨語を云つて、『私の食べたり飮んだりするものは何時でも然うですもの、何んなものだかこれも一つ試して見よう、好い鹽梅にも一度私が大きくなつて呉れゝば可いが、全く斯麽小さな容體をしてるのは可厭だわ!』
實際思つたよりも早く、それを半分飮まない中に愛ちやんは頭が天井につかへたのを知り、首の折れない用心に屈んで、急いで壜を下に置き、『もう澤山よ――もう伸びたかないわ――此通り、戸外へ出られなくなつて了つてよ――眞箇にあんなに飮まなければ好かつた!』と獨語を云ひました。
可哀相に!それは最う後の祭でした!愛ちやんは段々大きくなるばかり、見る間に床の上へ跪かなければならなくなつて、其爲に部屋は忽ち一寸の隙間もない程になりました、愛ちやんは仕方なく片方の肘は戸に凭れ、片方の腕は頭の下へ敷いて横になりましたが、それでも尚ほ寸々伸びて行つて、一番終には、愛ちやんは片腕を窓の外に突出し、片足を煙突の上へ出しました、『どんな事があつても最うこれが止りだらう、これで何うなるのかしら?』と呟きました。
愛ちやんの爲には勿怪の幸、小さな魔法壜は今充分其功能を顯はし終つたので、愛ちやんも最うこれより大きくはなりませんでした、が、それは非常に不愉快で、恐らくは再び其部屋から出られる機會がないと知つた時には、何んなに愛ちやんはつく/″\身の不幸を感じたでせう。
『家に居た方が幾ら面白かつたか知れないわ』と呟いて、最早これで大きくもならなければ小さくもなれず、其上鼠や兎に追ひ使はれるんなら。私は兎の穴を下りて來なければ好かつた――でも――でも――奇妙だわ、こんな生活!これから何うなるのかしら!私は何時もお伽噺を讀む度に、有りさうにもない突飛な事ばかり想像するのよ、今も其最中なの!屹度私の事を書いた本が出來るわ、屹度!私が大きくなつたら一つ書いてやらう――けど、今最早大きくなつたんだわね』と悲しげな聲で、『もう大きくならうとしても隙がないわ』
『これから先决して最う今より齡を加らないのかしら?』と思つて愛ちやんは、『そんなら可いけど、一つ――决してお婆アさんにはならず――けども――始終お稽古をしなければならないのですもの!それが一つ可厭だわね!』『オヤ、莫迦な愛ちやんだこと!』と自分で自分に云つて、『何うして此處でお稽古が出來て?まァ部屋もありやしないわ、それから教科書だッて!』
斯うして愛ちやんは自問自答を續けて居ましたが、暫くして外の方で何か聲がするのを聞きつけ、話を止めて耳を欹てました。
『梅子さん!梅子さん!直ぐに手套を持つて來て頂戴!』と云ふ聲がして、軈てパタ/\と梯子段を上る小さな跫音がしました。愛ちやんはそれが自分を見に來た兎だと知つて、屋をも搖がさんばかりにガタ/\慄へ上りました、自分は兎よりも殆んど千倍も今大きくなつて居るのだから何も怖れる理由はないのですが、そんな事は全然忘れて了つて。
忽ち兎は戸に近づき、それを開けやうとして中の方へ押しましたが、愛ちやんの肘が緊乎支へて居て駄目でした。『仕方がない、廻つて窓から這入らう』愛ちやんは兎が斯う獨語を云ふのを聞きました。
『それも駄目だ』と心秘かに思つてる中、愛ちやんは兎が窓の下へ來たのを知り、急に片手を伸ばして只當もなく空を掴みました。何にも捕らなかつたが小さな叫び聲と地響と硝子の破れる音とを聞きました、其物音で愛ちやんは、兎が屹度胡瓜の苗床の中へでも落ち込んだに違ひないと思ひました。
それから怒氣を含んだ聲が聞えました――兎の――『小獸や小獸や!お前何處に居るんだい?』すると聞き慣れない聲で、『此處に居るよ!林檎を掘つて!』
『林檎を掘つてるッて、眞箇か!』と兎が腹立しげに云ひました。『オイ、來て助けて呉れ!』(猶ほ硝子の破れる音がする)
『何うしたんだい、小獸、何だい窓のは?』
『オヤ、腕ぢやないか、え!(彼はそれを『うンで』と發音しました)
『腕だ、莫迦!そんな大きな腕があるものか?なんだ、窓一ぱいぢやないか!』
『さうさ、お前、けど、何と云つたつて腕に違ひない』
『兎に角、其儘で置いちや仕樣がない。行つて取つて了はう!』
後は暫らく森として、愛ちやんは只折々こんな咡きを聞きました、『眞箇だ、可厭になつちまう、さうだとも、全くさ!』『僕の云つた通りにお爲よ、卑怯だね!』終に愛ちやんは再び其手を伸ばしてモ一度空を掴みました。今度は二つの叫び聲がして、又硝子のミリ/\と破れる音がしました。『胡瓜の苗床が幾つあるんだらう!』と愛ちやんは思ひました。『彼等は次に何をするかしら!引き下せるなら窓から私を引き下して呉れゝば好いが!もう長く此麽處に居たくない!』
愛ちやんはそれから暫くの間待つて居ましたが何にも聞えませんでした。良久て小さな二輪車の響きがしたと思ふと、皆なで一緒に話しをする好い澤山の聲が一時に耳に入りました、愛ちやんは其言葉を聞き分けました、『何處にモ一つ梯子がある?――何故私は一つしか持つて來なかつたんだらう。甚公が未だ持つてる――甚公が!それを此處へ持つて來い、丁稚!其隅へ置け――先ァ皆な一緒に縛れ――皆なだッて半分も達きやしない――あァ!それで可い、別々にしては駄目だ――さァ、甚公!此繩を持つてろ――屋根は大丈夫かしら?――其緩い屋根瓦に氣をつけろ――ソラ落ちるぞ!頭の上へ!(恐ろしい響き)――オヤ誰がそんな事をしたんだ?――甚公だらう――煙突を下りて行くのは誰だ?――否え、私ぢやない!お前だ!――でも私ぢやない、甚公が下りて行くんだ――さァ甚公!旦那が然う云つたよ、お前に煙突を下りて行けッて!』
『あァ!それで甚公が煙突を下りて來たんだわ?』と愛ちやんは獨語を云つて、『オヤ、皆なが甚公の上へ何も彼も積んでるわ!私は永く甚公の居る所には居まい。此圍爐裡は屹度狹いわ、どれ、一寸蹴つて見やう!』
愛ちやんは思ひ切つて遙か下の方へ其煙突を蹴落しました、暫くすると小さな動物(愛ちやんには何だか解りませんでした)が、直ぐ其煙突の中で攀登らうとして引ッ掻く音を聞きました、乃で愛ちやんは、『これが甚公かしら』と獨語を云つて又一つ劇しく蹴つて、それから何うなる事かと見て居ました。
愛ちやんは最初多勢が一緒に、『甚公が出た!』と云ふのを聞きました、それから兎の聲ばかりで――『捕へろ、ソレ生垣の所へ!』やがて又がや/\と――『頭を抑へろ――サァ、文公――殺すな――何うしたんだ、え?何うかしたのか?云はないかよ!』
終に小さな脾弱い金切聲で(それが甚公だと愛ちやんは思ひました)『さァ、私には解らない――もう、有りがたう、もう可い――でも腹が立つて話せない――皆な知つてるけど、何だかごちや/\で雜物箱のやうだ、私は烽火のやうに空へ上つて行く!』
『然うだ!』と他の者が云ひました。
『此家を燒き潰せ!』と兎の聲。愛ちやんは精一ぱい大きな聲で、『其麽事をすれば玉ちやんを使嗾けるから可いわ!』と叫びました。
直ちに皆な息を殺して默つて了ひました、愛ちやんは心に思ふやう、『彼等はこの次に何をするだらう!若し生があるものなら屋根を取除けるやうな莫迦はしないだらう』程經て彼等は再び動き出しました、愛ちやんは兎が、『一ッ車あれば可い、さァ、行らう』と云ふのを聞きました。
『一ッ車、何だらう?』とは思つたものゝ考へてる隙もなく、軈て砂礫の雨が窓に降りかゝると見る間に、二三人して愛ちやんの顏を打擲しました。
『最う爲ないから』と愛ちやんは獨語を云つて、『皆なも最うそんな事をしないでお呉れ!』と叫びました。すると又皆な默つて了つたので四邊が森としました。
小石が床の上に落ち散つた時に、それが殘らず小さな菓子と變つたのを見て、愛ちやんは大層驚きました、が又同時に好い事を考へつきました。『若し此菓子を一つ食べたなら屹度私の大きさが變つて來るに違ひない、大抵大きくなる氣遣ひはなからう。小さくなるに定まつてる』と愛ちやんは思ひました。
其故愛ちやんは其菓子を一個嚥み込みました、ところが直ぐに縮み出したのを見て喜ぶまいことか、戸口から出られる位小さくなるや否や家から駈け出して、戸外に待つてる筈の小さな動物や鳥の全群を探しました。憐れな小さな蜥蜴の甚公が眞中に居て、二匹の豚に支へられながら一本の壜から何だか出して貰つて居ましたが、愛ちやんの姿を見ると直ぐに皆な其方へ突進しました、すると愛ちやんは何と思つたか一生懸命に逃げ出して忽ち欝蒼した森の中へ無事に駈け込みました。
『先づ第一に、復た元の身長にならなくては』と、森の中を徜徉ひながら愛ちやんは獨語を云つて、『それから第二には、あの美しい花園に行く道を探さなくてはならないが、何か良い工夫はないかしら』
彼此と種々優れた簡便な方法を稽へては見たものゝ、只厄介な事には何うして其れを實行すべきかと云ふ名案を持たなかつたことです。愛ちやんは心配さうに木々の間を覗き廻つてゐましたが、軈て其頭の眞上にあつた小さな尖つた木の皮に、ひよいと眼が着きました。
恐ろしく大きな犬ころが、大きな圓い眼をして愛ちやんを見下して居ました、愛ちやんに觸らうとして前足を一本恐る/\伸ばして。愛ちやんは媚へるやうな聲で、『まァ、可哀相に!』と云つて、思はず口笛を吹かうとしました、が、待てよ、若し其犬ころが飢ゑて居ては、幾らお世辭をつかつても屹度噛み殺されて了うに違ひないと思つて、心配の餘りガタ/\慄へてゐました。
われ知らず愛ちやんは小枝の切ッ端を拾ひ上げ、それを犬ころの方へ出してやると、犬ころは直ちに四ッ足揃へて空に跳び上りさま、喜び勇んで其枝に吠えつきました、乃で愛ちやんは跳びつかれては大變だと大きな薊の後へ身をかはしました。一廻りして愛ちやんが他の方へ現れた時に、犬ころはモ一度枝を目蒐けて跳びかゝり、それに掴まらうとして餘り急いだ爲め、過つて筋斗返りを打ちました。其時愛ちやんは犬ころが、馬車馬の眞似をして遊ぶのが大好きだと云ふことを思ひ出したので、踏みつけられては大變だと再び薊の周圍を廻りました、犬ころは其枝へ跳びうつるばかりになつて、嬉しさうに絶えず戯れたり吠えたりして、呼吸苦しい所爲か、ゼイ/\云ひながら、其口からは舌を垂れ、又其大きな眼を半ば閉ぢてゐました。
われ知らず愛ちやんは小枝の切ツ端を拾ひ上げ、それを犬ころの方に出してやりました、
愛ちやんは今こそ逃げるに好い時だと思つて遽かに駈け出し、終には疲れて息も絶れ、犬ころの遠吠が全く聞えなくなるまで走り續けました。
『でも、可愛い犬ころだッたわね!』息まうとして毛莨に凭り掛つた時に、其葉の一枚を取つて扇ぎながら愛ちやんが云ひました、『私が若しそんな事をする年頃ならば、ねえ!――もつと澤山惡戯を教へてやつたもの!復た大きくならなければならないのだが!しかし――何うしたら可いでせう?屹度何か食べるか飮むかすれば可いに違ひないわ、けれども茲に大問題があるのよ、何?』
大問題と云ふのは確かに『何?』と云ふことでした。愛ちやんは自分の周圍にある草の花や葉を殘らず見ましたが、此場合食べたり飮んだりして可いやうな適當の物を見出すことが出來ませんでした。所が不圖傍を見ると自分の身長くらゐもある大きな菌が出て居るのに氣がつくや、早速其兩面と後ろとを見終つたので、次には其頂きに何があるかを能く檢査する必要が起つて來ました。
愛ちやんは爪先で立上り、菌の縁を殘る隈なく見て居る中、端なくも其眼は直ちに大きな青い芋蟲の眼と出合ひました。芋蟲は腕を組んで其頂きに坐り、悠々と長い水煙草の煙管を喫してゐて、愛ちやんや其他の物にも一切眼をくれませんでした。
第五章
芋蟲の訓誨
芋蟲と愛ちやんとは互に暫く默つて睨ツ競をして居ましたが、終に芋蟲が其口から煙管を離して、舌ッたるいやうな眠さうな聲で、
『誰だい?』と言葉をかけました。
こんな事ではなか/\談話の口切にはなりませんでしたが、それでも愛ちやんは些や羞かみながら、『私――さうね、今――それは今朝起きた時から私が誰だか位は知つゝてよ、けれども是迄に何遍も變つてるからね』
『何だつッて?』芋蟲は嚴めしさうに云つて、
『お前何者だ!』
『何だか解らないの、自分で自分が』と云つて愛ちやんは、『でも、自分が自分でないんだもの、ね』
『解らないなァ』と芋蟲が云ひました。
『けど、もつと分明云へと云つたつてそれは無理よ』愛ちやんは極めて愼ましやかに答へて、『でも、私は初ッから自分で自分が解らないんですもの、幾度も大きくなつたり小さくなつたりしたんで、何が何だか滅茶苦茶になつて了つてよ』
『そんな筈はない』と芋蟲が云ひました。
『では、未だお前はそれを知らないんだわ』と云つて愛ちやんは、『でも、お前が蛹に化つてから――何時かしら屹度解るわ――それから更た蝶になる時に、お前はそれを幾らか變だと思ふに違ひないわ?』
『些とも、何とも思やしない』と芋蟲が云ひました。
『まァ、お前の感覺は何うかしてるんだわ』と云つて愛ちやんは、『私には何うしても變に思はれてよ』
『お前に!』と芋蟲は輕蔑して、『一體お前は誰だい?』
爰で復た話談が後戻りをしました。愛ちやんは芋蟲がこんな詰らぬ念を押すので少し焦心ッたくなつて、やゝ後退りして極めて眞面目に構へて、『お前こそ誰だ、一體前に話すのが當然ぢやなくッて』
『何ッ?』と芋蟲。
乃で種々押問答しましたが、愛ちやんの方でも別段巧い理屈も出ず、殊に芋蟲が非常に不興げに見えたので、愛ちやんは早速戻りかけました。
『お還りよ!』と芋蟲が後から呼びかけて、『大事な事を云ひ殘したから!』
これは確かに有望だと思つて、愛ちやんは振向きさま再び歸つて來ました。
『さう怒るものぢやない』と芋蟲が云ひました。
『其ッ限り?』と愛ちやんはグツト怒りを嚥み込んで云ひました。
『否え』と芋蟲。
愛ちやんは他に別段用事もなかつたので、大方終ひには何か良い事を話して呉れるだらうと思つて悠然待つてゐました。暫くの間芋蟲は話しもしないで莨の煙を吹いて居ましたが、終には腕組を止めて再び其口から煙管を離し、
『それでもお前は變つたと思へるか、え?』
『さうらしいのよ』と云つて愛ちやんは、『でも、習慣になつて了つて憶えて居られないわ――だッて、十分間を全く同じ大きさで居られないのですもの』
『憶えて居ないッて、何を?』と芋蟲が云ひました。
『私、「小さな蜜蜂」の唱歌を云つて見たの、けど、皆な違つて居たのよ!』と愛ちやんは大層悲しげな聲で答へました。
「『裏の老爺さん」を復誦して御覽』と芋蟲が云ひました。
愛ちやんは兩手を擴げて、歌ひ初めました。――
若い男の云ふことにや、
『裏の老爺さん、白髮になつた、
それでも、頭で立つては居るが――
幾歳になつたか憶えてゐるか?』
裏の老爺さんの云ふことにや、
『若い時分にや一生懸命、
腦味噌痛めぬ算段ばかり、
斯うした平氣も、それがため』
若い男の云ふことにや、
『老爺さん、此頃莫迦げて肥えた、
それでも、妄に、戸板の上で、
筋斗返りするとは何うした譯だ?』
白髮頭を振り立てゝ、
裏の老爺さんの云ふことにや、
『手足へ貼ッ置いた膏藥の所爲で――
一錢で一箱――二箱賣ろか?』
若い男の云ふことにや、
『蝋より軟い頥してゝ
骨から嘴から、すッかり揃た――
そんな鵞鳥が何うして造つた?』
裏の老爺さんの云ふことにや
『これでも、若い時や、芝ッ原へ出かけ、
偶には、嚊ァと角力をとつた、
腕の力の今猶ほあれば』
若い男の云ふことにや、
『年齡の加减で眼は霞んでも、
鼻ッ粱で鰻の藝當――
感心する程、上手な技倆』
裏の老爺さんの云ふことにや、
『これで、三つの問答が終へた、
文句云はずに、さッさと歸れ、
歸らにや、蹴るぞよ、梯子段の下へ!』
『それは間違つてる』と芋蟲が云ひました。
『間違つてるかも知れないわ』と愛ちやんは恐る/\云つて、『二言や三言は變へたのよ』
『始から終まで間違つてる』と斷乎芋蟲が云ひました。それから双方とも口を噤んで了つたので、暫くの間又森としました。
やがて芋蟲から、
『どの位大きくなりたいのか?』と訊きました。
『特別然う大きくなりたかないの』と答へて愛ちやんは忙しさうに、『他の人もこんなに度々變るかしら、え』
『知らないねえ』と芋蟲。
愛ちやんは何とも云ひませんでした、生れてから今までに斯麽無愛想な事を云はれたことがなかつたので、愛ちやんは甚だ面白からず思ひました。
『お前それで滿足かい?』と芋蟲。
『然うねえ、も少し大きくなりたいの、知らず識らずの中に』と云つて愛ちやんは、『三寸ばかりぢや見窄らしくッて不可いわ』
『それで結構さ!』と芋蟲は氣短かに云つて、ツイと伸し上ると(それが丁度三寸の高さでした)。
『其位ぢや滿足は出來ないわ』と痛ましげな聲で憐れな愛ちやんが呟いて、さて思ふやう、『何うかして芋蟲を怒ッぽくしない工夫はないものかしら』
『今に習慣で何ともないやうになつて了う』と云つて芋蟲は、口に煙管を啣へて再び喫み初めました。
今度も愛ちやんは、芋蟲が復た話し出すまで辛抱して待つて居ました。良久して芋蟲は口から煙管を離し、二つ三つ欠をして身振ひしたかと思ふと、軈て菌の下を草の中へ這ひ込みました、只斯う云ひ殘して、『一方へばかり、もッと高く、それから一方は、ずッと短かくしてやらう』
『一方ッて何の?モ一方ッて何方?』と愛ちやんは考へました。
『菌のさ』と芋蟲は、恰も愛ちやんに問はれたかの如く聲高に云つて、直きに見えなくなりました。
愛ちやんは暫く立停り、其兩面を知らうとして一心に菌を眺めて考へ込みました、それが全く眞圓だつたので、これは甚だ厄介な難問題だと思ひました。が、やがて愛ちやんは、伸びるだけ遠くへ兩腕を伸ばして、其端を一片叩き落しました。
『さァ、何方が何方?』と呟いて、功能を試すために右手に持つた一片を少し舐めました、すると愛ちやんは忽ち、其顎の下を強か打たれたのに氣がついて、不圖見ると、顎と足と鉢合せをしてゐました。
愛ちやんは此急激な變化に一方ならず驚かされました、逡巡してる場合ではないと知つて、直に他の手に持つた一片を食はうとしましたが、顎が足に緊乎と接合いて了つてるので、殆んど口を開くことも出來ませんでした、辛とのことで左手の一片を少しばかり嚥み込みました。
* * * *
* * * *
『オヤ、私の頭は何處かへ行つて了つたわ』愛ちやんは雀躍して喜んだ甲斐もなく、其喜びは忽ち驚きと變じました、愛ちやんは自分の肩が何處にも見えなくなつたのに氣がついて、方々探し廻り、下を見ると驚く程首が長くなつて居て、宛でそれは、遙か眼下に横たはれる深緑の木の葉の海から抽き出て居る莖のやうに見えました。
『あの緑の織物は皆な何でせう?』と云つて愛ちやんは、『何處へ私の肩は行つて了つたのかしら?オヤ、可哀相に、何うしたんでせう、私の手も見えないわ?』愛ちやんは斯う云ひながらそれを振つて見ましたが、別に變つた事もなく、只遠方の緑の葉の中で、それが僅かばかり動いてゐました。
頭へ其手を上せることは迚も出來さうもないので、愛ちやんは頭を下げて手に達かせやうとして、今度は自分の首が蛇のやうに容易に遠くの方へ曲り廻るのを見て大變喜びました。愛ちやんは軟かい梢を押し分けて、其首を突ッ込み、半圓を描きながら巧みに青葉の中に濳らうとしました、愛ちやんは此時まで、木の葉は只樹の頂上にのみあるものだと思つてゐました、木の下に徉徜徜」はママ]つてると何處ともなく叱ッと云ふ聲がしたので、思はず愛ちやんは後退りしました、ト一羽の大きな鳩が顏に飛びついて、翼を以て激しく愛ちやんを搏ちました。
『蛇だ!』と鳩が叫びました。
『蛇ぢやないわ!』と愛ちやんは腹立しげに云つて、『大きなお世話よ!』
『ナニ蛇だ、蛇だ!』と繰返しましたが鳩は、以前よりも餘程優しく、其上可哀相に歔欷までして、『私は種々經驗したが、蛇に似寄つたものは他に何もない!』
『お前の云ふことは少とも解らない』と愛ちやんが云ひました。
『私は所有木の根を驗べました、堤防も試ました、それから垣も』と云ひ足して、鳩は愛ちやんには關はず、『けど蛇は!誰でも嫌ひだ!』
愛ちやんは益々何の事だか譯が解らなくなりましたが、鳩の言葉の終るまで何にも云ふまいと控へてゐました。
『縱令、それが全く卵を孵す邪魔をしないにせよ』と云つて鳩は、『それにしても、私は晝夜蛇を見張らなければならない!さう云へば、私はこの三週間些とも羊の影も見ないが!』
『まァ、氣の毒だわねえ』愛ちやんは徐々その意味が解つて來ました。
『何時でも森の中の一番高い木に登つて』と云つて鳩は、金切聲を張上げて、『これなら大丈夫だと思つてると屹度、彼奴が宙からぶらりと下つて來る!ソラ、蛇だ!』
『でも、私は蛇ぢやなくッてよ、さうよ!』と云つて愛ちやんは、『私はね――私はね――』
『え、お前は何?』と鳩が云つて、『何か發明でもする人かね!』
『私――私は小さな娘よ』と云つて愛ちやんは、一日の中に何遍も變化したことを思ひ出して、些や顧慮いやうな氣がしました。
『さうか、眞箇に!』と鳩は甚く輕蔑した口調で、『これまでに澤山小さな女の子を見たが、人間はそんな首をしちや居ない!いや/\!お前は蛇だ、何と辯疏しても駄目だ。お前は未だ卵の味を知るまい!』
『知つてるわよ、私、卵を食べたわ、眞箇よ』と極めて正直な愛ちやんが云ひました、『小さな女の兒だつて蛇のやうに矢張卵を食べるわ、けど』
『何うだか』と云つて鳩は、『若し然うなら、彼等も蛇の一種だ、さうだらう』
愛ちやんは呆氣にとられて暫く凝と默つて居ました、そこで鳩が又、『お前は卵を狙つてる、的然知つてるから。お前が小さな女の兒であらうと、假令又蛇であらうと、それは一向差支へないやうなものだが!と云ひ續けました。
『大變差支へるわ』と愛ちやんは急いで云つて、『卵など狙つちや居なくつてよ、そんな、そんな卵なんて欲しかないわ。生なもの厭なこッた』
『巧い事云つてら!』と云ひ捨てゝ鳩は再び巣に落着きました、愛ちやんは首が枝から枝に絡みさうなので、出來るだけ森の中に屈んでゐましたが、歩く時には屡々足を停めて、それを彼方此方へ曲げなければなりませんでした。軈て愛ちやんは猶ほ其兩手に菌の缺片を持つてゐたのに氣がついて、怕る/\再びそれを食べ初めました、初めは一方を、それから他の方を交る/″\舐めて、普通の身長になるまでには幾度大きくなつたり小さくなつたりしたか知れませんでした。
長い間かゝつて辛と元の大きさになるや、愛ちやんは常の如く獨語を云ひ初めました、『まァこれで安心した、餘り變るので何が何だか譯が解らなくなつて了つたわ!一分間と同じで居ないのですもの!けど、最う今は元の大きさよ、これから彼の美しい花園に這入りさへすれば可いんだ――何うしたら入れるかしら?』其時愛ちやんは突然打開いたる廣場に出ました、其所には漸く四寸位の高さの小家がありました、『誰が住んでも關はないのだらう』と愛ちやんは思ひました、『此位の身長では駄目よ、さうだ、一つ彼等を驚ろかしてやらう!』と云つて愛ちやんは、再び右手の一片を舐め初めました、それから九寸位の高さになるまでは、何うしても其家の側へ近寄りませんでした。
第六章
豚に胡椒
暫時の間愛ちやんは立つて其家を眺めながら、さてこれから何うしたものだらうと思案最中、突然一人の歩兵が制服を着けて森の中から驅け出して來ました――(制服を着けて居たので一見歩兵と云ふことが解りましたが、さもなければ、只其顏だけで判斷したなら、或は愛ちやんは其の者を魚と稱んだかも知れませんでした)――拳で荒々しく戸を敲くと、戸は中から制服を着けた、圓顏で蛙のやうに大きい眼をしたモ一人の歩兵の手で開かれました。歩兵は二人共、其縮れた髮の毛に殘らず火藥を仕込んで居るやうに愛ちやんは思ひました。愛ちやんは何も彼も不思議で堪らず、森の外に這ひ出して、聞ゆる事もやと耳を欹てました。
魚の顏した歩兵は其腋の下から殆んど自分の身長位もありさうな大きな手紙を取り出して、此れをモ一人の歩兵に手渡しながら嚴かな口調で、※公爵夫人の許へ毬投げのお催しあるに就き、女王樣よりの御招待状』。すると今度は蛙の歩兵が、同じ嚴かな口調で繰返しました、只僅か言葉の順を變へて、『女王樣より。球投げのお催しあるにつき公爵夫人への御招待状』
云つて二人が互に丁寧にお辭儀をし合つた時に、双方の縮髮が一緒に絡みつきました。
愛ちやんはこれを見て哄笑しました、しかし其聲を聞きつけられては大變だと思つて急いで復た森の中へ駈け戻りました。良久して覘いて見ると魚の歩兵の姿はなくて、モ一人の方が戸の側に地面の上に坐つて、茫然空を凝視てゐました。
愛ちやんは恐る/\傍まで行つて戸を敲きました。
『そんな箇所を敲く必要はない』と云つて歩兵は、『私がお前と同じ戸の傍に居るではないか、それに中で彼麽噪ぎをして居るのに、何が聞えるものか』確かに中では恐ろしい大噪ぎをして居ました――絶えず吼えたり、嚏をしたり、それから時々悽じい音がしたり、宛で皿や鍋が粉々に打碎かれるやうに。
『萬望、そんなら』と云つて愛ちやんは、『何うすれば中へ這入れるの?』
『敲く以上は何か意味が無くてはならない』と云つて歩兵は、愛ちやんに關はず續けました、『若し吾々二人の間に戸があつたとしたら。譬へばお前が中に居て敲いたとする、さうすれば私はお前を外へ出してやると云ふものだらう、ね』斯う話してる間も彼は絶えず空を仰視て居るので、愛ちやんは眞個に無作法な者もあればあるものだと思ひました。『けど屹度然うしないやうには出來ないんだわ』と愛ちやんは獨語を云つて、『だッて彼の眼が彼麽に頭の天邊についてるんですもの。でも、兎に角私の質問には答へて呉れてよ。――何うしたら中へ這入れて?』と再び聲高に云ひました。
『私は只此處に坐つて居れば可いンだ、明日まで――』と歩兵が云ひました。
此時家の戸が開いて、大きな皿が歩兵の頭の上を眞直に、それから鼻の尖を掠つて、背後にあつた一本の木に當つて粉々に破れました。
『其又明日も、大抵』と歩兵が同じ調子で續けました、恰も全く今何事もなかつたかの如くに。
『何うしたら中へ這入れて?』と以前よりも一層大きな聲で再び愛ちやんが訊ねました。
『お前、何うしても這入りたいのか?』と云つて歩兵は、『それが第一の難題』
それは全く其れに違ひなかつたが、只愛ちやんは然う云はれたのが口惜しくて堪らず、『まァ、怖ろしいこと、澤山動物が喧嘩してるンですもの。其麽所へ行く者は狂人だわ!』と呟きました。
歩兵は得たり賢しと、『私は何時迄も何時迄も、毎日々々此處に坐つて居れば可いンだ』と繰返しました。
『そんなら、私は何うするの?』と愛ちやんが云ひました。
『どうともお前の勝手』云つて歩兵は口笛を吹き初めました。
『それぢや、話しにならないわ』と愛ちやんは自棄になつて、『何て、愚物なんだらう!』と云ひながら、戸を開けた中へ這入りました。
這入ると眞直に大きな厨房へ行きました。厨房は隅から隅まで烟で一ぱいでした、公爵夫人は中央の三脚几に凭つて坊ッちやんに乳を飮まして居ました、それから料理人は圍爐裡の彼方で、肉汁でも一ぱい入つてゐさうな大鍋を掻き廻して居ました。
『まァ、澤山胡椒が入つてること、肉汁の中に!』愛ちやんは斯う云ひながら大變嚏をしました。
四邊は其香ひで大變でした。公爵夫人でさへも、坊ッちやんと殆んど交る/″\嚏をして、噎せる苦しさに互に頻切なしに泣いたり喚いたりして居ました。厨房に居るもので嚏をしないのは只料理人と、それから竈の上に坐つて、耳から耳まで剖けた大きな口を開いて、齒を露出して居た一疋の大猫ばかりでした。
『後生ですから話して下さい』と些や改つて愛ちやんが云ひました、然うした素振で話しかけても可いか何うか全く解らなかつたので、『何故その猫は其麽に齒を露出してゐるのですか?』
『それは朝鮮猫です』と云つて公爵夫人は、『コレ、豚!』
夫人が急に大聲で斯う云つたので、愛ちやんは喫驚して跳び上りました。
が直きにそれは坊ちやんに云つたので、自分に云はれたのではないと知つて、元氣づき又云ひ出しました、
『私は今迄、朝鮮猫が始終齒を露出して居るなんて事を些とも知りませんでした、眞個に知らずに居ましたわ、猫が齒を露出すなんて事を』
『どの猫でも皆な然うです』と公爵夫人は云つて又、『大抵のが爲ます』
『私は些とも知りませんでした』と丁寧に云つて、愛ちやんは談話の乘勢んで來たのを大層喜びました。
『お前は薩張未だ何も知らないね』と云つて公爵夫人は、『それは眞個の、事なんです』
愛ちやんは念を押すやうに云はれたのを面白からず思つて、何か他の話題を始めやうとして、彼れか此れかと考へて居ました。愛ちやんが此事を一つ話さうと定める中に、料理人は圍爐裏から肉汁の鍋を取り外して、手當り次第に何も彼も投げ始めました、公爵夫人に達く程でしたから無論坊ちやんにも當りました。火箸が眞ッ先に飛んで來て、それから續いて肉汁鍋や、皿や小鉢の雨が降つて來ました。公爵夫人は、其等が我が身を打つをも平氣で居りました。坊ッちやんは最早オイ/\泣いてばかりゐて、何にも云はないので、怪我をしたのかしないのか一向譯が解りませんでした。
『オヤ、何うしてたの、氣をおつけなね!』と叫びながら愛ちやんは怖れ戰慄いて跳ね廻りました。『オヤ、其處に彼れの大事な鼻が歩いて行つてよ』通常ならぬ大きな肉汁鍋が其の側に飛んで來て、正にそれを取つて去つて了つたのです。
『若し、人各々その仕事に專念なる時は』と公爵夫人は咳嗄れた銅鑼聲で云つて、『世界は常よりも迅かに回轉します』
『何方にしても利益はないでせう』と愛ちやんが云ひました、自分の知慧嚢の幾分を示す機會に到つたのを大變喜ばしく思つて、『まァ、考へても御覽なさい、夜晝爲るなんて何んな仕事でせう!貴方は地球が其地軸を回轉するに二十四時間を要する――』
『ナニ、挫くと云ふのか』公爵夫人は愛ちんやが、地軸と云つたのを挫くと聞き違へて、『娘の頭を捩斷つて了へ』と云ひました。
愛ちやんは、若しや料理人がそれを覺りはしないかと、稍々氣遣はしげにその方を眺めました、が、料理人は忙はしげに肉汁を掻き廻して居て、それを聞いて居ないやうに見えたので、愛ちやんは再び思ひ切つて云ひ續けました、『二十四時間だつたわ、確か、ハテ、それとも、十二時間だつたかしら?私は――』
『五月蠅ね』と云つて公爵夫人は、『そんな事に關つては居られない!』乃で夫人は再び其子供に乳を飮ませ始めました、一種の子守歌を唱ひながら、一節終へるとは其子を搖り上げて、
『子供の時分にや嚴しく仕込め、
嚏をしたらば背中を敲け、
憂き目を見るのも心がら、
苦しい事には耐へ忍べ』
合唱
(其所で料理人と赤子が一緒に)、――
『良い子だ!良い子だ!良い子だよ!』
公爵夫人は其第二節を唱ふ間も、絶えず赤子を甚く搖り上げたり搖り下したりしたものですから、可哀相に小さなのが泣き叫ぶので、愛ちやんは殆んど其の一語々々を聽き取ることが出來ませんでした、――
『それ故、嚴しく云ふたぢやないか、
嚏すれや背中を打ちますよ、
何うして其麽に好きなんだらう、
いつでも/\胡椒ばかり!』
合唱
『良い子だ!良い子だ!良い子だよ!』
『さァ!お前少しあやして御覽、好きなら!』公爵夫人は赤子を投げ出しながら愛ちやんに、『私はこれから行つて、女王樣と毬投げをする仕度をしなければなりません』云つて急いで、部屋の外へ出て行きました。料理人は夫人が出て行つた時に、其後から鍋を投げつけました、それでも好い鹽梅に當りませんでした。
愛ちやんは不器用な手つきで赤子を取りました、それは妙な格好をした小さな動物で、其れが付いてるまゝに其腕や脚を皆な外へ出すと、『恰度海盤車のやうだ』と愛ちやんは思ひました。此哀れな小さな物は、愛ちやんが捕へた時に蒸氣機關のやうな恐ろしい鼻息をしました、それからわれと我が體を二つに折り重ねたり、又眞直に伸ばしたりなどしたものですから、最初辛と一二分間それを抱いて居たのも、却々容易なことではありませんでした。
好い工合にそれを抱く方法を考へつくや否や、(それを瘤のやうに丸めて了つて、それから其れが解けないやうに、其右の耳と左足とを緊乎と持つて)愛ちやんはそれを廣場へ持つて行きました。『若し私が此子を一緒に伴れて行かなかつたならば』と思ふや愛ちやんは、『皆なが一日二日で其れを殺して了ふに違ひない、それとも打棄放しにして置いても大丈夫かしら?』愛ちやんが尻上りに斯う云ひますと、其小さな物が唸り出しました(今度は嚏をせずに)。『唸つちや可厭よ、唸つて居たつて何だか解りやしなくッてよ』と愛ちやんが云ひました。
赤子が復た唸つたので、何うかしたのではないかと、愛ちやんは氣遣はしげに其顏を覘き込みました。紛ふ方なく其處には、普通の鼻よりも獅子ッ鼻に酷似の、甚くそッくり反つた鼻がありました、又其眼も赤子にしては非常に小さすぎました、全く愛ちやんは、其容貌を見るのも可厭になつて了ひました。『でも、屹度歔欷してるのだ』と思つたもんですから、若しや涙が出ては居ないかと、再び其兩眼を見ました。
ところが、一滴の涙もありませんでした。『若しもお前が豚になつて了うならば、ねえ』と愛ちやんは眞面目に云つて、『さうすれば世話がなくて可いけれど、ねえ!』憐れな小さな物が再び歔欷しました(否、唸りましたが、何と云つたのだか解りませんでした)、乃で兩方とも暫くの間默つてゐました。
愛ちやんは熟と考へ初めました、『さて、私がそれを家へ伴れて行つて何うしやう?』やがて又甚く唸つたので、愛ちやんは驚いて其顏に見入りました。今度こそは何と云つても、寸分豚に相違ありませんでしたから、愛ちやんも最う其れを伴れて行くのは全く莫迦氣たことだと思ひました。
乃で、愛ちやんは其小さな動物を下へ置き、屹度それが徐かに森の中へ逃げ込むだらうと思つて見てゐました。『若しそれが大きくなつたら』と獨語を云つて、『隨分醜い子供になるでせう、けど、何方かと云へば大人しい豚よ』云つて愛ちやんは、豚にでもなりさうな、自分の知れる限りの他の子供等の身の上をよく/\考へながら、『若し誰かゞ、巧く彼等を變へる方法を知つて居たならば――』と我れとわれに云つて、恰も其時朝鮮猫が、二三尺距つた樹の枝の上に坐つて居るのを見て、少からず驚かされました。
猫は愛ちやんを見て、唯その齒並を見せたばかり
猫は愛ちやんを見て、唯その齒並を見せたばかりでした。優しさうだと愛ちやんは思ひました、矢張其れが大層長い爪と澤山の齒とを持つてゐたので、鄭重にしなければならないとも考へました。
『猫兒や』猫の氣に入るか何うかは解りませんでしたが、兎に角愛ちやんは些や恐る/\斯う呼びかけました。けれども猫は、只以前よりも稍々廣く齒を出して見せたばかりでした。『まァ、大層悦んでること』愛ちやんは然う思つて猶ほも言ひ續けました。『教へて頂戴な、ね、私は此處から何方へ行けば可いの?』
『それは云ふまでもなく、お前の往く所に依るさ』と猫が云ひました。
『所處へでも關やしないわ――』と愛ちやんが云ひました。
『それなら、何方の道へ行つたつて關やしない』と猫が云ひました。
『――私が何處かへ出られるまで』と愛ちやんは説明のやうに附加へました。
『あァ、それでも可いさ、只長く歩きたいのなら』と猫が云ひました。
愛ちやんもこれには何とも抗辯し兼て、今度は他の事を聞き初めました。
『此邊にはどんな種類の人間が住んでるの?』
『其邊には』と云ひながら猫は、其右の前足を振つて弧を描き、『帽子屋が住んで居る、それから其方の方には』と他の前足を振つて、『三月兎が住んでゐる。何方でもお前の好きな方を訪ねて御覽、何方も皆な狂人だから』
『でも、私、狂人の中へなぞ行きたかなくッてよ』と愛ちやんが云ひました。
『ナニ、そんな事を云つても駄目だ』と猫が云ひました、『自分達だつて皆な斯うして居たつて狂人なんだ。私も狂人。お前も狂人』
『何うして私が狂人だつてことが解つて?』
と愛ちやんが云ひました。
『だつて、然うぢやないか』と猫が云つて、『さもなければ、お前は此麽所へ來なくても可いぢやないか』
愛ちやんは全く、何と答へのせんやうもありませんでしたが、それでも猶ほ、『それから、お前の狂人だと云ふことは何うして解つて?』と云ひつぎました。
『さうねえ』と云つて猫は、『犬は狂人でない。さう云つたら嬉しいかい?』
『然うよ』と愛ちやんが云ひました。
『それならねえ』と猫は續けて云つて、『お前は、犬が怒る時には唸り、喜ぶ時には其尾を振るのを見たらう。ところが今、私は喜ぶ時に唸り、怒る時に尾を振る。だから私は狂人さ』
『それは咽喉をゴロ/\させるんだわ、唸るんぢやなくつてよ』と愛ちやんが云ひました。
『何とでも好きなやうに云ふさ』と猫は云つて、『お前は今日、女王樣と毬投げをしないの?』
『私、それが大好き』と愛ちやんが云つて、『だけど、私は未だ招待されないのよ』
『又其處で逢はうね』と云つて猫は姿を掻き消しました。
愛ちやんは此れを左程に驚きませんでした、種々の不思議な出來事には全然慣れて了つて。それが居た所を見て居ますと、突然復た其れが現はれました。
『時に、赤子は何うしたかしら?』と猫が云つて、『私は聞くのを殆んど忘れて居ました』
『豚になつてよ』と愛ちやんは徐かに云ひました、恰も然うなるのが當然であるかのやうに。
『大方然うだらうと思つた』と云つて猫は再び消え失せました。
愛ちやんは、軈て又それが現はれるだらうと豫期して、暫くの間待つてゐました、が、それは到頭姿を見せませんでした、良久して愛ちやんは、三月兎が住んでると云はれた方へ歩いて行きました。『私は甞て帽子屋を見たことがある』と獨語を云つて、『三月兎とは大變面白いのね、大方これが五月なら狂人になつて暴れ廻るだらう――假令三月程ではなくとも』愛ちやんは斯う云つて上を見ると、復た其猫が木の枝の上に坐つてゐました。
『お前は豚と云つたのか、それとも贅肉と云つたのか?』と猫が云ひました。
『豚ッて云つたのよ』と愛ちやんは答へて、私はお前が何時までも然うして出て居ないで、急に失くなつて呉れゝば可いと思つてるのよ、眞個に眩暈がするわ』
『可し』と云ひながら、猫は今度徐々消え失せました、尾の尖端から引ツ込み初めて、體が全然見えなくなつて了つても、一番終ひに猶ほ暫くの間、其露出した齒ばかりは殘つて居ました。
『でも!私は度々齒を出して居ない猫を見てよ』と愛ちやんは云はうとしたものゝ、『齒を露出してるものは猫の他に!私が是迄に見たものゝ中で一番奇妙なのは』
愛ちやんは幾らも歩かない中に、三月兎の家の見える所へ來ました、それは耳のやうな格好をした煙突もあれば、毛皮葺きの屋根まである整然した家に違ひありませんでした。それは莫迦げて大きな造りでした、愛ちやんは又左手に持つて居た菌の一片を舐めて、殆んど二尺の高さに達した迄は、きまりが惡くてその側へ思ひ切つて近寄れませんでした、二尺になつた時ですらも愛ちやんは、些や臆しながら其方へ歩いて行きました、『屹度それは何うしても暴れる狂人に違ひない!私はそれよりも寧ろ帽子屋を見に行きたいわ!』と云ひながら。
第七章
狂人の茶話會
其家の前なる一本の木の下には洋卓が一脚置いてあつて、三月兎と帽子屋とが其處で茶を飮んで居ると、一疋の福鼠が其間へ來て坐つて居ましたが、軈て熟く眠つて了つたので、他の者らは好い幸ひに其れを坐布團にして其上に彼等の肘を載せ、其頭を越えて向ひ合せになつて話してゐました。『福鼠はさぞ心地が惡いだらう』と愛ちやんは思ひました、『只眠つてるばかりで氣が付かないんだわ』
洋卓は大きなものでした、が、彼等は三つとも皆な其一隅に一緒に群集つて居ました。『空いてないよ!空いてないよ!』と彼等は愛ちやんが來るのを見た時に叫びました、『澤山空いてる!』と愛ちやんは怒つて云ひながら、洋卓の片端にあつた大きな肘懸椅子に腰を卸しました。
『酒を持つて來い』と三月兎が催促がましい口調で云ひました。
愛ちやんは洋卓の周圍を殘らず見廻しましたが、其上には茶の他に何もありませんでした。『酒なて無くッてよ』と愛ちやんが注意しました。
『其處には無いサ』と三月兎が云ひました。
『それを持つて來いなて不作法な』と愛ちやんが腹立しげに云ひました。
『招待されもしないで坐り込むなて不作法な』と三月兎が口返答しました。
『お前の洋卓だとは知らなかつたのよ』と愛ちやんは云つて、『それは三人ばかりでなく、もつと多勢のために置かれてあるんだわ』
『お前の髮は刈らなくッては』帽子屋は暫くの間さも珍らしさうに愛ちやんを眺めて居ましたが、軈て先づ斯う云ひ出しました。
『禮儀正しくおしなさい』と愛ちやんは些や嚴格に云つて、『何です、他人に對して亂暴な』
帽子屋はこれを聞いて著しく其の眼を瞪りました、が、云つたことは、『何故嘴太鴉が手習机に似てるか?』と、只これだけでした。
『さうね、今、五六本扇が欲しい』と愛ちやんは思ひました。『私は皆なで謎かけして遊ぶのが大好き。――私にだつて其れが解けると思ふわ』と續いて聲高に云ひました。
『ナニ、其れがお前に答へられるッて』と三月兎が云ひました。
『さうですとも』と愛ちやん。
『そんなら、何と云ふことだか當てゝ御覽』と三月兎が續けました。
『當てるわ』と愛ちやんは言下に答へて、『屹度――屹度私の云ふ通りに違ひないわ――さうでせう、ねえ』
『ナニ、さうぢやない!』と帽子屋が云ひました。『何故ッて、斯うも云へるぢやないか、「私が食ふところの物を見る」とも、又、「私が見るところの物を食ふ」とも!』
『斯うも云へるさ』と云つて三月兎が附加へました、『「私が買ふところの物を好む」と云つても、「私が好むところの物を買ふ」と云つても同じ事だ!』
『斯うも云へるさ』と福鼠が附言しました、宛で寢言でも云ふやうに、『「私は眠つて居る間も呼吸をしてる」と云つても、「私は呼吸をしてる間も眠つてゐる」と云つても同じことだ!』
『それはお前と同じことだ』と帽子屋が云ひました、これで談話はぱつたり止んで、其の連中は霎時默つて坐つて居ました、其間愛ちやんは嘴太鴉と、それから多くも無かつた手習机について想ひ起したことの數々を、繰返し繰返し考へました。
帽子屋が先づ其の沈默を破りました。『何日だね?』と云つて愛ちやんの方を振向き、衣嚢から時計を取り出し、不安さうにそれを眺めて、時々振つては耳の所へそれを持つて行きました。
愛ちやんは暫く考へてから云ひました、『四日』
『二日違つてる!と帽子屋が長太息を吐きました。『牛酪は役に立たないとお前に云ふて置いたぢやないか!』と言ひたして、腹立しげに三月兎の方を見ました。
『それは上等の牛酪でした』と三月兎は優しやかに答へました。
『さうか、だけど屹度、屑が同じ位入つて居たに違ひない』帽子屋は不平たら/″\で、『麺麭庖丁で其中へ押し込んだナ』
三月兎は時計を取つて物思はしげにそれを眺めました、それから彼はそれを茶碗の中へ浸して又それを見てゐました、併し彼は自分が最初云つた『それは上等の牛酪でした』と云ふ言葉より他に何も、もつと好い言ふことを考へつきませんでした。
愛ちやんは、さも不思議さうに自分の肩を左顧右盻してゐました。『可笑しな時計!』斯う云つて又、『日が解つて、それで時が解らないなンて!』
『何故だらう』と帽子屋は呟いて、『お前の時計で何年だかゞ解るかい?』
『無論解らないわ』と愛ちやんは極めて速かに答へて、『けど、それは全くそんなに長い間同じ年でゐるからだわ』
『それでは私と同じことだ』と帽子屋が云ひました。
愛ちやんは宛然狐に魅まれたやうな氣がしました。帽子屋の云つた事は何が何だか譯が分りませんでした、併しそれはそれでも確かに英語でした。『私には些とも解りませんの』と愛ちやんは出來るだけ丁寧に云ひました。
『福鼠が又睡つてゐる』と云ひさま、帽子屋は其の鼻の上へ少し熱いお茶を注ぎました。
福鼠は耐へ切れずに其の頭を振つて、眼も開かないで云ふことには、『勿論、今私が云はうと思つて居た所だ』
『お前にまァ謎が解つたのか?』帽子屋は再び愛ちやんの方へ振向いて云ひました。
『否え、私は止したの』と愛ちやんは答へて、『其の答は何?』
『些とも解らない』と帽子屋が云ひました。
『私にもサ』と三月兎。
愛ちやんは物憂さうに長太息を吐きました。『此時間で、もつと何か好いことをした方が可いわ、解けもしない謎をかけて空に浪費すよりは』と愛ちやんが云ひました。
『私のやうによくお前が時間を知つてるなら、時間浪費に話しなぞしないが可い。それは彼人さ』と帽子屋が云ひました。
『彼人ッて云つたつて、誰のことだか分りやしないわ』と愛ちやん。
『無論お前には解らないサ!』帽子屋は輕蔑するものゝ如く、其の頭を突き出して云ひました。『宜いかい、决して最う時間の事を口にしないが可い!』
『多分最う』と愛ちやんは恐る/\答へました、『だけど、私が音樂を習ふ時には、時を打たなくてはならないわ』
『それで!其理由は』と帽子屋が云ひました。『打ち續けやしないだらう。次に打つまでには可なり間がある、其の中に人は思ひ/\の仕事をする。例へば、それが朝の九時であつたと假定して、丁度其時に稽古を初める、時々何時になつたかと思つて見る、時計の針は廻つて行く!一時半に晝食!』
(『然うしたものかねえ』と三月兎が咡くやうに獨語を云ひました)
『それは眞個に結構な事だわ』と愛ちやんは分別ありげに云つて、『けど、それなら――それでもお腹は空かないかしら』
『空かないだらう、多分』と帽子屋が云つて、『お前の思ふ通り一時半まで續けられるさ』
『お前も然うするの?』と愛ちやんが訊ねました。
帽子屋は痛ましげに其頭を振り、『私ではない!』と答へて、『自分等は去る三月喧嘩をした――丁度彼れが狂人になる以前さ――』(三月兎の方を茶匙で指して)――『それは心臟の女王に依つて開かれた大會議があつて、私が斯ういふ歌を唄つた時でした
「燦然、々々、小さな蝙蝠!
何うしてそんなに光るのか!」
お前も此歌を知つてるだらう?』
『何だか聞いたことがあるやうだわ』と愛ちやんが云ひました。
『其先は、それ』と帽子屋が續けて、『こんな風だ、――
「世界の上に飛んでゐる
空にふか/\茶盆のやうに。
きら/\、きら/\――」
乃で福鼠が身振ひして、寢たまゝで唄ひ初めました『きら/\、きら/\、きら/\、きら/\、――』餘り長く續けて居るので、皆ながそれを抑えつけて止めさせました。
『さァ、辛と第一の節が終へた』と帽子屋が云つて、『其時に女王は跳び上り、「時を打殺してるのは彼れだ!其頭を刎ねて了へ!」と叫びました』
『何と云ふ野蠻な事でせう!』と愛ちやんが叫びました。
『それから後は』と帽子屋は悲しげな調子で、『私の云ふことを聞かなくなつて了つて!まァ、何時でも六時のところに止つてゐる』
愛ちやんは、礑と思ひ當ることあるものゝ如く、『それで此處に此麽に澤山茶器があるのねえ?』と訊ねました。
『まァ、そんなものサ』と帽子屋は長太息して、『それは何時もお茶時分だ、それで、間に其器を洗ふ時間もない』
『それならお前は始終動き廻つてるの?』と愛ちやんが云ひました。
『全くそうだ』と帽子屋は云つて、『其の器が始終使はれてるやうに』
『それは兎に角、終ひから復た始めに還るのには何うしたら可いの?』と愛ちやんが突飛なことを訊ねました。
『然うするには話題を變へるサ』と欠をしながら三月兎が云つて、『もう、此麽事には厭きて來た。其の若夫人に何か一つ話して貰はうぢやないか』
『お氣の毒だが一つも知らないの』と云つて愛ちやんは、些や其の發議に對して警戒しました。
『そんなら福鼠だ!』と彼等二人は叫んで、『起きろ、福鼠!』と云ひさま、同時に兩方からそれを抓りました。
福鼠は徐かに其の眼を見開き、『眠つちや居ない』と咳嗄れた脾弱い聲で、
『お前達の饒舌つて居たことは皆な知つてる』
『一つ話せ!』と三月兎。
『さう、萬望!』と愛ちやんが頼みました。
『さァ、早く』と帽子屋は促して、『それでないと、又お前が眠つて了ふからさ』
『昔々或る所に三人の小さな姉妹がありました』と福鼠は大急ぎで初めて、『其名を、榮ちやん、倫ちやん、貞ちやんと云つて、三人とも皆な井戸の底に住んでゐました――』
『何を食べて生きてたの?』と常に飮食の問題に多大の興味を有つて居た所の愛ちやんが訊ねました。
『糖蜜を舐めて』と福鼠が暫く考へてから云ひました。
『そんな事が出來るもですか』と云つて愛ちやんは優容に、『では、皆な病氣になつたでせう』
『さう/\、大變な病氣』と福鼠が云ひました。
愛ちやんは、こんな怖ろしい事をしても生きて居られるものだらうかと、少しく自分の身について想像を廻らしましたが、益々譯が分らなくなるばかりでした、ところで、『だけど何故、井戸の底に住んでゐたんでせう?』
『もつとお茶を呉れ』と三月兎が切に愛ちやんに願ひました。
『もう些とも無いわ』と愛ちやんは焦心ッたさうに答へて、『そんなに私、進上られなくッてよ』
『ナニ、少とばかりは進上られないッて』と帽子屋が云つて、『何にも無いのを呉れるのは難しいけど、澤山有るのを呉れるのは容易なことだ』
『大きなお世話よ』と愛ちやんが云ひました。
『私を誰だと思つてるか?』と帽子屋が威丈高に問ひました。
愛ちやんは云ふべき言葉もなく、幾らかのお茶と麺麭と牛酪とを出して、福鼠の方に振向き、『何故皆な井戸の底に住んでゐたの?』と問ひ返しました。
福鼠は又それについて暫く考へて居ましたが軈て、『それは糖蜜井戸でした』
『そんなものは無くッてよ!』と愛ちやんは頗る腹立しげに云ひました、帽子屋と三月兎とは、『叱ッ!叱ッ!』と續けさまに叫びました。福鼠は自棄になつて、『そんな失敬な事をするなら談話を止めて了うから可い』
『もう爲ないから、萬望話して頂戴な』と愛ちやんは極く謙遜して、『二度と喙を容れないわ。屹度そんな井戸が一つ位あつてよ』
『然うさ、一つ位!』と福鼠は焦心ッたさうに云つて、又話し續けました、『其故此等三人の姉妹は――皆なで描くことを學んで居ました――』
『何を描いて居たの?』と約束したことを全く忘れて、愛ちやんが云ひました。
『糖蜜を』今度は些とも考へずに福鼠が云ひました。
『清潔な洋盃を呉れ』と帽子屋が喙を容れて、『皆なで一つ場所を取交へやうぢやないか』
彼は斯う云つて動き出しました、福鼠が其後に隨いて行きました、三月兎は福鼠の居た場所へ移りました、愛ちやんは厭々ながら三月兎の居た所へ行きました。帽子屋が唯ッた一人場所を取り交へた爲に一番好いことをしました、愛ちやんは以前よりも餘ッ程割が惡くなりました、だつて、三月兎が丁度其時自分の皿へ牛乳壺を有りッたけ空けて了つたのですもの。
愛ちやんは再び福鼠に腹を立たせまいと、極めて愼ましやかに、『私には解りませんわ。何所から皆な糖蜜を汲んで來たのでせう?』
『お前は水井戸から水を汲むだらう』と帽子屋が云つて、『それで解るぢやないか、糖蜜井戸からは糖蜜が汲めるサ――え、さうぢやないか、莫迦な?』
未だ其言葉の終らぬ中に愛ちやんは、『だけど、皆なが井戸の中に居ては』と福鼠に云ひました。
『無論皆なが居たさ』と云つて福鼠は、『――井戸の中に』
答へられたが愛ちやんには愈々合點がゆかず、福鼠の饒舌るがまゝに委せて、少時の間敢て喙を容れやうともしませんでした。
『皆なで描くことを習つて居ました』と福鼠は言ひ續けて、欠をしたり、その眼を擦つたり、さぞ眠さうに、『皆なで種々なものを描いて居ました――ネの字のつくものは何でも――』
『何故ネの字のつくものばかり?』と愛ちやんが云ひました。
『何故、それでないのぢや不可ないか?』と三月兎が云ひました。
愛ちやんは默つて居ました。
福鼠は又その眼を閉ぢ、そろ/\坐睡りを初めました、が、帽子屋に抓られて喫驚して跳び上り、『――ネの字がつくんだ、例へば、鼠罠とか、舟とか、金とか、種とか――擧げ來れば山程ある――お前は其麽物が畫に描かれたのを見たことがあるか?』
『まア、私に訊くの』と愛ちやんはさも迷惑さうに云つて、『私知らなくつてよ――』
『話せないねえ』と帽子屋が云ひました。
輕蔑せられて愛ちやんは堪へ切れず、忌々しさうに起ち上つて、さつさと歩き出しました、福鼠は眠つてゐるし、誰れ一人として愛ちやんの出て行くのを氣にするものはありませんでした、皆なが呼び戻すだらうと思つて、愛ちやんが後を振り返つて見ると、驚くまいことか、皆なで急須の中へ福鼠を押し込まうとして居ました。
『何でも可い、もう二度と其處へは行かないから!』云ひながら愛ちやんは、森の中を徒歩て行きました。『莫迦げた茶話會よ、初めて見たわ!』
云ひ終るや愛ちやんは、一本の木に戸があつて、其中へ眞直に這入れるのに氣がつきました。愛ちやんは『これは奇妙だ!』と思ひました。『何うして今日は此麽に奇妙な事ばかりなんでせう。直に中へ行かれさうだわ』云つて愛ちやんは這ひ込みました。
再び愛ちやんは細長い大廣間の中の、あの小さな硝子洋卓の眞近へ出ました。『まア、今度は巧くやらう』と獨語と云ひながら、其小さな黄金の鍵を取つて、花園に通ずる戸を打ち開きました。それから愛ちやんは菌を甜めて(衣嚢の中に有つたもう一片の)殆んど一尺ばかりの身長になつて、その小さな路を下つて行き、軈て――愛ちやんは遂に赫灼として目も綾なる花壇や、清冽掬すべき冷泉のある、其美しき花園に入ることを得ました。
第八章
女王樣の毬投場
一本の大きな薔薇の木が、殆んど其花園の中央に立つてゐて、白い花が幾つもそれに咲いてゐましたが、其處には三人の園丁が居て、忙はしげにそれを赤く彩色してゐました。愛ちやんは處れは奇妙だと思つて、近寄つて凝と見てゐますと、やがて其中の一人が云ふことには、『意をお注けよ、何だね、五點!こんなに私に顏料を撥ねかして!』
『そんな事を云つたつて仕方がない』と拗ねた調子で五點が云ひました。『七點が私の肘を衝いたんだもの』
云はれて七點は空嘯き、『さうだよ、五點!何時でも惡い事は他人の所爲にするさ!』
『然う怒つたものぢやない!』と云つて五點は『私は昨日女王樣が、何うしてもお前は首を刎ねられるやうな惡い事をしたと云はれるのを聞いた!』
『何うしてさ?』と最初話し出したのが云ひました。
『お前の知つた事ぢやない!』と五點。『そんなら私は彼れに話してやらう――玉葱の代りに欝金香の根を料理人の許へ持つて行けッて』
七點は彼れの刷毛を投げ出し、『さア、何でも惡い事は――』圖らずも其視線が、立つて皆なの爲ることを見てゐた愛ちやんの視線と衝突り合つたので、急いで彼はそれを外らしました、他の者は云ひ合せたやうに四邊を見廻し、それから一齊に腰を低めてお辭儀をしました。
『話して聞かしてお呉れな』と愛ちやんは恐る/\云つて、『何故其麽に薔薇の花を彩色するの?』
『五點と七點とは何とも云はないで二點の方を見ました。二點は小さな聲で『何故ッて、斯うです、お孃さん、これは元來赤い薔薇の木であつたんですが私どもが過つて白いのを一つ雜ぜたのです、それで、若し其れが女王樣のお目にとまらうものなら、私共は一人殘らず皆な頭を刎ねられて了ひます。それですから、ねえ、お孃さん、私共は女王樣のお出でになる以前に、一生懸命にそれを塗つて置くんです、それ――』此時恰も花園の向ふを氣遣はしげに眺めて居た五點が、『女王樣が!女王樣が!』と叫んだので、三人の園丁は直樣各自に平伏しました。續いて多くの跫音がしたので、愛ちやんは女王樣のお顏を拜せんとして𤍠心に方々を見廻しました。
最初、十人の兵士が棍棒を携へて來ました、此等は皆な三人の園丁のやうな恰好をして居て、長楕圓形で平たくて、隅々からは其の手足が出て居ました、次に來たのは十人の朝臣で、此等は一人殘らず數多の菱形金剛石を鏤刻めて、先の兵士と同じやうに二列になつて歩いて來ました。此等の後から皇子が見えました、丁度十人在らせられて、小さな可愛い方々が最も樂しげに、手に手を取つてお二人づゝ跳んでお出でになりました、何れも皆な心臟で飾りたてられてゐました。次に來たのは多くの賓客で、大抵は王樣と女王樣とで、その中に愛ちやんは白兎の居るのを看て取りました、それはさも忙しさうに、氣短がに話しながら、云はれる事々に笑ひ興じて、愛ちやんには氣も止めずに行き過ぎました。それから續いて心臟の軍人が、眞紅の天鵞絨の座布團の上に、王樣の冠を戴せて持つて來ました、此の壯麗な行列の總殿には、心臟の王樣と女王樣とが在らせられました。
愛ちやんは自分も亦、三人の園丁のやうに平伏さなければならないか何うかは些と疑問でしたが、甞て行列に出逢つた場合、かうした規則のあることを聞きませんでした、『行列なンて一體何の必要があるのかしら』と思ふと同時に、『若し人民どもが皆な平伏さなければならない位なら、寧そ行列を見ない方が益ぢやないの?』其故愛ちやんは自分の居た所に靜かに立停つて待つてゐました。
行列が愛ちやんと相對峙する迄進んで來た時に、彼等は一齊に止まつて愛ちやんを打眺めました、女王樣は嚴肅に、『こは何者ぞ?』と心臟の軍人にまで申されました。心臟の軍人はお辭儀をしたばかりで、笑つて答へませんでした。
『痴人め!』女王樣は焦心ッたさうに御自身の頭を突き出して申されました、それから愛ちやんに振向いて、『何と申す名ぢや?子供』
『私の名は愛子です、陛下よ』愛ちやんは頗る恭々しく申し上げました、しかし愛ちやんは心の中では、『高の知れた、彼等は骨牌の一組に過ぎないぢやないか。ナニ恐れることがあるものか』と思つて居ました。
『して此等は何者か?』女王樣は薔薇の木の周りに平伏してゐた三人の園丁どもを指して申されました、何故と云ふに、彼等は俯伏せに臥てゐるし、その脊中の模樣が一組の其他のものと同じことであつて、女王樣には何れが、園丁か、兵士か、朝臣か、又御自分のお子供衆のお三方であつたかを、お判別になることがお出來になりませんでしたから。
『如何して私が存じて居りませう?』云つて愛ちやんは自ら其勇氣に驚きました。『それは私の知つた事ではありません』
女王樣は滿面朱をそゝいだやうに眞赤になつてお怒りになりました、暫時の間野獸の如く愛ちやんを凝視てお在でになりましたが、軈て、『頭を刎ね飛ばすぞ!刎ね――』と叫ばれました。
『莫迦なことを!』と愛ちやんは大聲で嚴然と云ひました。女王樣は默つて了はれました。
王樣は其お手を女王樣の腕にかけされられ、恐る/\申されました、『考へても御覽なさい、え、高が一人の子供ではないか!』
女王樣は怒氣を含ませられ、王樣から振向いて軍人に申されました、『其奴等を顛覆せ!』
軍人が顛覆しました、極はめて注意して、片脚を以て。
『起きよ!』女王樣が鋭い大きな聲で申されました。三人の園丁等は直ちに跳び起き、王樣と、女王樣と、皇子方と、それから其他の者とに、各々お辭儀をし初めました。
『そんな事は止め!』と女王樣は叫んで、『眩暈がする』それから薔薇の木に振向いて、『何をお前方は此處でして居たのか?』
『何卒お宥し下さい、陛下よ』二點は極めて謙遜した調子で云つて片膝をつき、『私どもの爲て居りましたことは――』
『宜しい解つた!』言つて女王樣は少時薔薇の花を檢査して居られました。
『皆な頭を刎ねて了へ!』やがて行列が動き出しました。三人の兵士は不幸な園丁等を刑に處するために後に殘りました。園丁等は保護を願ひに愛ちやんの許へ駈けて來ました。
『刎ねられやしない大丈夫よ!』云つて愛ちやんは、傍にあつた大きな植木鉢の中へ彼等を入れました。三人の兵士はそれを見ながら二三分間彷徨して居ましたが、やがて徐かに他の者の後に隨いて進んで行きました。
『殘らず頭を刎ねたか?』と女王樣が叫ばれました。
『殘らず頭は御座いません、陛下のお望み通り!』と兵士は叫んで答へました。
『よろしい!』と女王樣がお叫びになりました。『汝、毬投げを仕るか?』
兵士等は默つて愛ちやんの方を見ました、此の問は明かに愛ちやんに對してゞした。
『はい!』と愛ちやんが叫びました。
『お出で、そんなら!』と女王樣が聲高に申されました。愛ちやんは其行列に加はつたものゝ、これから何うする事かと大層怪訝がつて居ました。
『それは――それは好い日和でした!』愛ちやんの傍で小さな聲がしました。愛ちやんは白兎の側に隨いて歩いて居たのです、白兎は心配さうに愛ちやんの顏を覘き込みました。
『オヤ!』と云つて愛ちやんは、『――何處に公爵夫人がお在でになるの?』
『叱ッ!叱ッ!』小さな聲で忙しさうに兎が云ひました。云つて兎は氣遣はしげに自分の肩を幾度も見ました、それから爪先で立ち上り、愛ちやんの耳元近く口を寄せて、『愛ちやんが死刑の宣告の下にある』と云ふことを咡きました。
『何うして?』と愛ちやん。
『「何と可哀相に!』とでもお前は云つたのか?』と兎が訊きました。
『否え、云やしなくッてよ』と愛ちやんが云ひました、『些とも可哀相だとは思はないわ。私は「何うして?」と云つたのよ』
『娘が女王樣の耳を毆つた――』と兎が云ひ初めました。愛ちやんはきやッ/\と笑ひました。『オイ、默れ!』と云つて兎は咡くやうな調子で、『女王樣がお前の事をお訊きになつた!お前は女王樣が些や遲れてお出でになつたことを知つてるだらう、それで女王樣の仰せらるゝには――』
『もとへ!』と雷のやうな聲で女王樣が叫ばれました。人々は互に衝突りまはりながら、四方八方に駈けめぐりました。暫くして皆なが各々元の位置につくや、競技が始まりました。愛ちやんは是迄にこんな奇妙な毬投場を見たことがないと思ひました。それは隅から隅まで數多の畦畝になつて居ました、其球は生きた針鼠、槌は生きた紅鶴で、それから兵士等は二列になつて、緑門を造る爲に手を擧げ足を欹てました。
愛ちやんの先づ氣がついた第一の困難は、其の紅鶴を取扱ふことでありました。愛ちやんは其の體を巧く自分の腋の下へ壓し込み、其の足は垂れるがまゝになし、首をば眞直に伸し出させ、其の頭を以て針鼠を打たうとしましたが、それが身を捻つて、妙な容貌をして、愛ちやんの顏を見たので、愛ちやんは可笑しさに堪へ切れず、哄笑しました。軈て今度は、愛ちやんが其の頭を下へやり、再び始めやうとすると針鼠が、自分を仲間外れにしたと云つて大に怒り、將に匍ひ去らうとする素振が見えました。見渡す限り、愛ちやんが針鼠を送らうと思ふ所には總て畦畝があつて、二列になつた兵士が常に起きて、毬投場の他の部分々々を歩いてゐました。愛ちやんは忽ちそれが實に難しい競技だと云ふことを思ひ定めました。
競技者は皆な自分の番の來るのを待たずして同時に遊び戯れ、絶えず爭つて、針鼠を取らうとして戰つてゐますと、軈て女王樣が甚くお腹立ちになり、地鞴踏みながら、『彼れの頭を刎ねよ!』さもなければ『其娘の頭を刎ねよ!』と一時にお叫びになりました。
愛ちやんは心中頗る不安を感じました、確かに愛ちやんは未だ女王樣とは試合をしませんでしたが、何時か其時が來るだらうと思つて居ました、『さうなつたら私は何うすれば可いかしら?彼の方々は怖ろしくも、此處に居る人々の頭を刎ねたがつて居られるが、それにしては甚だ不思議な事にも、生き殘つてる者のあることだわ!』
愛ちやんは何處か遁路をと思つて探しましたが、不思議にも、見つからないやうには何處へも行かれませんでした。やがて愛ちやんは空中に奇態なものゝ現はれてるのに氣がつきました、それは最初甚だ愛ちやんを惑はしましたが、暫く見てゐる中、露出しの齒だと云ふことが分り、愛ちやんは獨語を云ひました『朝鮮猫だわ、先づこれで談話對手が出來た』
『其後は御無沙汰、御機嫌よう?』口切りに猫が斯う云ひました。
愛ちやんは其兩眼が現はれるのを待つて、首肯きました。『それに話しするのは無駄だわ、其兩耳の出ない中は、少くとも片耳出ない中は』と思つて居ると、忽ら全頭が現はれたので、愛ちやんは持つて居た紅鶴を下ろし、競技の數を數へ初めました、自分の云ふ事に耳を傾けるものが出來たのを大層悦ばしく思つて。猫は今それで充分だと思つたか、もうそれ以上は姿を見せませんでした。
『あれでは皆なが全く都合よく遊べる筈がないわ』と愛ちやんは些や不平がましく、『自分の云ふことさへ自分に聞えない程、恐ろしく爭つてるんですもの――特にこれと云ふ規則もないらしいのね、些とでも若しあるとしたならば、誰れもそれに氣がついてゐないんだわ――その考へがないため、どの位皆なが秩序なく周章狼狽るか知れないのよ、例へば競技場の他の端に行くのには、是非とも拔けて行かなければならない緑門があると云ふものだわ――私は唯今、女王樣の針鼠で蹴鞠をしやうとしたの、さうしたら、それが私の來るのを見て逃げて了つてよ!』
『お前は女王樣がそんなに好きかい?』低い聲で猫が訊きました。
『否え、些とも』と云つて愛ちやんは、『女王樣は隨分――』丁度其時愛ちやんは女王樣が其背後へ近寄つて、立聞してお在でになるのに氣がつきましたから、わざと紛はして『――多分お勝ちになるでせう、競技の濟むまでは瞭然云へないけど』
女王樣は微笑んで行き過されました。
『話しをしてるのは誰か?』王樣が愛ちやんに近づきながら申されました、それから、さも珍らしさうに猫の頭を見てお在でになりました。
『それは私のお友達です――朝鮮猫です』と云つて愛ちやんは、『恐れながら御紹介申し上げます』
『そんな容貌をしたものは全く好まん』と王樣が申されました、『それは何時でも勝手にわが手を接吻する』
『私は致しません』と猫がお斷り申し上げました。
『無禮者め』と王樣が申されました、『其顏は何だ!』云つて愛ちやんの背後へお出でになりました。
『猫だとて王樣を拜して差支へない』と愛ちやんが云ひました。『私は或る書物でそれを讀みました、何處であつたか憶えて居ませんが』
『宜しい、移すから』决然として王樣が申されました。やがて其處をお通りになつた女王樣にお聲をかけさせられ、『ねえ!此猫を何處かへ遣つては呉れまいか?』
女王樣は事の大小に拘らず、總ての困難を解决する唯一の方法を御存じでした。『彼れの頭を刎ねよ!』と四邊も見ずに申されました。
『然らば、死刑執行者を伴れて參らう』と切に申されて、王樣は急いで行つてお仕舞になりました。
愛ちやんは歸らうとしましたが、怒り號ぶ女王樣のお聲が遠くに聞えたので、如何なることかと猶ほも競技を見てゐました。愛ちやんは既に三人の競技者が、その順番を過つた爲に、女王樣から死刑の宣告を下されたと云ふことを聞きました。やがて愛ちやんは、何時になれば自分の番だか一向譯の分らぬ此麽競技を見てゐるのが莫迦々々しくなつて來たので、それよりも自分の針鼠を探しに行きました。
針鼠は他の針鼠と鬪つてゐました、それが愛ちやんには、二疋の針鼠が他の一疋の針鼠を好いやうに使つて、互に勝負を爭つてるやうに見えました、只一つ厄介な事には、愛ちやんの紅鶴が花園の他の側に越して行つて了つてたことで、其處に愛ちやんは、それが空しく一本の木に飛び上らうとして、それを試みてるのを見ました。
愛ちやんが紅鶴を捕へて持ち歸つた時には、已に鬪ひが終へて居て、二疋の針鼠の姿は見えませんでした、『が、それは何うでも可いとして、緑門も皆な競技場の此方側から何處かへ行つて了うかしら』と愛ちやんは思ひました。乃でそれが再び逃げ出せないやうに、愛ちやんはそれを腋の下へ壓し込み、それからその友達と猶ほも談話を續けやうとして戻つて行きました。
愛ちやんが朝鮮猫の所へ歸つて行つた時に、其周圍にゐた大勢の群集を見て一方ならず驚きました、其處には死刑執行者と、王樣と、それから女王樣との間に、一の爭論が始まつてゐました、皆な他の者が全く默つて、極めて不快な容貌をしてゐるにも拘らず、女王樣は何から何まで一人で饒舌つて居られました。
愛ちやんは姿を見せるや否や、其の問題を解决するやうにと三人から歎願されました。乃で彼等は愛ちやんに其の爭論を繰返して聞かせました、皆なが殘らず各々一時に話すので、それを一々正確に聽き取ることは、愛ちやんにとつて非常な困難でありました。
死刑執行者の論據は斯うでした、それから斬り離さるべき體がなければ、頭を切ることは出來ない、甞てそんな事をしたこともなければ、これから後とても一生涯そんな事の有らう筈がない。
王樣の論據は斯うでした、頭のあるものなら何でも頭を刎ねることが出來る、死刑執行者の云ふところも強ち間違つては居ない。
女王樣の論據は斯うでした、若し何事にせよ、全く時間を要せずして成し了うせられなかつたなら、所有周圍の誰でもを死刑に處する。(全隊の者をして眞面目ならしめ、又氣遣はしめたところのものは、此の最後の言葉でした)
愛ちやんは只斯う云ふ他には何にも考へつきませんでした、『それは公爵夫人の受持よ、其の事なら夫人に訊ねた方が可いわ』
『夫人は牢屋に居る』と云つて女王樣は死刑執行者に、『此處へ伴れて參れ』乃で其の死刑執行者が箭の如く走り去りました。
猫の頭は彼れが行つて了うと消え失せ始めて、彼れが公爵夫人を伴ひ來つた時に、それが全く消え失せて居ました、それ故王樣と死刑執行者とは、其他の仲間の者等が皆な競技に歸つて行つた後で、妄に上下を探し廻りました。
第九章
海龜の話
『まア、何といふ嬉しいことでせう、復た逢つたのねえ!』云つて公爵夫人は可愛さの餘り、腕と腕と觸れるばかりに摺寄つて、二人は一緒に歩いて行きました。
愛ちやんは、夫人が斯かる快活な氣性になつたのを見て甚だ喜び、あの厨房で出逢つた時に、夫人が彼麽に野蠻めいた事をしたのは、全く胡椒の所爲であつたのだと思ひました。『私が公爵夫人になつたら』と愛ちやんは獨語を云つて(甚だ得意な口振ではなかつたが)『全く厨房には胡椒を置かないことにしやう、肉汁にはそれが無くつても可いわ――屹度何時でも胡椒が人の氣を苛々させるに違ひない』と云ひ足して一つの新規則を發見したことを非常に喜びました、『が、酢ならば酸ッぱくなるし――カミツレ草ならば苦くするし――ト云つて――ト云つて砂糖やなどでは子供を甘やかして了うし。皆なが然う知つてれば可いけれども、然うすれば其麽に吝々しないだらうに、ねえ――』
愛ちやんは此時迄に、全く公爵夫人を忘れて了つてゐたので、耳元で夫人の聲を聞いた時には些しく驚きました。『何を考へてるの、え、話すことも何も忘れて了つてさ。私は今それについて徳義が何うの斯うのとは言はない、些しは知つてるけれども』
『全く知らないのでせう』と愛ちやんは思ひ切つて云ひました。
『でも、お前!』と公爵夫人は云つて、『何事でも徳義で持つてるのさ、よく氣をつけて御覽』夫人は尚ほも愛ちやんの傍へ近寄りました。
愛ちやんはそんなに近寄られるのを非常に厭がりました、第一、公爵夫人が甚だ醜い容貌でしたから、それから第二には、夫人が愛ちやんの肩の上に、其の可厭な尖つた頤を息める程、全く身長が高かつたものですから。それでも愛ちやんは粗暴な振舞を好みませんでしたから、出來るだけそれを耐へ忍んで居ました。『競技は今、些や好い工合に行つて居る』云つて愛ちやんは少しく談話を機ませやうとしました。
『さう』と云つて公爵夫人は、『それにも徳義がある――「それは、それは友愛です、それは友愛です、それは此世を圓滑にするところのものです!」』
『誰かゞ云つたわ』と愛ちやんは咡いて、『自分の稼業に忠實なものは誰でも成功する!』
『あア、さう!それは同じやうな事だ』と云つて公爵夫人は愛ちやんの肩に、其の尖つた小さな頥の滅込むほど力を入れて云ひ足しました、『それから其れの徳義は――」嗅官に注意をするのは、やがて其の音聲に注意をするのと同じことです」』
『まア、何事に依らず、徳義を見出すことの好きな人だこと!』と愛ちやんは思ひました。
『お前は、何故私がお前を抱かないかと、不思議に思つてるに違ひない』良久て公爵夫人は、『其の理由は、私がお前の紅鶴の性質を危ぶんでるからなの。一つ試して見やうかしら?』
『啄くわ』と、愛ちやんは注意したものゝ、全く試しても關はないと云ふ風で。『然う/\』云つて公爵夫人は、紅鶴と芥子菜とは何方もつッつく。其れの徳義は――『類を以て集まる」』
『でも、芥子菜は鳥ではなくつてよ』と愛ちやんが云ひました。
『然うとも』と云つて公爵夫人は『なか/\明瞭とお前は物事を判別する!』
『それは鑛物だと思ひます』と愛ちやんが云ひました。
『無論さうさ』と公爵夫人は、直ちに愛ちやんの云ふことに賛成しました、
『此の近所に大きな芥子菜鑛山がある。それで、其れの徳義は――「私のが多ければ多いだけお前のが少い」』
『えゝ、知つて居てよ!』と愛ちやんが叫びました、この最後の言葉には頓着せずに。『それは植物だわ。些とも人間のやうな恰好をしちや居なくつてよ』
『お前の云ふ通りだ』と云つて公爵夫人は、『それで、其れの徳義は――「廋すより露はるゝはなし」――尚ほ言ひ換へれば――「外見を飾るな、幾ら體裁ばかり繕つても駄目だ、蛙の子は矢ツ張蛙さ」』
『大變能く解りました』と愛ちやんは甚だ丁寧に云つて、『書いて置きませう、覺えて居るやうに』
『それ程のものではない』と公爵夫人が嬉しさうに答へました。
『もう其の話なら澤山よ』と愛ちやん。
『そんなら、止さう!』と云つて公爵夫人は、『今云つた事は皆な、私がお前への贈物です』
『安い贈物だ!』と愛ちやんは思ひました。『私は誕生日に此麽吝な贈物をして貰ひたくない!』併し愛ちやんは敢てそれを聲に出して言ひませんでした。
『復た考へてる?』と公爵夫人は、其尖つた小さな頤でモ一度衝いて云ひました。
『私、考へる權利があつてよ』と愛ちやんが劍突を啗はせました、少し煩悶懊惱し出してゐたものですから。
『丁度此位の權利だらう』と云つて公爵夫人は、『豚が跳ぶくらゐのサ、それで、ト――』
併し此時、愛ちやんは驚くまいことか、公爵夫人が其好きな「徳義」と云ふ言葉を云ひさして聲が消え失せ、愛ちやんの腕に鎖のやうに結びついて居たその腕が顫へ出したのですもの。見ると、自分の前には女王樣が、腕を拱いて立つて居られました、苦蟲を噛みつぶしたやうな可厭な顏して。
『御機嫌如何に在らせられますか、陛下よ!』公爵夫人が低い脾弱い聲でお伺ひ申上げました。
『汝、覺悟をせよ』女王樣は唐突聲を怒らし、斯う云ひながら地韛踏んで、『頭を刎ねるが、宜いか、唯今!さァ!』
公爵夫人は、さつさと行つて了ひました。
『競技に參れ』と女王樣が愛ちやんに申されました、愛ちやんは驚きの餘り一言をも云ひ得ませんでしたが、徐かに其の後に隨いて毬投場へ行きました。
他の數多の賓客は女王樣のお留守につけこんで、樹蔭に息んで居りました、が、女王樣のお姿を拜するや否や、急いで復た競技に取りかゝりました。女王樣は只彼等が一分でも遲れゝば、其れが彼等の生命に關つて來ると云ふことだけを注意されました。
彼等が競技をしてる間も、始終女王樣は他の競技者と爭ひを止めませんでした、それで、『彼の頭を刎ねよ!』とか、『その娘の頭を刎ねよ!』とか叫んで居られました。女王樣が宣告せられた人々は、數多の兵士に依つて禁錮の中に入れられました、兵士は勿論これを爲すためには緑門を形造つてることを止めねばなりませんでした、其故半時間か其所いら經つと緑門は一つ殘らず無くなつて了ひました。それから競技者は悉く、王樣と女王樣と愛ちやんとを除いては、禁錮の中に入れられ、死刑の宣告を待つばかりでした。
それから女王樣は、急に立ち去られやうとして愛ちやんに、『お前は海龜を見たことがあるか?』
『否え、どんなのが海龜ですか些とも存じません』と愛ちやんが云ひました。
『それで海龜肉汁が出來る』と女王樣が申されました。
『私は一つも見たことがありません、一つどころか頭さへも』と愛ちやんが云ひました。
『そんならお出で』と云つて女王樣は、『それがお前に身の上話をするだらうから』
一緒に行かうとした時に、愛ちやんは王樣が小聲で、一體に其の仲間の者どもに斯う云はれるのを聞きました、『皆な放免する』
『さア、それは好い鹽梅だ!』と愛ちやんは獨語を云ひました、女王樣が宣告された死刑の人々を、如何にも氣の毒に思つてた所でしたから。
彼等は直ちにグリフォン(鷲頭獅身の怪物)の所へ來て、日向ぽつこしながら寢込んで了ひました。『起きよ、懈惰者が』と云つて女王樣は、『此の若夫人を、海龜を見に、又その身の上話を聞きに伴れてまゐれ。私は戻つて、宣告して置いた死刑の面々を取調べなければならない』女王樣は愛ちやんばかり一人グリフォンの所へ置き去りにして行つて了はれました。愛ちやんは全く其動物の容子を好みませんでしたが、それでも未だあの野蠻な女王樣の後へ隨いて行くよりは、それと共に止まつて居た方が幾ら安全だか知れないと思ひました、其故愛ちやんは待つて居ました。
グリフォンは坐り込み、兩眼を擵つて、見えなくなるまで女王樣を見戍り、それから得意げに微笑みました。『何と滑稽な!』とグリフォンは、半ば自分に、半ば愛ちやんに云ひました。
『何が滑稽なの?』と愛ちやんが云ひました。
『ソレ、あの女王樣サ』とグリフォンが云ひました。『みんな女王樣の空想だ、どうして一人でも死刑に出來るものか。ねえ。お出でよ!』
『誰でも大抵「お出でよ!」さァと云ふものだのに』と思ひながら愛ちやんは、徐かに其の後から隨いて行きました、『こんな風に云はれたのは生れてから初めでだわ、眞個に!』
彼等は遙か行かずして、遠方に海龜が、爼形の小さな岩の上に、悲しさうにも亦淋しさうに坐つて居るのを見ました、彼等が段々近寄つて來た時に、愛ちやんは其れが其の心臟も碎けよとばかり大きな溜息を吐くのを聞きました。『愛ちやんは深くそれを憫れに思ひました。『何か悲しいのでせう!』と愛ちやんがグリフォンに訊ねました、グリフォンは以前と殆んど同じやうな言葉で、『それは皆な彼の空想だ、何も悲しんでるのではない、ねえ。お出でよ!』
乃で彼等は海龜の傍へ行きました、海龜は大きな眼に一ぱい涙を溜めて彼等を見ました、が、何も云ひませんでした。
『これ此の若夫人が』云つてグリフォンは、『夫人がお前の身の上話を聞きたいと被仰ッてだ』
『話しませう』と云つて海龜は太い銅鑼聲で、『お坐りな、二人とも、それで私が話し終るまで、一言でも饒舌つてはならない』
そこで彼等は坐り込みました、暫くの間誰も話しませんでした。愛ちやんは自ら思ふやう、『何時話し終へるんだか私には解らないわ、話し初めもしないで居てさ』併し愛ちやんは我慢して待つてゐました。
『甞て』と終に海龜が云つて、深い長太息をして、『私は實際海龜でした』
長き沈默に次ぐに僅かこれだけの言葉でした、それも時々グリフォンの『御尤も!』と云ふ間投詞や、絶えず海龜の苦しさうな歔欷とに妨げられて絶え/″\に。愛ちやんは殆んど立ち上らんばかりになつて、『有り難うよ、面白い話しだわ』云つたものゝ、未だ後が無ければならないと思つたものですから、靜かに坐つて何も云ひませんでした。
『私どもは小さい時に』と終に海龜が續けました、尚ほ折々少しづゝ歔欷して居たけれども、以前よりは沈着いて、『私どもは海の中の學校へ行きました。校長先生は年老つた海龜でした――私どもは其の先生を龜子先生と呼び慣らしてゐました。――』
『何故龜子先生ッて呼んだの、然うでないものを?』と愛ちやんが尋ねました。
『其の先生が私どもに教へたから、其の先生を龜子先生ッて呼んだのさ』と海龜は腹立しげに云つて、『眞個にお前は鈍物だね!』
『耻かしくもなく能くこんな莫迦げた事が訊かれたものだ』とグリフォンが云ひ足しました。彼等は雙方とも默つた儘坐つて憐れな愛ちやんを見てゐました。愛ちやんは穴にも入りたいやうな氣がしました。やがてグリフォンが海龜に云ふには、『もつと先きをサ!早くしないと日が暮るよ!』促がされて漸く彼は、『全く、私どもは海の中の學校へ行つたのです、お前方が信じないかも知れないけど―』
『决して信じないとは云やしなくッてよ!』と愛ちやんが喙を容れました。
『では、信じて』と海龜。
『默つて聽け!』愛ちやんが復た饒舌り出しさうなので、グリフォンが注意しました。海龜は尚ほも續けて、――
『私どもは最上の教育を受けました――實際、私どもは毎日學校へ行きました――』
『私だつても學校時代はあつてよ』と云つて愛ちやんは、『そんなに自慢しなくッても可いわ』
『殊更に!』と少し氣遣はしげに海龜が云ひました。
『さうよ』と云つて愛ちやんは、『私達は佛蘭西語と音樂とを習つたわ』
『そんなら洗濯は?』と海龜が云ひました。
『全く習はないの!』と、愛ちやんは口惜しさう。
『あァ!それならお前のは眞個に善い學校ではなかつたのだ』と海龜は大なる確信を以て、『今私どもの方では其麽ものは皆な課目表の終りにある、「佛蘭西語や、音樂や、それから洗濯――其他」』
『海の底に住んでるのに、そんなに何も必要はないわ』と愛ちやん。
『私はそれを習ふために授業を受けてはゐませんでした』と云つて海龜は長太息し、『私は只規則通りの課程を履んだゝけです』
『それは何んなの?』と愛ちやんが訊ねました。
『紡ぐことゝ扭ることサ、無論、初めから』と海龜は答へて、『それから算術の四則、――野心、亂心、醜飾、それに嘲弄』
『「醜飾」なンて聞いたことがないわ』と愛ちやんが一本突ッ込みました。『一體それはどんな事!』
グリフォンは驚きの餘り其の前足を兩方とも持上げました。『醜飾なんて聞いたことがないね!』と叫んで、『お前は裝飾するッて何の事だか知つてるだらう、え?』
『えゝ』と愛ちやんは生返辭をして――、『その意味は――す――するッて――何かを――もつと綺麗にするッて』
『よし、それなら』とグリフォンは續けて、『若し醜飾すると云ふことを知らないならお前は愚人だ』
愛ちやんは最う其れについて質問する勇氣も何も無くなつて了ひ、海龜の方へ振向き、『其の他何を習つて!』
『さうね、不思議なこと』と海龜は答へて、其の岩の上に目録を數へ出しました、『――不思議な事、古今に亘れる大海學の、それから懶聲を發すこと――懶聲の先生は年老つた海鰻で、一週一度來ることになつて居ました、彼は私どもに懶聲を出すことゝ、伸びをすることゝ、それから蜷局を卷くことゝを教へました』
『それは何が好きだつたの?』と愛ちやんが云ひました。
『さァ、私にはそれをお前にやつて見せられない』と海龜は云つて、『體が餘り岩疊だから。それでグリフォンも决してそれを習ひませんでした』
『時間がなかつたんだもの』と云つてグリフォンは、『でも、私は古典學の先生の所へ行きました。先生は年老つた蟹でした、全く』
『私は一度も其の先生の所へ行きませんでした』と云つて海龜は長太息し、『その先生は笑ふことゝ悲しむことゝを教へてゐたさうです』
『然うかい、さうかい』と云つてグリフォンは、自分の番が來たと云はぬばかりに、これも亦長太息を吐きました、それから二疋の動物は其の顏をその前足で掩ひ隱しました。
『そんなら一日に何時間お前は稽古をしたの?』と愛ちやんは話題を變へやうとして急いで云ひました。
『初めの日は十時間』と海龜が云つて、『次の日は九時間、それからずッとそんな風に』
『奇妙な仕方だわね!』と愛ちやんが叫びました。
『それだから其れが學科と稱はれるのです』とグリフォンが注意しました、『然うして毎日々々習ひくづしになつて行くのです』
これは全く愛ちやんには耳新しい事柄でした、愛ちやんは暫く考へてゐましたが、『それで十一日目には日曜だつたでせう』
『無論然うでした』と海龜。
『では十二日目には何うしたの?』と愛ちやんが熱心に續けました。
『それで最う學課の事は澤山だ』とグリフォンは决然云つて、『何か遊戯について其娘に話してやれ』
第十章
蝦の舞踏
海龜は深くも長太息を吐いて、その眼前に懸れる一枚の屏風岩を引寄せました。彼は愛ちやんの方を見て、談話をしやうとしましたが、暫くの間、歔欷のために其の聲が出ませんでした。『宛で咽喉に骨でも痞へてゐるやうだ』と云つてグリフォンは、其背中を搖つたり衝いたりし初めました。遂に海龜の聲は直りましたが、涙は頬を傳はつて――
『お前には長く海の下に住んでることが出來なかつたらう――』(『住んぢや居なかつたわ』と愛ちやんが云ひました)『それで多分蝦には紹介されなかつたらうね――』(愛ちやんは『何時か食べたことがあつてよ――』と云ひ出しました、が急いで止めて、『否え、全くないのよ』と云ひ直しました)『――ではお前は未だ蝦の舞踏が何んなに面白いものだか知らないね!』
『さうよ』と云つて愛ちやんは、『それはどんな風な舞踏?』
『然うさね』と云つてグリフォンは、『最初海岸に沿うて一列をつくる――』
『二列さ!』と海龜は叫んで、『多くの海豹や、海龜なぞが、それから往來の邪魔になる海月を追ッ拂ふ――』
『それは大抵二三時間かゝる』とグリフォンが喙を容れました。
『――二度進む――』
『各々一疋の蝦を相手に!』とグリフォンが叫びました。
『勿論』と海龜は云つて、『二度進んで、相手を打棄放しにする――』
『――蝦を變へて、順々に後へ退つて來る』とグリフォンが續けました。
『それで、ねえ』と海龜は續けて、『お前が投げる――』
『蝦を!』と叫んでグリフォンは、空中に跳び上りました。
『――精一ぱい遙かの海へ――』
『其後から泳いで行く!』とグリフォンが叫びました。
『海の中で筋斗返りをする!』と叫んで海龜は、妄に跳ね廻りました。
『も一度蝦を變へる!』とグリフォン。
『再び陸に返る、それで――それが第一の歩調の總てゞある』と海龜は、遽かに其の聲を落して云ひました。始終氣の狂つたやうに跳ね廻つて居た二疋の動物は、極めて悲しげにも亦靜かに再び坐り込み、愛ちやんの方を眺めました。
『それは屹度大層結構な舞踏に違ひないわ』と愛ちやんが恐る/\云ひました。
『少し見たいだらう?』と海龜が云ひました。
『澤山見たいわ、眞個に』と愛ちやん。
『どれ、第一の歩調をやつて見よう!』と海龜がグリフォンに云ひました。『蝦がなくても出來るだらう、何方が歌はう?』
『さうだ、お前、歌へ』とグリフォンが云ひました。『私は全然言葉を忘れて了つた。
乃で彼等は正式に愛ちやんの周りをぐる/\踊り廻りました、餘り近づき過ぎて時々その趾を踏んだり、拍子を取るために前足を振つたりして、其の間海龜は極く徐かに又悲しげに斯う歌ひました、――
『もつと素早く何故ゆけぬ?』と蝸牛に向つて胡粉が云つた、
『海豚が背後で、尻尾を踏むに。
蝦と龜とが一生懸命に進んで行くは!
皆な待つてる磧の上に――さア/\一緒に來て踊らぬか?
お出でよ、お出で、お出でよ、お出で、さア/\一緒に來て踊らぬか?
お出でよ、お出で、お出でよ、お出で、さア/\一緒に來て踊らぬか?
『ほんとに知らぬか其の嬉しさを、
手玉に取られて海の方へ遠く、蝦と一緒に投げられる時の!』
蝸牛めが答へて云つた、『早い、早い!』と横目で睨めて――
眞白な胡粉に心から謝して、それでも踊りの仲間にや入らず。
仲間にならぬか、仲間におなり、仲間におなりよ、仲間におなり、一緒に入つて踊らんせ。
『遠くへ行ツ了つて何うする積り?』と、同じ鱗の友達が云つた。
『も一つ海岸が、向ふの方に。
英吉利離れて佛蘭西に近く――
歸るな可愛い、蒼白い蝸牛よ、さア/\一緒に來て踊らんせ。
踊れよ、踊れ、 踊れよ、踊れ、さア/\一緒に來て踊らぬか?
踊れよ、踊れ、 踊れよ、踊れ、さア/\一緒に來て踊らぬか?』
『有難う、見てると却々面白い舞踏だわ』と云つて愛ちやんは、漸くそれが濟んだのを嬉しく思ひました、『私も其の奇妙な胡粉の歌が大好きよ!』
『ナニ、胡粉だつて』と云つて海龜は、『彼等が――勿論、お前はそれを見たことがあるんだらう?』
『然うよ』と云つて愛ちやんは、度々それを見てよ、御馳――』云ひかけて急に口を噤んで了ひました。
『何處に御馳なンてものがあるか』と云つて海龜は、『だが、若しお前がそんなに度々それを見たならば、無論お前はそれの好きな物を知つてるだらう』
『えゝ、知つてゝよ』と愛ちやんは小癪にも答へて、『其の中に尾のやうなものがあるのは――それは皆な屑ですッて』
『屑だなんて云つては間違だ』と海龜が云ひました、『屑は皆な海の中で洗ひ流す。でも、其の中には尾のやうなものがある、其の理由は――』海龜は欠をして、それから目を瞑り、『其理由を悉皆娘に話してやれとグリフォンに云ひました。
『その理由は』と云つてグリフォンは、『それは何時でも蝦と一緒に舞踏をする。其故皆な海の中へ放り込まれる。それで長い道程を墜ちて行かなければなりませんでした。そのため中に先づ尾のやうなものがあるので、その尾は再び外へ出すことは出來ません。それだけの事です』
『ありがたう』と云つて愛ちやんは、『隨分面白いのね。今まで知らなかつたのよ、そんなに澤山胡粉のことについては』
『好きなら、もつと幾らでも話す』とグリフォンが云ひました。『それが胡粉と稱ばれる理由は?』
『未だ其麽事を考へて見たことがなくつてよ』と云つて愛ちやんは、『何故さ?』
『それは長靴にもなれば短靴にもなる』とグリフォンが頗る嚴かに答へました。
愛ちやんは何が何だか薩張道理が解らず、『長靴にもなれは半靴にもなる!』と不審しげな調子で繰返しました。
『それ、お前の靴は何で然うなつてる?』と云つてグリフォンは、『何だと云ふことさ、そんなに光つてるのは?』
愛ちやんはそれを見ながら暫く考へて居ましたが、『それは全く靴墨の所爲だわ』
『海底の長靴と半靴は』とグリフォンが重々しい聲で續けて、『胡粉を着けてる。何うだ、解つたらう』
『そんなら、それは何から製造られるの?』と愛ちやんはさも物珍らしさうに訊ねました。
『靴底魚と鰻とでサ、勿論』とグリフォンは些や焦心ッたさうに答へて、『蝦ッ子に聞け』
『若し私が胡粉だつたら』と云つて愛ちやんは、猶ほ其の歌のことを思ひながら、『私なら海豚に云つてやつたものを、「お歸りよ、お前なんぞとは一緒に居たくもない!」ッて』
『皆な仕方なしに一緒に居たんだ』と海龜が云ひました、『どんな賢い魚でも、海豚を伴れなくては何處へも行けやしないもの』
『然うかしら?』と如何にも驚いたやうに愛ちやんが云ひました。
『無論然うとも』と云つて海龜は、『だから、若し或る魚が私の所へ來て、旅行に出懸るンですがと話すならば、私は何時でも「どんな海豚と一緒に?」と訊ねる』
『ナニ、「射るか」ですッて?』と愛ちやんが云ひました。
『今云つた通りさ』と海龜は腹立しげに答へました。乃でグリフォンが、『さァ、何かお前の冐險談を聞かう』
『冐險談をしませうか――今朝から初めて』と云つて愛ちやんは些や恐る々々、『でも、昨日にまで後戻りするには及ばなくつてよ、何故ッて、私は其時には異つた人間だつたのですもの』
『何う云ふ理由だか皆な云つて御覽』と海龜が云ひました。
『否え、否え!冐險談が先き』云つてグリフォンは焦心ッたさうに、『説明なンて、時間ばかり要つて仕方がない』
乃で愛ちやんは、最初白兎を見た時からの冐險談を彼等に話して聞かせました。初めの中は些や心後れして默つて居ますと、二疋の動物がその側に近寄つて來ました、右と左に一疋宛、眼と口とを開けるだけ大きく開いて、でも、愛ちやんは元氣を出して話し續けました。其の聽衆は愛ちやんが毛蟲に、『裏の老爺さん』を復誦して聞かす段になる迄は、全く靜かにしてゐましたが、全然間違つたことばかり言ふので、海龜は呆れ返つて、『可笑しなこと』
『眞個に莫迦げて居る』とグリフォンが云ひました。
『殘らず違つてる!』と考へ拔いた揚句、海龜が復た云ひました。『もう一度復誦して呉れッて、娘に然う云へ』其れは恰も愛ちやん以上に或る權威を持つてゞも居るかのやうに、グリフォンの方を顧みました。
『立つて、やり直せ、今度は「懶惰者の聲」を』とグリフォンが云ひました。
『まァ、可厭な動物だこと、人に命令けたり、人に學課のやり直しをさせたりして!』と愛ちやんは思ひました。『丁度學校に居るやうだわ』云つて愛ちやんは立ち上り、それを復誦し初めました、が、全く夢中に蝦の舞踏のことばかり思つてゐて、自分で自分が何を云つてるのか、殆んど知りませんでした、其故その詞は甚た奇妙なものになつて了ひました。
『あれは確かに、蝦の聲、
「莫迦に眞赤に燒けすぎた、頭に砂糖をかけてくれ」
鶩が瞼でするやうに、蝦は自ら其の鼻で
帶しめ鈕かけ身を固め、趾殘らず裏返す。
濵の眞砂の乾上る時は、樂しさうにも雲雀のやうに、
鱶の奴らの惡口云へど、
潮が上つて數多の鱶が、
來れば臆病な顫へ聲』
『それは私が子供の時に、始終口癖のやうに云つて居たのとは異ふ』とグリフォンが云ひました。
『然うさ、私もこれまで聞いたことがない』と云つて海龜は、『妙な寐言だこと』
愛ちやんは何にも云はず、兩手で顏を抑えて坐り込みました、何うなることかと心配しながら。
『どうか説明して貰ひたいものだ』と海龜が云ひました。
『あの娘に説明が出來るものか』と慌しく云つてグリフォンは、『それよりも次の節を願ひませう』
『だが、趾の事だらうね?』と海龜が念を押しました。何うして鼻で其れを裏返すことが出來たかえ?』
『それは舞踏の第一の姿勢だわ』と云つたものゝ愛ちやんは、全く當惑したので、切りに話頭を更へやうとしました。
『次の節を願ひます』とグリフォンが再び云ひました、『それは「庭を通る時」と云ふのが始めだ』
愛ちやんは决して逆はうとはしませんでした、屹度殘らず間違ふだらうとは思ひましたが、それでも尚ほ顫へ聲で、――
『庭を通る時、ちらと見た、
豹と梟が饅頭の分配、
豹は外皮やら、肉やら、肉汁、
梟は馳走に皿貰うた。
饅頭が終へたら、お土産に、
梟は衣嚢に匙入れた、
豹は小刀と肉叉を、
藏うて、どうやら酒宴が――』
『品物ばかり列べ立てたつて何の役に立つか?』と海龜は遮つて、『幾ら云つても説明しないから。こんなに錯雜紛糾したことを聞いたことがない!』
『さうさ、だから廢止た方が餘ッ程可い』とグリフォンが云ひました、愛ちやんもそれには大賛成でした。
『蝦の舞踏のモ一つの歩調をやつて見やうか?』とグリフォンは續けて、『それとも海龜にも一つ歌を謳つて貰はうか?』
『然うね、歌の方が好いわ、萬望、海龜の』と愛ちやんが熱心に答へました、グリフォンは頗る不滿さうに、『フム!面白くでもない!「海龜肉汁」なんぞ、何だ老耄奴が?』
海龜は深くも長太息を吐いて、歔欷しながら咽ぶやうな聲で、かう歌ひました、――
『見事な肉汁、澤山で溢れさう、
温かさうな皿に!
跼まにや吸へぬ?
晩の肉汁、見事な肉汁!
晩の肉汁、見事な肉汁!
見い――ごとなスウ――ウプ!
見い――ごとなスウ――ウプ!
ばア――あン――の――スウ――ウプ、
見事な、見事な、肉汁!』
『見事な肉汁、魚は誰の、
競技か、それとも何の皿?
二錢でも廉價い?
見事な肉汁!
一錢で賣りよか?
見い――ごとなスウ――ウプ!
見い――ごとなスウ――ウプ!
ばア――あン――の――スウ――ウプ、
見事な、見い――ごとな肉汁!』
『モ一度合唱を!』とグリフォンが叫びました、海龜がそれを繰返さうとした時に丁度、『審問始め!』の叫び聲が遠方に聞えました。
『それッ!』と云ひさまグリフォンは、愛ちやんの手を取つて急ぎ立去りました、歌の終るを待たずして。
『何の審問?』愛ちやんは喘ぎ/\駈けました、グリフォンは只『それッ!』と叫んだのみで、益々速く走りました、風が持て行く唄の節、――
『ばア――あン――のスウ――ウプ、
見事な、見事な、肉汁!』
第十一章
栗饅頭の裁判
心臟の王樣と女王樣とがお着になり、其の玉座につかせられました時、多勢のものどもが其周りに集まつて來ました――骨牌の一包と同じやうな、小鳥や獸が殘らず、軍人は鎖に繋がれて、御前に立つてゐました、左右から二人の兵士に護衞されて、王樣のお側には、片手に喇叭、片手に羊皮紙の卷物を持つた白兎が居ました。法廷の眞中には一脚の洋卓があつた、其上には栗饅頭の大きな皿が載つてゐました、見るからに美味さうなので、愛ちやんは何うかしてそれを食べて見たくて堪りませんでした――『審問が始まれば可いが』とも、亦、『その菓子を廻して欲しいナ!』とも思ひましたが、却々そんな機會の來さうにもありませんでした、愛ちやんは所在なさに四邊を眺め初めました。
法廷
愛ちやんは甞て法廷に行つたことがありませんでした、只それを書物で讀んだばかりでしたが、それでも其處にある大抵の物の名を知ることが出來たので、非常に悦んでゐました。『あれが裁判官だわ』愛ちやんは獨語を云つて、
『だつて、大きな鬘を着けてゝよ』
裁判官は序でに、王樣がなされました。王樣は鬘の上に其の冠を戴き、如何にも不愉快さうに見えました、それのみならず、それは少しも似合ひませんでした。
『それから、あれが裁判官の席なのよ』と愛ちやんは思ひながら、『それで、あの十二の動物は』(愛ちやんは否でも應でも動物と云はない譯には行きませんでした、でも其の中には動物も居れば、亦鳥も居たのですもの)『屹度陪審人なんだわ』愛ちやんは此の最後の詞を獨語のやうに二三度繰返し/\、些や誇顏に云ひました、何故といふに、自分位の年齡格好の小娘で、全く其意味を知つてるのは甚だ稀だと實際愛ちやんは然う思つてゐましたから。けれども『陪審官』と云つた方が一層正しいのです。
十二の陪審人は皆な忙しさうに石盤に書いてゐました。『何を皆なで爲てるんでせう?』と愛ちやんはグリフォンに咡いて、『審問が始まらないので、未だそんなに何も書くことがないんだわ』
『銘々自分の名を書いてるんだ』とグリフォンが答へて、『審問の濟むまでに忘れて了ふと困るから』
『愚物だわねえ!』と愛ちやんは大きな聲で齒痒さうに云ひ出しましたが、『默れ!』と白兎が叫んだので、急いで止めました。王樣は眼鏡をかけ、誰が話したのかと思つて、きよろ/\四邊を見廻されました。
愛ちやんは陪審人が殘らず其の石盤に、『愚物だわねえ!』と書きつけてゐるのを、皆なの肩越しに全然能く見ました、それのみならず愛ちやんは、其の中の一つが「愚物」と何う書いて可いか分らないので、その隣りのに聞いてたことまでも知りました、『きれいに汚れて了ふだらう、石盤が、審問の濟むまでには!』と愛ちやんは思ひました。
陪審人の一つが鉛筆を軋らせました。立つことを許されないにも拘らず愛ちやんは、法廷を廻つて其の背後へ行き、隙を狙つて手早くそれを取り去りました。餘りに敏捷くやられたので、可哀相に小さな陪審人は(それは蜥蜴の甚公でした)茫然して了ひました、隈なく探し廻つたが見當らず、餘儀なく其の日はそれから一本の指で書いてゐました、が、それは殆んど用をなしませんでした、石盤に何の痕跡も殘らぬので。
『使者よ、其の告訴を讀め!』と王樣が申されました。
乃で白兎は三度喇叭を吹き、それから羊皮紙の卷物を開いて、次のやうに讀みました。
『心臟の女王樣、栗饅頭を製つた、
夏の日に皆な、
心臟の軍人、栗饅頭を盜んで、
皆な持つて逃げた!』
『判决は』と王樣が陪審官に申されました。
『未だ、/\!』と兎は急いで遮つて、『其以前に爲べき事が澤山あります!』
『第一の證人を喚び出せ』と王樣が申されました。白兎は三度喇叭を吹いて『第一の證人!』と聲をかけました。
第一の證人は帽子屋でした。彼は片手に茶碗、片手に牛酪麺麭を一片持つて入つて來ました。『お免しあれ、陛下よ』と云つて彼は、『こんな物を持ち込みまして、でも、お喚び出しになりました時、お茶を飮みかけて居ましたものですから。』
『濟んで居た筈だが』と王樣が申されました。『何時始めたのか?』
帽子屋は、福鼠と手に手を取つて、其の後から續いて法廷に入つて來た三月兎を見て、『三月の十四日だつたと思ひます』と云ひました。
『十五日』と三月兎が云ひました。
『十六日』と福鼠が云ひました。
『それを書きつけとけ』と王樣が陪審官に申されました、陪審官は熱心にその石盤に三つの日を書きつけました、それから何でも關はず其の答へを列記しました。
『お前の帽子を脱げ』と王樣が帽子屋に申されました。
『私のではありません』と帽子屋が云ひました。
『盜んだナ!』と王樣は陪審官を顧みながら叫ばれました、陪審官は絶えず事實の備忘録を作つてゐました。
『私は賣る爲にそれを持つてるのです』と帽子屋が説明のやうに言ひ足しました、『自分の物は一個も持ちません。私は帽子屋ですもの』
乃で女王樣は眼鏡をかけ、氣味の惡い程帽子屋を凝視られました、帽子屋は眞ッ蒼になつて顫へてゐました。
『證據やある』と王樣が申されました、『怕れることはない、早く云へ、さもなければ即座に死刑だ』
これでは全く證人の元氣づかう筈がありませんでした、矢ッ張ぶる/\顫へながら、氣遣はしげに女王樣の方を見て居ましたが、やがて無我夢中で、持つて居た茶腕を牛酪麭麺と間違へて、一破片大きく齧りました。
すると忽ち愛ちやんは妙な心地がして來たので、何うしたことかと甚だ不審に思つて居ますと、復たもや段々大きくなり初めました、愛ちやんは最初立ち上つて法廷を出やうとしましたが、考へ直して今度は、空場所のある間斯うして居やうと决心しました。
『そんなに押すな』と愛ちやんの次ぎに坐つて居た福鼠が云ひました。『呼吸も吐けやしない』
『仕方がないわ』と愛ちやんは優しい聲で、『大きくなるんですもの』
『お前には此處で大きくなる權利は些とも無い』と福鼠が云ひました。
『莫迦なことをお言ひでない』と云つて愛ちやんは大膽にも、『お前だつても大きくなつてるぢやないの』
『然うさ、だけど私の大きくなり方は法に適つてる』と云つて福鼠は、『そんな滑稽な風ぢやない』乃で忌々しさうに立ち上り、法廷の他の側に越えて行きました。
此間も始終女王樣は决して帽子屋から眼を離されませんでした。丁度福鼠が法廷を横切つた時に、女王樣は廷丁の一人に、『この以前の音樂會の、演奏者の名簿を持つて參れ』と仰せられました、これを聞いて憐れな帽子屋は、慄へ戰いて、穿いてた靴も何も脱いで了ひました。
『證據やある』と王樣は腹立しげに繰返されました、『無いなら死刑だ、有るか無いか早く申せ』
『お助け下さいませ、陛下よ』と帽子屋は顫へ聲で、『――お茶を飮んでは居ませんでした――もう殆んど一週間以上も飮みません――オヤ、牛酪麺麭が莫迦に薄くなつた――一寸の間に――』
『一寸の間に何が?』と王樣が申されました。
『初め、お茶と申したのです』と帽子屋が瞹昧に答へました。
『勿論一寸と云ふ詞の初めにもチがつくが!』と王樣が棘々しく申されました。『我れを侮辱するか?え!』
『お助け下さいませ』と帽子屋は續けて、『何だか澤山其の後ろにちら/\して居ます――談をしたのは三月兎だけです――』
『しません!』と三月兎が大急ぎで遮りました。
『した!』と帽子屋。
『しない!』と三月兎。
『屹度しないと申すか』と云つて王樣は、『もう止せ』
『まァ、それは兎に角、福鼠が云ふには――』と帽子屋は續けて、若しや復た打消されはしないかと、心配さうに四邊を見廻しましたが、福鼠は打消すどころか、もう疾くに熟睡んで居ました。
『其の後』と帽子屋は云ひ續けて、『私はもッと牛酪麺麭を切りました――』
『併し何を福鼠が云つたのか?』と陪審官の一人が訊ねました。
『思ひ出せません』と帽子屋が云ひました。
『憶えてる筈だが』と云つて王樣は、『さもなければ汝を死刑に處す』
不憫にも帽子屋は、其の茶腕と牛酪麺麭とを落して了ひ、片膝ついて、『お助け下さいませ、陛下よ』と初めました。
『お前は如何にも可哀相なものだ』と王樣が申されました。
乃で一疋の豚が何とか云つて喝采しましたが、直ちに廷丁のために制止られました。(それは漢語交りで些や六ヶ敷い言葉でしたが、説明すれば、皆なで、大きな麻布の袋の中へ、最初頭を切つた豚を窃と入れ、その口を緊乎と糸で縛り、それから其の上に坐れと云ふことでした)
『然うしたら甚麽に面白いでせう』と愛ちやんは思ひました。『私は審問の終りに「傍聽人が喝釆しやうとして、直ちに數多の廷丁どもに制止られた」と云ふことを、屡々新聞で讀んでは居ましたが、それが何う云ふ意味だか解りませんでした。』
『宜しい、下れ』と王樣がお續けになりました。
『もう是より下れません』と帽子屋が言ひました。『御覽の通り床の上に居ります』
『然らば坐れ』と王樣がお答へになりました。
乃で他の豚が喝釆しましたが、制止られました。
『さァ、もう可い!』と愛ちやんは思ひました。『これで安心』
『私はお茶を濟ませて了ひたう御座います』と云つて帽子屋は氣遣はしげに、女王樣の方を見ました、女王樣は演奏者の名簿を讀んで居られました。
『行つても宜い』と王樣が申されました、帽子屋は急いで法廷を出ました、靴をも穿きあへず。
『――それ、其の頭を刎ねとばせ』と女王樣が一人の廷丁に申されました、が帽子屋の姿は、廷丁が戸口まで行かない中に見えなくなりました。
『次なる證人を喚べ!』と王樣が申されました。
次なる證人は公爵夫人の料理人でした。料理人は片手に胡椒の箱を持て居ました、愛ちやんは已に彼が法廷に入らぬ前に、戸口に近く、通路に居た人民どもが、急に嚏をし初めたので、直にそれが誰であつたかを推察しました。
『證據は』と王樣が申されました。
『御座いません』と料理人。
王樣は氣遣はしげに白兎を御覽になりました、白兎は低聲で、『陛下は此の證人の相手方の證人を詰問せらるゝ必要があります』
『よし、さらば、詰問せん』王樣は冱々しからぬ御容子にて、腕を拱み、眉を顰め、兩眼殆んど茫乎なる迄、料理人を凝視めて居られましたが、やがて太い聲で、『栗饅頭は何から製られるか?』
『多くは、胡椒で』と料理人が云ひました。
『糖蜜で』と彼れの後ろで眠さうな聲が云ひました。
『其の福鼠を彩色れ』と女王樣が金切聲で叫ばれました。『其の福鼠を斬れ!其の福鼠を法廷から逐ひ出せ!それ、抑えよ!そら抓ろ!其の髯を引ッ張れ』
暫くの間全く法廷は上を下への大騷ぎでした。福鼠を逐ひ出して了ひ、皆なが再び落着いた時迄に、料理人は行方知れずなりました。
『關はない!』悠然として王樣が申されました。『次なる證人を喚べ』それから王樣は低い聲で女王樣に、『實際、あの、御身は次なる證人の相手方の證人を詰問しなければならない。甚く頭痛がして來た!』
云ひながらも王樣は、名簿を彼方此方と索して居られました、ところで愛ちやんは、次なる證人が何んなのだらうかと頻りに見たく思ひながら、凝と白兎を瞻戍つて居ました、が軈て、『――でも未だ充分證據が擧らないのですもの』と獨語を云ひました。愛ちやんの驚きや如何ばかり、白兎が、その細い金切聲を張上げて、『愛子!』と其の名を讀み上げました時の。
第十二章
愛ちやんの證據
『はい!』と叫んだものゝ愛ちやんは、餘りに狼狽たので自分が此所少時の間に、如何ばかり大きくなつたかと云ふことを全然忘れて、遽かに跳び上りさま、着物の裾で裁判官の席を拂ひ、陪審官をば殘らず、下なる群集の頭上に蹴轉がしました。愛ちやんは其處に彼等の這ひ廻るのを見て、偶々自分が以前の週に、數多の金魚鉢を轉ッ覆へした時の態を想ひ起しました。
『萬望、お宥しを願ひます』と愛ちやんは消魂しい聲で叫んで、再び手早く彼等を拾ひ上げました。絶えず金魚の事ばかり考へてゐたので、直ちに彼等を集め、各々その席へ歸してやらなければならない、さもなければ皆な死んで了うだらう、と愛ちやんは只懵然さう思つてたものですから。
『審問を進めることが出來ない』と王樣は極めて嚴格な聲で、『陪審官が殘らずその位置に復するまでは――殘らず』と頗る詞を強めて繰返し、屹然愛ちやんの方を御覽になりました。
愛ちやんは先づ裁判官の席を見、それから大急ぎで蜥蜴を逆さまに置きました。憐れな小さな物は、全く自由に動くことが出來ないので、只悲しさうに其尾ばかり振つてゐました。愛ちやんは又直ちにそれを以前のやうに置き直し、『何方にしたつて大した違ひはなくつてよ』と獨語を云ひました、『これは何うしても矢張、他の者と同じ方法で審問するに限るわ』
陪審官等は些や身體の顫えが止るや否や、再び石盤と鉛筆とを渡されたので、皆な一心に事の始末を書き出しました、獨り蜥蜴のみは其口を開いたまゝ、徒らに法廷の屋根を見上げて、爲すこともなく茫然坐つてゐました。
『此の事件に關して、其方の存じて居ることは!』と王樣が愛ちやんに申されました。
『何にも存じません』と愛ちやん。
『屹度何にも存ぜぬか?』と王樣が固く念を押されました。
『全く何にも存じません』と愛ちやん。
『それは極めて必要な事だ』と王樣は陪審官一同を顧みて申されました。彼等が將にこれを石盤に書きつけんとした時に、白兎は啄を容れて、『不必要で御座います、陛下よ、申す迄もなく』と甚だ恭しく、併し眉を顰めて申し上げました。
『不必要、勿論、左樣』と王樣は口早に云つて、尚ほも低聲で獨語を申されました、『不必要――不必要――不必要――不必要――』と宛も何の詞が最も善く發音されるかを試驗するやうに。
或る陪審官はそれを『必要』と書きつけ、又或者は『不必要』と書きつけました。愛ちやんは彼等の石盤を見越せる程近くに居たので、全然それが分りました、『併しそれは何うでも關はないわ』と密かに然う思ひました。
此時、今まで何か其の備忘録に忙しさうに書いて居られた王樣が、『默れ!』と叫んで、やがて御所持の書物をお開きになり、『第四十二條。その身長一哩より高き者は法廷を去るべし』とお讀みになりました。
皆が愛ちやんの方を見ました。
『私の身長は一哩なくッてよ』と愛ちやんが云ひました。
『ある』と王樣。
『殆んど二哩も高い』と女王樣がお附加しになりました。
『何にしても、私は出て參りません、兎に角』と云つて愛ちやんは、『のみならず、それは正しい規則ではありません、唯た今考案されたのですもの』
『それは此書物にある最も古い規則だ』と王樣が申されました。
『そんなら、それは屹度一番に違ひありません』と愛ちやん。
王樣は眞蒼になつて、急いで其の備忘録を閉ぢ、『判决は』と陪審官に申されました、低い顫へ聲で。
『まだ/\もつと多くの證據が御座います、陛下よ』と云つて白兎は、遽に跳び上り、『此の文書は只今拾ひましたのです』
『何が其中に書いてあるか?』と女王樣が申されました。
『私は未だそれを開きません』と云つて白兎は、『だが、それは手紙のやうです、囚人の手になつた、――何者かに宛てた』
『それに違ひない』と王樣が申されました、『名宛が書いてないとすれば、屹度』
『誰にとも指定してないのか?』と陪審官の一人。
『全く指定してありません』と云つて白兎は、『實際、表面には何にも書いてありません』それから其の文書を開いて、『全く手紙ではありません、それは歌の一節です』
『それが囚人の筆蹟なのか?』とモ一人の陪審官が訊ねました。
『否え、然うではありません』と云つて白兎は、『實に不思議だ』(陪審官は皆な途方に暮れて了ひました)
『誰か他の者の僞筆に相違ない』と王樣が申されました。(陪審官は殘らず目を瞪りました)
『願くは陛下よ』と云つて軍人は、『私が書いたのでは御座いません、その證據には、終ひに名も何も書いて御座いません』
『若しも汝がそれに署名しなかつたとすれば』と云つて王樣は、『尚々惡い、汝の惡戯に相違ない、さもなければ正直に署名して置くべき筈だ』
爰に於いてか滿座悉く拍手喝釆しました、それは眞に王樣が其日に仰せられた中の最も巧みなるお言葉でした。
『それが何より罪のある證據だ、云ふ迄もなく』と女王樣が申されました、『關はない、刎ねろ――』
『そんなものは證據にはなりません!』と愛ちやんが云ひました。『何だか譯が解らないのですもの!』
『それを讀め』と王樣が申されました。
白兎は眼鏡をかけ、『何處から初めて宜しいのですか?陛下よ』とお訊ね申し上げました。
『初めから始めて』と王樣は嚴格に、『それから、ずつと終ひまで、濟んだから止め』
法廷は水を打てる如く靜かになりました、乃で白兎が次の歌を讀み出しました、
『何時か彼處へ行つた時、
私の事ども話したと、
見事な手紙を寄越したが、
泳げないとの辯疏で。
私の行けぬと云つたのが、
(何より嘘ではない證據)
それをも責めよと云ふのなら、
一體お前は何うする氣?
一個遣つたに、又二つ、
三つ四つ慾には限りなく、
殘らずお前の懷ろへ、
以前は私のものだけど。
斯うして二人が共々に、
若しや連累されたとて、
お前がついてれや大丈夫、
何時かは疑ひ睛れるだらう。
私もお前と同じこと、
(フイと恁麽氣になつたのも)
唯タ一つの邪魔者が、
中間へ入つてした所業。
親しいからとて油斷すな、
何時になつても變りなく、
他人に隱した此の秘密、
『お前と私の間だけ』
『それこそ大事な證據の一つである』と王樣は揉手をしながら、『さらば陪審官に――』
『若し誰でも其の説明の出來たものに』と愛ちやんが云ひました、(此所少時の間に大變大きくなつたので、誰れ憚る所もなく大膽に喙を容れて)、私は十錢與げてよ。私はそれに些とも意味があるとは信じないわ』
陪審官は殘らずその石盤に、『娘はそれに些とも意味があるとは信じない』と書きつけました、併し誰れ一人として其の文書を説明しやうとはしませんでした。
『若しそれに何の意味も無いとすれば』と云つて王樣は、『それは面倒くさくなくて可い、何事かを知らうとしないで濟むから。『どうも解らん』と續けて、其の膝の上に歌を展げ、片眼で見ながら、『併し何か其れには意味があるやうに思はれる。「――泳げないとの辯疏で――」其方には泳げぬか、え?』云つて軍人の方を御覽になりました。
軍人は悲しげに其の頭を振つて、『私はそれが好きのやうに見えますか?』と云ひました。『骨牌が何うして泳げるものですか)
『宜しい、それなら』と云つて王樣は、頻りに口の中で其の歌を繰返して居られました、「何より嘘ではない證據――」それは勿論陪審官で――「それをも責めよと云ふのなら」――それは女王に違ひない「一體お前は何うする氣?」――何うする、眞個に!――「一つ遣つたに、又二つ――」さて、それは屹度涙ながらに遣つたに違ひない、どうだ――』
『未だ先に、「殘らずお前の懷ろへ」と云ふのがあつてよ』と愛ちやんが云ひました。
『それ、其處に!』と云つて王樣は、洋卓の上の栗饅頭を指しながら、得意げに申されました。『何と此程見事な物があらうぞや。それから又――「フイと恁麽氣になつたのも――」そんな氣になる筈はないが、え、なつたのではなからうが?』と女王樣は申されました。
『决して、なつたことはない』と云つて女王樣は亂暴にも、蜥蜴を目がけてインキ壺を投げつけられました。(不幸なる小さな甚公は、何にも痕跡の殘らぬのを知つて、一本指で石盤へ書くことを止めました、ところで、その顏からインキの垂れてるのを幸ひ、今度は一生懸命にインキを用ゐて再び書き初めました)
『どうだ、何とも言葉が出ないだらう』と云つて王樣は、微笑みながら法廷を見廻されました。法廷は森としました。
『さァ、どうだ』と又云ひ足して、『判决は』
『まだ、/\!』と女王樣が申されました。『宣告が前で、――判决はそれから後のことだ』
『何ですッて!』と愛ちやんは聲高に云つて、『最初宣告をするッて!』
『默れ!』と眞赤になつて女王樣が申されました。
『默りません』と愛ちやん。
『頭を刎ねるぞ!』と女王樣が聲のあらん限り叫ばれました。誰れ一人として縮み上らぬものはありませんでした。
『誰れがお前の云ふことなぞを聞くものか?』と云つて愛ちやんは、(此時までに大きくなれるだけ充分大きくなつてゐました)『お前は骨牌の一組に過ぎないではないか!』
此の時、全くその一組が空中に舞ひ上り、それから復た愛ちやんの上に飛び降りて來ました。愛ちやんは驚きの餘り、怒り叫び、其等を拂ひ除けやうとして、身は堤の上に、姊さんの膝を枕に臥て居たのに氣がつきました、姊さんは靜に、顏に散り來る木の葉を拂つて居りました。
『お起きよ、愛ちやん!』と姊さんが云ひました。『まッ、大變長く眠つて居たのね!』
『然う、私、恁麽奇妙な夢を見てよ!』と云つて愛ちやんは、姊さんに憶えて居たゞけを悉皆話しました。それは皆さんが是迄讀んで來た所の、種々不思議な冐險談でした。愛ちやんが語り終へた時に、姊さんは頬摺しながら、『まァ、眞個に奇態な夢だこと、さァ、お茶を飮みに行きませうね、もう遲いから、乃で愛ちやんは、起き上るや否や駈け出しました、駈ける間も、熟々奇妙な夢であつたことを考へながら。
――――――――――――――――――――――
然し其の姊さんは愛ちやんが行つて了つても、頬杖ついて沈みゆく夕日を見ながら、可愛い愛ちやんの事から、又その種々不思議な冐險談を考へながら、やがて又姊さんも其れに似たやうな夢を見初めました、その夢は、――
最初、姊さんは可愛い愛ちやんの夢を見、それから又其の膝に抱きついた小さな手やら、その清しい可愛い眼が自分の眼を見つめてゐるのを夢に見ました――物言ふ聲も聞えました、又その眼の中に入りさうな後れ毛を拂ひ除けやうとして其の頭を振つてる所を見ました――それから又一心に何か聽いてるやうにも見えました、姊さんの周圍には殘らず其の妹の夢に見たやうな奇妙な動物が生きて居ました。
長い草が白兎の駈け過ぎた時に其足にサラ/\と鳴りました――鼠は驚いて傍なる池の中へ逃げ込み、水煙を立てました――姊さんは三月兎と其の友達とが何時になつても盡きない麺麭を分配した時に、茶碗の鳴るのを聞き、女王樣が其の不幸な賓客を死刑にせよと命ぜられる金切聲も聞えました――も一度豚の仔が公爵夫人の膝に居て嚏をし、其の間、皿小鉢が其の周りに碎けました――再びグリフォンの叫び聲、蜥蜴の鉛筆を軋らす音、壓潰されて窒息した豚、不幸な海龜の絶えざる歔欷とがゴタ/\に其處いらの空中に浮んで見えました。
乃で姊さんは目を瞑つて坐りました、而して些や不思議な世界のあることを信じました、ところで、再び眼を開けば、總てが塵の浮世に變るに相違ないとは知りつゝも――草は只風にサラ/\と鳴り、池は葦の戰ぎに美しい小波が立ちました――ガラ/\鳴る茶碗はチリン/\と響く鈴に、女王樣の金切聲は牧童の聲と變じました――而して赤兒の嚏、グリフォンの鋭い聲、其他不思議な聲々は、喧しき田畑の人聲と(愛ちやんの知つてる)變じました、――遠方に聞ゆる家畜の唸り聲は、海龜の重々しき歔欷であつたのです。
最後に姊さんは、これが全く妹の見た夢に同じだと云ふことを思ひ、自分が大人になつた時(斯麽無邪氣な心の少しでも殘つて居たいものだと願ひました。而うして他の小さな子供等を集めて、これらの不思議な世界の夢の面白い話しをしたなら、自分の過ぎ來し夏の日の想出の如何ばかり、多くの子供を喜ばすことだらうかと思ひ、一方ならず愉快を感じました。
愛ちやんの夢物語 終