三人の盲の話
一
「もし/\、其處へ行らつしやりますお方。」……と呼ぶ。
呼ばれた坂上は、此の聲を聞くと、外套の襟から先づ悚然とした。……誰に似て可厭な、何時覺えのある可忌しい調子と云ふのではない。が、辿りかゝつた其のたら/\上りの長い坂の、下から丁ど中央と思ふ處で、靄のむら/\と、動かない渦の中を、見え隱れに、浮いつ沈みつする體で、跫音も聞えぬばかり――四谷の通りから穴の横町へ續く、坂の上から、しよな/\下りて來て、擦違つたと思ふ、と其の聲。
何の約束もなく、思ひも懸けず行逢つたのに、ト見ながら行過ぎるうち、其れなり何事も無しには分れまい。呼ぶか、留めるか、屹と口を利くに違ひない、と坂上は不思議にも然う思つた。尤も其は、或機會に五位鷺が闇夜を叫ぶ、鴉が啼く、と同じ意味で、聞くものは、其處に自分一人でも、鳥は誰に向つて呼ぶのか分らない。けれども、可厭な、可忌しい聲を聞かずには濟むまい、と思ふと案の定……
來て、其の行逢つたものは、一ならびに並んだ三人づれで、どれも悄乎とした按摩である。
中に挾まれたのは、弱々と、首の白い、髮の濃い、中年増と思ふ婦で、兩の肩がげつそり痩せて、襟に引合せた袖の影が――痩せた胸を雙の乳房まで染み通るか、と薄暗く、裾をかけて、帶の色と同じやうに――黒く映して、ぴた/\ぴた/\と草履穿か、地とすれ/\の褄を見た。
先に立つたのは鼠であらう、夜目には此の靄を織つてなやした、被布のやうなものを、ぐたりと着て、縁なしの帽子らしい、ぬいと、のはうづに高い、坊主頭其のまゝと云ふのを被つた、脊のひよろりとしたのが、胴を畝らして……通る。
後なる一人は、中脊の細い男で、眞中の、其の盲目婦の髮の影にも隱れさうに、帶に體を附着けて行違つたのであるから、形、恰好、孰れも判然としない中に、此の三人目のが就中朧に見えた。
此の癖、もし/\、と云つた、……聲を聞くと、一番あとの按摩が呼留めた事が、何うしてか直ぐに知れた……
「私かい。」
と直ぐに答へて、坂上は其のまゝ立留まつて、振向いた……ひやりと肩から窘みながら、矢庭に吠える犬に、(畜生、)とて擬勢を示す意氣組である。
「はあ、お前樣で。」
と沈んで云ふ。果せる哉、殿の痩按摩で、恁う口をきく時、靄を漕ぐ、杖を櫂に、斜めに握つて、坂の二三歩低い處に、伸上るらしく仰向いて居た。
先の二人、頭の長いのと、何かに黒髮を結んだのは、芝居の樂屋の鬘臺に、髷をのせて、倒に釣した風情で、前後になぞへに並んで、向うむきに立つて、同伴者の、然うして立淀んだのを待つらしい。
坂上は外套の袖を捻ぢて、踵を横ざまに踏みながら、中折の庇から、對手の眉間を透かし視つつ、
「私に用か。」
「一寸……お話しが……ありまして……」と落着いたのか、息だはしいのか、冬の夜ふけをなまぬるい。
二
「用事は何です。」
はじめ、靄の中を、此の三人が來て通りすがつた時、長いのと短いのと、野墓に朽ちた塔婆が二本、根本にすがれた尾花の白い穗を縋らせたまゝ、土ながら、凩の餘波に、ふは/\吹き送られて來たかと思つた。
漸つと、其の(思つた)が消えて、まざ/\と恁うしてものを言交はせば、武藏野の丘の横穴めいた、山の手場末の寂びた町を、搜り/\に稼いで歩行くのが、誘ひ合はせて、年を越す蚊のやうに、細い笛の音で、やがて木賃宿の行燈の中へ消えるのであらうと、合點して、坂上も稍もの言ひが穩かに成つたのである。
按摩は其仰向いて打傾いた、耳の痒いのを掻きさうな手つきで、右手に持添へた杖の尖を、輕く、コト/\コト/\と彈きながら、
「用と云うて、別に、此と云うてありませぬ。ありませぬ、けれども、お前樣今から、何處へ行かれます。何處へ、何處へ、何處へ?」……と些と嘲けるやうに、小鼻で調子を取つた聞き方をする。
「構ひなさんな。」
無理な首尾の、婦に忍ぶ夜であつた……
坂上は憤然として、
「何處へ行つても可いではないか。」
「可うない、其が可うない、お前樣、」と押附けに言つた聲に、振切つては衝と足の出ぬ力が籠る。
「何故惡いんだね。」
と、却つて坂下へ小戻りにつか/\と近づいたが、餘り傍へ寄ると、靄が、ねば/\として顏へ着きさうで、不氣味で控へた。
「もう遲い!」
と急に幅のある強い聲。按摩は其の時、がつくりと差俯向く。
立ち窘んだ體だつた、長頭の先達盲人は、此の時、のろりと身動きして、横に崖の方へ顏を向けた。
次の婦は、腰から其の影を地へ吸込まれさうに、悄乎と腰をなやして踞む……鬢のはづれへ、ひよろりと杖の尖が抽けて青い。
三人が根をおろしたらしく見て取ると、坂上も、急には踏出せさうもなく、足が地に附着いたが、前途を急ぐ胸は、はツ/\と、毒氣を掴んで口から吹込まれさうに躍つて、血を動かしては、ぐつと膨れ、肉をわなゝかしては、げつそり挫げる。
坂の其の兩方は、見上げて峰の如き高臺のなだれた崖で、……時に長頭が面を向けた方は、空に一二軒、長屋立が恰も峠茶屋と云ふ形に、霜よ、と靄のたゝまり積んだ、枯草の上に、灯の影もなく鎖さるゝ。
で、此のものどもの寄つた方は、木の根ぐるみ地壓への杭も露顯に、泥の崩れた切立てで、上には樹立が參差と骨を繋ぐ。其の枝の所々、濁つた月影のやうな可厭な色の靄が搦んで、星もない……山深く谷川の流に望んだ思ひの、暗夜の四谷の谷の底、時刻は丁ど一時頃。
激しく動くは胸ばかり……づん/\と陰氣な空から、身體を壓附けられるやうで、
「遲いのが、何で惡い。」
とものいひも重く成る。
「然う言はれる、申される……」
と杖を持つた手の甲を、丁と敲き、
「如何にも、もし、それが惡い……」
「行つては不可いと云ふのかね。」と、心がかりな今夜の逢ふ瀬の、辻占にもと裏問へば……
「惡いと云うたりとて、お前樣氣一つで行かるれば、それまでの事ではあれど、先づお留め申したい。
これは、私一人か……
其處に居る人も。」
と云つて、杖をまつすぐに持直すと、むかうで長頭が、一つ幽な咳。
三
「行くなつたつて、行かなけりや成らない所だつたら何うします。」
と坂上の呼吸はあせつた……
「親が大病だか、友だちが急病だか、知れたもんですか。……君たちのやうに言つちや、何か、然も怪しい所へでも出掛けるやうだね。」
「へゝゝ、」
と杖の尖に頬をすりつける如く傾がつて、可厭に笑ひ、
「其が分ればこそ申すのなり、あの人も言へと言ひます……當てますか、私が。……知つても大事ない。明けて爾々とお言ひなされ。お前樣は婦に逢ひに行く、」
「…………」
「な、然も、先方は、義理、首尾で、差當つては間の惡い處を、お前樣が突詰めて、斷つて、垣も塀も、押倒し突破る、……其の力で、胸を掻毮るやうにあせるから、婦も切つて、身にも生命にも代へて逢はうと云ふ。其へ行く……お前樣、其の途中でありませう。通りがかりから、行逢うて、恁うやつて擦違うたまでの跫音で、よう知れました。とぼ/\した、上の空なので丁と分る……
霧もかゝり、霜もおりる……月も曇れば星も暗し、此の大空にも迷ひはある。迷ひも、其は穩かなれども、胸の塞り呼吸が閉る、もやくやなあとの、電、はたゝがみを御覽ぜい。
人間の思ひ、何事も不思議はない。
私が心に思較べた……身に引較べればこそ、此の掌を……」
と云ふ、己が面へ、掌を蓋する如くに、
「……掌を見るとやら申す通り、見えぬ目にも知れました。」
あとの二人とも、此の時言合はせた體に、上と下で、衣ものの襞襀まで、頷いたのが朧に分つた。
坂上は、氣拔けのした状に、大息を吻と吐いて、
「辻で賣卜をする人たちか。私も氣が急いだので、何か失禮を言つたかも知れない……
先方は足袋跣足で、或家を出て、――些と遠いが、これから行く所に、森のある中に隱れて待つた切、一人で身動きも出來ないで居るんです。
其の事は、私が今まで居た所へ、當人から懸けた、符牒ばかりの電話で知れて、實際、氣も顛倒して急ぐんです。行かないで何うしますか、行つては惡いんですか。」
「われら考へたも其の通り……いや、男らしく、よう申されました。さて、いづれもお最惜しいが、あゝ、危い事かな。」
と杖を引緊めるやうに、胸へ取つて兩手をかけた。痩按摩は熟と案じて、
「先づお聞き申すが、唯今、此の坂の此の、われらが片寄つて路傍に立ちました……此の崖下に、づら/\となぞへに並びました瓦斯燈は、幾基が所燈が點いて、幾基が所消えて居ります。一寸、御覽ぜ、一寸御覽ぜ。」
と言ひ/\、がく/\と項を掉つて首を垂れる。
言に引向けられたやうに、三人の並んだ背後を拾つて、坂下から、上の町へ、トづらりと視ると……坂上は今夜はじめて此の路を通るのではない。……片側へ並べて崖添ひに、凡そ一間おきぐらゐに、間を籠めて、一二三堂と云ふ、界隈の活動寫眞の手で建てた、道路安全の瓦斯燈がすく/\ある。
しろ/″\と霜柱のやうに冷たく並んで、硝子火屋は、崖の巖穴に一ツ一ツ窓を開けた風情に見えて、ばつたり、燈が消えたあとを、目の屆く、どれも是も、靄を噛んで、吸ひ溜め吸ひ溜め、透間を覗いて切れ/″\に灰色の息を吹出す。
かと思へば、目の前に近いのは、あらう事か、鬼の首を古綿で面形に取つた形に、靄がむら/\と瓦斯燈の其の消えたあとに蟠つて、怪しく土蜘蛛の形を顯し、同じ透間から吹く息も、これは可恐しい絲を手繰つて、天へ投掛け、地に敷き展べ、宙に綾取る。や、然う思へば、靄のねば/\は、這個の振舞か。
四
「大抵、皆消えて居ります筈で。」
と按摩は、坂上が然うして、きよろ/\と瓦斯燈を眗す内に、先んじて又云つた。
「すつかり消えて居る。あゝ、」と尚ほ一倍、夜の更けたのが身に染みた。
「な、消えて居りませう……けれども、お前樣から、坂の上の方へ算へまして、其の何臺目かの瓦斯が一つ、まだ燈が點いて居らねばなりませぬ。……見えますか。」
「見える……」
と答へた、如何にも一臺、薄ぼんやりと、灯が亂れて、靄へ流れさうに點いて居る。
「しかし、何本めだか一寸分らない。」
「餘り遠い所ではありませぬ。人通りのない、故道松並木の五位鷺は、人の居處から五本目の枝に留ります、道中定り。……其の灯の消殘りましたのは、お前樣から、上へ五本目と存じます。
私が間違つた事を言ひますれば、其處に居ます師匠、沙汰をします筈。點つて立つて居ります上は、決して相違ないと存じます。數を取つて御覽ぜ、御覽ぜ……一つ、」と杖の尖をカタ/\と二つ鳴らす。
「一い……」
「二ツ、」と三ツ、杖の尖をコト/\コト。
「三い……四う……確に五本目……」
「でありませうな。」
「何うしたと云ふんです。」
「お前樣、此の暗夜に、われらの形、崖の樣子、消えた瓦斯燈の見えますのも、皆其の一つの影なので。然もない事には、鼻を撮まれたとて分りませぬが。」
成程、覺束ない、ものの形も、唯一ツ其の燈の影なのである……心着くと、便りない色ながら、其の力には、揃つて消えた街燈が、時々ぎら/\と光りさへする――靄が息を吐いて瞬く中に、――坂上の姿もふら/\として、
「一體、其が何うしたんです。」
「然れば……其の五基目に一ツ殘りました灯の下に、何か見えはいたしませぬか。」
「何が、」
と云ふのも聲が震ふ、坂上は又慄然とした。
「何か、居はいたしませぬか。」
「何にも、何にも居らん。」
「居りませぬか。」
「居ない。」
「居ないが定に成りませぬ。お前樣が其處までお運びなさりますれば、必ず出ます。……それ故に、お留め申すのでありまして、まあ、お聞きなさりまし。」
と捻向いて、痩按摩は腰を屈めながら、丁ど足許に一基あつた……瓦斯燈の根を、其處に轉がつた、ごろた石なりにカチ/\と杖で鳴らした。が音も響かず、靄に沈む。
「先づ……最う一ツ念のために申さうに……われらが居ります此なる瓦斯燈、唯た今、お前樣を呼留めましたなり、一歩とて後へも前へも動きませぬ……此は坂下からはじめまして、立ちました瓦斯燈の、十九基めに相違ありませぬ。
間違へば、師匠沙汰をなされます。
さて、三年前、……日は違ひます。なれども、同じ此の霜月の夜さり、丁ど同じ今の時刻、私にもお前樣と同じ事がありました。……
其の頃は、決して其の、恁やうな盲目ではありませなんだ。」
と云ふ、まともに坂上に對して、向直つたけれども、俯向いたなりで顏は上げぬ。
「よう似た、お前樣と同じ事で、然る婦にあひゞきに參るので、此處を、此の坂を、矢張り、向つて下から、うか/\と上りかけたのでありました。
時に擦違つたものが、これだけは、些と樣子が違ひまして、按摩一人だけが見えました。」
其の時、件の、長頭は、くるりと眞背後にむかうを向いた、歩行出すか、と思ふと……熟と其のまゝ。
五
婦は、と見ると、其は、夥間の話を聞くらしく、踞んだなりに、くるりと此方に向直つた、帶も膝も、くな/\と疊まれさうなが、咽喉のあたりは白かつた。
按摩の聲は判然して、
「で、其で矢張り、お前樣に私がしましたやうに、背後から呼留めまして、瓦斯の五基目も、足もとの十九の數も、お前樣に今われらが言うた通りの事を申します。
私はこゝで、其の通りを、最う一度申しますばかりの事。
何で、約束した其の婦に逢ひに行つては成らぬのかと――今のお前樣の通りを、又其の時私が尋ねますと、彼の盲人が申すには、」
其の盲人は、こゝに先達の其の長頭である事は、自から坂上の胸に響く。
「上へ五本めの、一つ消え殘つた瓦斯燈の所に、怪しいものの姿が見える……其は、凡て人間の影を捉る、影を掴む、影法師を啖ふ魔ものぢや。
彼めに影を吸はるれば、人間は形痩せ、嘗めらるれば氣衰へ、蹂躙らるれば身を惱み、吹消さるゝと命が失せる。
凡そ、月と日とともに、影法師のある所、件の魔もの附絡はずと云ふ事なうて、且つ吸ひ、且つ嘗め、蹂躙る。が、いづれ其の人の生命に及ぶには間があらう。其もつて大事ぢやに、可恐しいは、今あるやうな燈の場合。一口くわつと遣つて、」
と云つた。按摩の唇は尖つたな!
「立所に影を啖ふ、啖はるれば、それまでぢや、生命にも及びかねぬ。必ず此の坂を通らるゝな……
と恁う言ひます。
私も血氣で、何を言ふ。第一、其魔ものとはどんなものか、と突懸つて訊きますと、其の盲人ニヤリともせず、眞實な顏をしまして、然れば、然れば先づ、守宮が冠を被つたやうな、白犬が胴伸びして、頭に山伏の兜巾を頂いたやうなものぢや、と性の知れぬ事を言ふ。
いや、聞くよりは見るが疾い。さあ、生命を取られて遣らう、と元來、あたまから眞とは思ひませぬなり。づか/\、其の、……其處の其の五基めの瓦斯燈の處まで小砂利を蹴つて參りますと、道理な事、何の仔細もありませぬ。
處に、右の盲人、カツ/\と杖を鳴らして、刎上つて、飛んで參り、これは無體な事をなされる。……強い元氣ぢや。私が言うて聞かす事を眞とは思はぬ汝に、言託けるのは無駄ぢやらうが、ありやうは、右の魔ものは、さしあたり汝の影を、掴まうとするではない。
今夜……汝が逢ひに行く……其の婦の影を捉らうと、豫てつけ狙うて居るによつて、嚴い用心、深い謹愼をしますやう、汝を通じて、其の心づけがしたかつたのぢや。
と恁う又言ふのでありました。」
六
「まざ/\と譫言吐く……私の婦知つたりや、と問ひますと、其を知らいで何をする……今日も晩方、私が相長屋の女房が見て來て話した。谷町の湯屋で逢うたげな。……よう湯の煙で溶けなんだ、白雪を撫でてふつくりした、其は、其は、綺麗な膚を緋で緊めて、淡い淺葱の紐で結へた、乳の下する/\辷るやうな長襦袢。小春時の一枚小袖、藍と紺の小辨慶、黒繻子の帶に、又緋の扱帶……髷に水色の絞りの手絡。艷の雫のしたゝる鬢に、ほんのりとした耳のあたり、頸許の美しさ。婦同士も見惚れたげで、前へ𢌞り、背後で視め、姿見に透かして、裸身のまゝ、つけまはいて、黒子が一つ、左の乳の、白いつけ際に、ほつりとある事まで、よう知つたと云ふ話。
何と、此の婦に相違あるまい、汝が逢ひに行く其の婦は……
と又其の盲人が云ふのであります。」
聞くうちに、坂上は、ぶる/\と身震ひした。其は、其處に、此の話をする按摩の背後に跪い居て、折から面を背けた婦が、衣服も、帶も、まさしく、歴然と、其の言葉通りに目に映つたためばかりではない。――
足袋跣足で出たと云ふ、今夜は、もしや、あの友染に……あの裾模樣、と思ふけれども、不斷見馴れて氣に染みついた、其の黒繻子に、小辨慶。
坂上は血の冷えるあとを赫と成る。
「何うでありませう。お前樣。此から逢ひにおいでなさらうと云ふ、其の婦の方は、裾模樣に、錦の帶、緋縮緬の蹴出しでも。……其の黒繻子に、小辨慶の藍と紺、膚の白さも可いとして、乳房の黒子まで言ひ當てられました、私が其の時の心持、憚りながら御推量下さりまし。
こゝな四谷の谷底に、酷い事、帶紐取つて、あか裸で倒されてでも居りますのが、目に見えるやうに思はれました。
で、右の其の盲人は、例の魔ものは、其の婦の影を、嘗めう、吸はう、捉へよう、蹂躙らう、取啖はうとつけ𢌞す――此の儀を汝から託けて、氣を注けるやう言ひなさい、と申したのを、よくも聞かずに、黒雲を捲いて、飛んで行き、電のやうに、鐵の門、石の唐戸にも、遮らせず、眞赤な胸の炎で包んで、弱い婦に逢ひました。
影を取る、影を吸ふ、影を嘗める、魔ものに逢つた。此の坂しか/″\の瓦斯燈のあかりで見て來た。……
婦の家は、つい此の居まはりでありました。――
夜も晝も附𢌞すぞ、それ、影が薄いわ、用心せい、とお前樣。
可哀氣に、苦勞で氣やみに煩つて、帶をしめてもゆるむほど、細々と成つて居るものを、鐵槌で打つやうに、がん/\と、あたまへ響くまで申しましたわ。
他人に、膚を見せたと思ふ妬みから、――婦が膝に突俯して、震へる聲の下で、途中、どんなものに逢つて誰に聞いた話だ、と右の影を捉る魔について尋ねました時、――おのれ、胸に問へ!なぞと云うて、盲人から聞いた事は言はずに了つたのでありました。
此が飛んでもない心得違ひ。其の盲人こそ、其の婦に思ひを懸けて、影のやうに附絡うて、それこそ、婦の家の居まはりの瓦斯燈のあかりで見れば、守宮か、と思ふ形體で、裏板塀、木戸、垣根に、いつも目を赤く、面を蒼く、唇を白く附着いて、出入りを附狙つて居たとの事。
はじめから、威したものが盲人と知れれば、婦も然までは呪詛れずに濟んだのでありませう。」
七
「今度、……其の次……段々に婦に逢ふ事が少くなりました。
兎角むかうで、私を避けるやうにするのであります。
……殺して死なう、と逆上するうち、段々委しく聞きますと、其の婦が、不思議に人に逢ふのを嫌ふ。妙に姿を隱したがるのは、此の、私ばかりには限らぬ樣子。
終には猫又が化けた、妾のやうに、日の目を厭うて、夜も晝も、戸障子雨戸を閉めた上を、二重三重に屏風で圍うて、一室どころに閉籠つた切、と言ひます……
漸との思ひ、念力で、其の婦を見ました時は、絹絲も、むれて、ほろ/\と切れて消えさうに、なよ/\として、唯うつむいて居たのであります。
顏を上げさした……ト目が、潰れました。へい、いえ、其の婦の兩眼で。
聞きますると、私に、件の影を捉る魔ものの話を聞いてからは、瞬く間さへ、瞳に着いて、我と我が影が目前を離れぬ。
臺所を出れば引窓から、縁に立てば沓脱へ、見返れば障子へ、壁へ、屏風へかけて映ります。
映ると其の影を、魔が來て、吸ひさうで、嘗めさうで、踏みさうで、揉みさうで、絡みさうで、寢さうで成らぬ。
月の影、日の影、燈の影、雪、花の朧々のあかりにも、見て影のない隙はなし……影あれば其の不氣味さ、可厭さ、可恐しさ、可忌しさに堪兼ねる。
所詮が嵩じて、眞暗がり。我が掌は見えいでも、歴々と、影は映る、燈を消しても同じ事で。
次第に、床の間の柱、天井裏、鴨居、障子の棧、疊のへり。場所、所を變へつゝ、彼の守宮の形で、天窓にすぽりと何か被つた、あだ白い、胴の長い、四足で畝るものが、ぴつたりと附着いたり、ことりと圓くなつたり、長々と這ふのが見えたり……やがて、闇の中、枕の下にも居るやうに成りました。
見る毎に、あツと聲を上げて、追へば、其の疾い事、ちよろ/\と走つて消えて、すぐに、のろりと顯れる。
見まい、見まいの氣が逆上つて、ものの見えるは目のあるため、と何とか申す藥を、枕をかいもの、仰向けに、髮を縛つた目の中へ點滴らして、其の兩眼を、盲にした、と云ふのであります。
心も暗夜の手を取合つて、爾時はじめて、影を捉る魔ものの話は、坂の途中で、一人の盲人に聞かされた事を申して、其の脊恰好、年ごろを言ひますと、婦は、はツと、はじめて目の覺めたやうに成つて、さめ/″\と泣出しました。
思ひの叶はぬ意趣返しに、何と!右の其の横戀慕の盲人に、呪詛はれたに相違ありませぬ。
頬の肉を引掴んで、口惜涙、無念の涙、慚愧の涙も詮ずれば、たゞ/\最惜しさの涙の果は、おなじ思ひを一所にしようと、私これ又此の通り、兩眼を我と我手に、……これは針でズブリと突いたのでありまする。
三世、一娑婆、因果と約束が繋つたと、いづれも發起仕り、懺悔をいたし、五欲を離れて、唯今では、其なる盲人ともろともに、三人一所に、杖を引連れて、晝は面が恥かしい、夜とあれば通ります……
路すがら行逢ひました。
御迷惑か存ぜぬが、靄の袖の擦合うた御縁とて、ぴつたり胸に當る事がありましたにより、お心着け申上げます……お聞入れ、お取棄て、ともお心次第。
此の上は、さて、何も存ぜぬ。然やうなれば、お暇を申受けます。」
言の下より、其處に、話の途中から、さめ/″\と泣いて居た婦は、悄然として、しかも、すらりと立つた。
とぼ/\とした後姿で、長頭から三つの姿、消えたる瓦斯に、幻や、杖の影。
婦が、白い優しい片手で立つ時、眼を拭いた布が姿を偲ぶ……其の紅絹ばかり、ちら/\と……蝶のやうに靄を縫ひ……